名月を遮る雨
翌日。朝陽は私との申合せを果たすため、共に社の離れにある吾月の仕事場へと足を運んでいた。
「吾月。お主に用向きがある。入るぞ」
さながら子供の様に、私の影に隠れる朝陽を他所に、私は書物庫の前で声を上げた。
しかし返ってくるのは無音のみ。
「おらぬのか、吾月?」
「おらんのならよい。仕事に戻るぞ、律」
そう言って、そそくさとこの場から離れようとする朝陽の袖を掴み、私は再度吾月へ呼びかける。だが結果は同じ。だから私は強硬手段を執ることに。
「入るぞ、吾月」
最後の言葉にも返事はない。
雨風に曝され続け、もはや枯れ木のようになった扉ゆえに、山をも越えそうな声量なら、決して聞こえないなんて事は無い筈。
「あ奴め、またフケておるのか?」
「……それならいいんだがな」
手触りの悪い扉に手をかけ、ささくれすらも気に留めないほど強く引く。
次に薄暗い室内を覗いてみるが、しかし整理された本棚だけが目に入るばかりで、吾月の姿はどこにも無い。
胸騒ぎがする。
そう思った次の瞬間にはもう、私の足は忙しなく動いていた。
「おい、どこへ行くのじゃっ」
「吾月の部屋だ」
神霊は感じる。否、感じていた筈だ。
それなのに私は、吾月が居るはずもない書物庫へと出向いてしまった。
本当に腑抜けだ。
「吾月、おるか?」
――――吾月の部屋。障子戸の前。私は彼女に問いかける。
すると声。
「ええ。此方ならここに」
ここにいる事は分かっていた。だが私は、ここへ来ることを後回しにしていた。
部屋に居るのが吾月ではなく、別のカタチをした異物かもしれないと恐れていたから。
吾月が、吾月ではなくなってしまう事が怖かったから。
「どうした夕律。開けんのか?」
「あ、ああ」
促されるまま静かに戸を滑らせ、私は視線を上げる。
そうして目の当たりにした風景に、私は絶望した。
「あぁ、お姉さまもいらしたのですね」
「…………誰じゃ、お主」
私の背後、悲風の如し静けさで朝陽が呟く。
だが彼女と同じく、私も、今まさに正面にいる女神に、吾月の面影を感じることが出来ずにいた。
「吾月…………なのか?」
「左様でございますとも。夕律姫」
とてもじゃないが信じられない。
私の知っている吾月は、もっと穏やかで、毬のような柔さを持った神霊の筈だ。
――だがコイツは違う。神霊も違えば、その外見さえも変わっている。
憂い気な目元は大きく開き、猫背気味だった背筋はしゃんと伸びている。否、口調も仕草も、その笑い方の一切までもが、まるで違うのだ。
「…………嘘を申すな」
「ふっひひひ。嫌ですわ。千歳もの時間を共にしてきたと言うのに、まるで初対面のように振舞うなんて、遺憾千万に存じます」
袖を口元にあてて嗤う女は、その黄金に輝く目を狐のように細める。
そして、いつも吾月が纏っている藍色の織物には、なにやら黒い染み。女が笑う際に見えたそれは、間違いなく“血”である事が分かった。
「夕律姫。それは一体、何の真似でございましょう?」
女の言葉に気が付けば、私は無意識のうちに腰の刀に手を添えていた。いつでも首を斬り落とせる、確かな間合いを保ちながら。
「よすんじゃ。律」
「…………っ」
あと一歩、朝陽による抑制が遅かったら、私は間違いなく鞘から刀を抜いていただろう。
だが無念な事に、その鉾先は決して届かなかったであろうことを肌で感じている。
「突然の事で余も気付かんかったが。お前とは一度会うておるな」
「ええ、ええっ。流石はお姉さまッ。此方の事を覚えていらしたのですね!」
「忘れる訳もない。初めて負かされた奴の事はな」
朝陽の言葉によって、ようやく私も理解した。
数千年前に朝陽と戦ったのは、この女神だったのだ。
普段の吾月からは予想も出来ない好戦的な態度。朝陽と互角に戦う彼女の姿。あの不敵な笑み。忘れもしない。
「しからばこ奴は、誠に吾月なのか?」
「ああ。間違いなかろう」
「ふふふ。先ほどから申しているではありませんか」
まさか。一つの神体に二つの神霊が宿っているのか?
――――いや、しかしあり得ない話ではない。私も元を辿れば朝陽の荒魂。だがその力が強すぎた故に化生した。
もし仮に、朝陽が私と言う荒魂を神体の中に閉じ込めていたままだったら、この吾月のようになっていても不思議ではないのだ。
「ならばお主は、吾月の荒魂か?」
「っひっひ。さぁて、どうでしょう」
まるで雲を掴もうとしている様だ。
だが、この女神が別の神霊であることは、踏み荒らされた燕の亡骸を見れば瞭然。問題は、どうすれば吾月を引き戻すことが出来るかだ…………。
「どうする朝陽」
「うーむ。難しい所じゃのう」
腹立たしい事に、朝陽はこの状況の中でも平然さを保っている。
自分の妹が神体を乗っ取られていると言うのに、その問題を解決しようという意思を全く感じないのだ。
「何を悠長な事を申しておる! 明らかに此奴は吾月にとって毒であろうっ?」
「何故そう思う?」
「お主も見ていただろッ。吾月が燕に対し慈愛の念を抱いていたところを! なのに今は。…………今は」
得体の知れぬ女神の足元で、もはや肉塊と化してしまった燕に視線を落とし、私は言葉を詰まらせた。
こんな事、きっと吾月は望んでいない。
「そち。名を何と申す」
「雨月。と申します。何卒、そのお記憶に留めておいてくださいまし。愛しきお姉さま」
「確と。してお主は、どちらの側に付く気でおるのじゃ?」
「――――朝陽ッ!」
「論なく、お姉さまの御心のままに」
その瞬間、私は抑えきれない怒りと共に、朝陽の胸倉を握り締めた。
「お前ッ、一体どういうつもりだッ!」
「手を離せ。夕律」
「お前と言う奴は、一体どこまで…………ッ」
「余の命じゃ。離せ」
「断る! その考えを改めない限り、私はお前に真向かうぞ!」
そう叫んだ時、私は朝陽の念力によって伏せられた。
いくら彼女の荒魂だろうと、結局私は副産物でしかない。消えかかった夕陽は、世界を照らす朝日には敵わない。
けれど。それでも私は…………。
「……朝陽。いや、天陽。頼むから考え直してくれ」
「生憎じゃが、余の考えは変わらぬ」
「吾月が消えてしまうかもしれんのだぞ」
「構わぬ。一つの障壁が消えるまでじゃ」
「なぜだ。吾月は、お前の妹だろ」
…………出来ることなら私は、朝陽と吾月の関係を元に戻したかった。
気は弱いが、決して自分の気持ちを曲げたりしない吾月と。それを拳骨一発で突き返す朝陽。
それが日常になっていた頃は、誠に楽しかった。私はただ、それを見て笑っていればよかったのだから。
でも、これは違う。
こんなのは、間違っている。
「雨月よ。その神体から抜かれたくなければ、余に忠誠を誓え」
「っひひひひ。ええ。仰せのままに」
これで、吾月が天都に歯向かうかもしれないという心配は消えた。
だがその代わり、私はもっと大切な物を失ってしまった。
それだけに、ただ悲しき涙が零れてくる。
私は今日、二柱の愛する者を失ってしまったのだ。
――――その翌日、私は一抹の期待を抱いて、再び吾月の部屋へと向かっていた。
“今日の事が嘘であって欲しい”そんな儚い願いと共に、私は昨夜を過ごしていた。
正直、彼女の部屋へ行くのは怖い。襖を開けた時、そこに居座っているのが奴だと思うと。
……けれど、その心配は彼女の声によって払拭された。
「夕律姫?」
吾月の部屋へ向かう途中、中庭から私を呼ぶ声が聞えた。
目を向ければ、そこには膝を着いて手を合わせる女神の姿。
「…………吾月なのか?」
「うん」
悲し気な目元を和らげ、小さく頷く吾月。
――その光景を見た瞬間、私は足袋のままで縁側を駆け下り、脇目も振らず犬の様に彼女に飛びついた。
「よかったっ。吾月、本当によかった!」
「ちょ、ちょっと。着物が汚れちゃうよ」
心地よい涙が目の玉を覆う。斯様に泣きじゃくるのは久方ぶりだ。
「吾月っ。誠にお主なのか? どこにも異常はないのか?」
「…………うん」
「そうか、良かった……っ」
童のように泣く私を、彼女が優しく包む。
「私の事を、心配してくれてたの?」
「当たり前だ!」
「……そっか。夕律姫は優しいね」
その優しき言葉が、余計に涙を煽って来た。
わんわんと泣く様はまさに不様だ。先鉾の部下たちに見られたら、きっと笑い草にされてしまうだろう。
けれど、それすらどうでもいいと思えるほど、私は嬉しかったのだ。
「――――ごめんね。心配かけて」
「構わぬ。お主がこのままで居てくれるのであれば、取るに足らん事だ」
「そっか。嬉しい。…………でもね夕律姫。貴女とは、ここでお別れしなくちゃいけないの」
「何を……申しておる」
「一つだけ、私のお願いを聞いてくれる?」
「聞きたくない」
「私がアナタを傷付けてしまう前に…………」
「やめろ! それ以上申すな!」
「私を、殺して欲しいの」
「――――ッ!」
目を覚ますと、目の前には見慣れた天井。
人の顔に見える不気味な木目。障子戸から差し込む眩しい朝日。隣からは金木犀の心地よい香り。
「ソウ様? 大丈夫ですか」
「え?」
「すごくうなされておりました。悪い夢でも見たのですか?」
夢? 夢だったのか?
いや違う。あれは記憶だ。何世紀も前の、ずっとずっと昔の出来事。
吾月はどうなった?
あれから夕律は、一体どうしたんだ…………?
「そっか。うなされてたんだ。ごめんね、起こしちゃった?」
「いえ、わたくしは大丈夫ですが、しかしソウ様が心配です」
「ありがと。私も大丈夫だよ」
私がそう言えば、ユキメは隣で微笑んでくれた。
神が配分を間違えて作ったようなその顔は、どんな不安さえも簡単に吹き飛ばしてくれる。
…………でも、今回ばかりはそうも行かない。
「ユキメ、今日も官学休んでいいかな?」
「ええ、それは構いませんが、また天都のお仕事ですか?」
先鉾の仕事もあって、私は度々官学の授業を休むことがあった。
でも今回は違う。
「…………ううん。今日は野暮用で」
「左様ですか。畏まりました」
眉を八の字にして困り顔を見せるユキメ。
彼女をあまり困らせたくはないが、しかし私は、直ぐにでも天陽様と話がしたかった。
「でも午後からは出席できるかもしれないから、あまり心配しないで」
「はい。お待ちしております」




