不気味な黄金
「一つだけ、私のお願いを聞いてくれる?」
「聞きたくない」
「私がアナタを傷付けてしまう前に…………」
「やめろ! それ以上申すな!」
「私を、殺して欲しいの」
吾月が私に短刀を向ける。だがその鉾先は、私に向いていない。
そして次第に吾月の手が伸び、私の腕を掴む。それはなぞるように手元へ来ると、遂に私の手を握った。
「お願い」
岩肌の様な柄の感触。彼女はそれを握るように促すが、そんな事は断じて出来ない。
「やめてくれ吾月。きっと他の道があるはずだ」
「無いよ。もう抑制できないの。これ以上、自分の中の自分を、私自身では」
彼女の目は本気だった。
夜空のように澄んでいた黒い目。今では月のような黄金が混じっている。美しくも不気味な色。
「…………すまない」
たったそれだけを言って、私はその場を立ち去った。
救いの手を差し伸べるために来たはずなのに、私は彼女を見捨てたのだ。それも自分の為に。
――――それから数年後、吾月は消えた。
「お姉さまっ。今日も麗しゅうございます!」
天陽の書斎に行くと、そこには必ず雨月もいる。
吾月の代わりに神体を支配している雨月は、今では天陽にべったりだ。
「雨月殿。お主は貴し月の神として自覚し、もう少し自重した振る舞いをしてもらいたい」
「いいではないか律。雨月もそれは分かっておるだろう」
吾月とは違って、自分の感情を包み隠さず露わにする雨月は、天陽との関係も上手く築いている。否、天陽が求めている神を、ただ演じているような気がしてならない。
「うふふ。流石、お姉さまは此方の事をよく理解しておりますね」
「吾月の荒魂だろうと、余の妹に違いはないからのう」
嫌味の無い笑みを浮かべ、天陽の肩に頭を置く雨月の姿は、誠に彼女を慕っているかのようにも思わせる。
いや、もしかしたらそうなのかもしれないが、それでも、天陽が雨月と笑っている所を見るのは、とても我慢できるものではない。
「ん? どうした律」
私が席を立つと、天陽は小首をかしげながら問うてくる。
「野暮用を思い出した。少し出てくる」
もちろんそんなものは無いが、この淀んだ空間にいるよりかは幾らかマシなので、私はその嘘だけを残して部屋を出た。
「津、おるか?」
書斎を出てすぐの所にある広間。
私が囁くようにその名を呼べば、数ある柱の内の一本の影から、小さな神が姿を見せる。
「ここにおります。我が君」
「報告を」
私は天都の武神たちを統括している戦神ゆえ、幾柱かの神々に雨月を探らせていた。そして彼女には、その指揮を任せている。
だが、彼女の表情はどこか暗い。
「誠に申し上げにくいのですが、これと言って目ぼしい成果は得られませんでした」
「左様か。やはり雨月には、何の目的もないのだろうか?」
「分かりません。…………ですが私から見ても、あ奴からは何か異質なものを感じます」
影の神であるシンは、隠密に特化した神だ。故にその観察眼は信頼に足る。
だからこそ恐ろしい。あの雨月が何を目的とし、何を画策をしているのか、全く分からないのが。
「お前もそう思うか」
「ええ。――それと、恐れ多くも我が君。自らの神格も弁えず、貴女様に意見することをお許しください」
「何度も申すが、そういう堅苦しいのは端折ってよい」
「はぅっ。も、申し訳ございませぬ!」
誰よりも忠誠心の強い彼女は、事細かな礼儀すらも欠かさない。それこそが彼女を信頼する一番の理由であり、忍びの指揮を任せた理由でもあるのだが。
「それで?」
「はっ。今現在忍ばせている者たちの中には、この勅に疑問を持っている者も多数います。やはり、今の吾月様の状況を、部下たちにも開示すべきだと思うのです」
やはりそうなるか。
――私は、吾月が今、その神体の支配権を荒魂に奪われていることを隠している。天陽の妹である吾月が、今では全くの別神であるという事が知れ渡れば、天都は確実に混乱してしまうからだ。
しかしそれは天陽も同じこと。主宰神ゆえに、吾月が消えてしまった事を善しとしている事実を、他の神に知られる訳にはいかない。だから彼女は、未だに吾月の消失を天律神たちには黙っているのだ。
だからこそ私にとっても都合がいい。
天都がこの事実を知るよりも前に。天陽が中つ国の平定を終わらせるよりも前に。何よりも優先して吾月の神霊を取り戻す。
故に、今はまだ時期尚早。
「駄目だ。神々が雨月の事を知れば、吾月を信仰していた者達はきっと騒ぎ立てる。そうなれば天都は機能を失い、下界からの信仰も減ってしまう」
「で、ではせめて、先鉾にだけは明らかにしても良いのでは?」
「ならぬ。先鉾は私の部下ではあるが、奴らが忠誠を誓うのはあくまでも天陽だ。その天陽が良しとしているのなら、先鉾は何もせん」
私がそう言えば、彼女は眉間にしわを作って黙り込んでしまう。
シンに重荷を背負わせているのは分かっている。きっと彼女も苦しんでいるはずだ。生まれて間もない彼女だからこそ特に。
「……畏まりました」
「すまんなシン。苦労をかける」
彼女の頭に手を置き、撫でるようにその言葉だけを言う。
するとシンは顔を上げ、どこか照れくさそうに微笑む。
「い、いえ。姫様の為なら、骨身をも惜しみません」
「ふふっ、そうか。かたじけない」
「お、恐れ多いです!」
「それじゃあ、引き続き頼んだぞ」
「はっ」
そう言って私が立ち去ろうとすると、シンが珍しく引き留めてくる。
「あの。姫様」
「……ん、なんだ?」
「その、あの。この仕事が終わったら、また晩酌のお供をさせて頂けませんか? ――あっ、ご迷惑でなければの話ですが…………」
いつだったか、私が一柱で杯を傾けていた時、シンが酌をしにやって来た事があった。
酒が苦手な彼女だが、楽し気に飲むあの時の表情は今でも忘れない。あの晩だけは、どんな安酒も美酒に感じた。
「ああ」
私が笑みを浮かべて頷くと、彼女は水面のように目を輝かせ、再び頭を下げた。
「恐悦至極に存じます! このシン、寝る間も惜しまず勅を完遂してみせまする!」
「おい、無理はするな…………。って、もう行ってしまったか」
誠に恵まれているのだと感じる。彼女のような、心の底から信頼できる者が傍に居てくれて…………。
だがその二日後、私は彼女との約束を遂に果たすことが出来ず、その時を迎えてしまった。




