吾月
「生きてますか?」というメッセージをいただき、「生きてます」と答えました。
この歳でそういう遣り取りをするとは思ってもみませんでした。
最近“超”が付く程忙しいので、しばらくは不定期更新となります。ご了承くださいませ。
天都に佇む巨大な社。そこは主宰神を初めとする余多の神々の仕事場であり、同時に住家と申しても過言ではない。
なれば当然、そこが私の家であり、武官としての勤め口ともなる。
しかし事務仕事を主とする役方とは違い、いかんせん暇な私は、日がな一日ぼうっとしているのが現実だ。
「夕律姫!」
参道の如し長い階段を上がった先。この社の入り口にて、胡坐をかいて町を見下ろしていると、誰かが私の名前を呼ぶ。
振り返ればそこには女神。――姉の朝陽とは違って髪は短く、色もどこか冷たさを覚える雪色。
「吾月。また務めを疎かにしておるのか?」
私が溜め息を最初にそう申せば、彼女は口から歯を零し。
「だって、つまらないから」
と、申してきた。…………全く呆れたものだ。
だから私は彼女のためを想い、重ねて溜め息を吐きながらも言ってやる。
「朝陽に叱られるぞ」
太陽神である朝陽、もとい天陽から叱責されるのは怖いものだ。彼女の分身とも言える私でさえ、時折恐怖を感じるくらいに。
けれど吾月は、その物憂い気な目線を空に放って、思ってもみなかった言葉を呟いた。
「だったらいいなぁ」
迂闊だった。掛ける言葉も見つからない。
「……そうか」
――吾月と朝陽は、過去に一度だけ大きな争いを起こしている。姉妹喧嘩と言えばそれっきりなのだが、しかしあの時の私は、そう言う風には捉えられなかった。
見たことも無い顔ばせで、まるで楽しんでいるかのように戦う吾月。
そして、普段ならげんこつ一つで完勝する朝陽が苦戦を強いられ、終いには敗北。結果、岩戸に引きこもってしまい、世界から光が消えた。
それから天律神たちは、朝陽を出すべく岩戸の前で知恵を出し合っていたが、しかし吾月だけは、終ぞ姿を見せなかった。
朝陽の性格が原因で、昔から小さな喧嘩はよくあった。そして吾月が負け、いつも彼女が先に謝っていた。それなのに、あの時だけは違ったのだ。
そしてそれ以降、純粋な性格だった吾月は変わってしまい、常に何かに怯えるようになってしまった。
人の多い所を避けるようになり、得意だった帖付の仕事も辞め、今では書物庫で一柱、ひっそりと文献の整理を行っている。
朝陽との確執も、未だに解消されないまま。
「朝陽とは、まだ何も話してないのか?」
「…………うん。姉上とは、顔を合わせづらくって」
そう言って吾月は、優し気な目を半分閉じて下唇を噛む。その表情は、とても見られたものではない。
「なあ吾月。お主は…………」
ごん。と、私が言葉を言いかけたところで、何かが社に衝突したような、そんな乾いた音が耳に飛び込んで来た。
「なんだ?」
音が聞こえた方に目を向けると、胡麻のように小さな黒い物体が視界の端に映る。目を凝らしてよく見てみれば、そこには力なく横たわる燕の姿。
「燕か」
「下界から飛んできたのかな?」
「みたいだな。どうやら天下龍も、お主と同じく呆けているらしい」
私がそう申せば、吾月は口をつぐんで俯いてしまう。軽い冗談も真に受けるところが、吾月の可愛さでもある。だがそれ故に私は、変わってしまった吾月が不憫でならない。
「戯言だ。そう暗い顔をするな」
「もうっ、夕律姫は意地が悪すぎるよ!」
吾月も今では、私の前でしか感情を見せなくなってしまった。本音を申せば、もっと昔のように他者に対しても笑ってほしいのだが、今の吾月は初冬の氷柱のように脆いため、それをなかなか言い出せずにいる…………。
「私、ちょっと見てくる」
「あ、おい」
吾月はそう言って立ち上がると、ただまっすぐ燕の元へと歩んでいく。なので私も、すぐさま彼女の後を追う事に。
「どうだ?」
「息はあるみたいだけど、寸分も動かないよ」
しゃがみ込み、髪を垂らして燕を診る吾月。その視線には、苦しそうに呼吸をする小鳥。飛ぶ体力も最早残されていないように見える。
「たった一匹で、ずっとここまで飛んできたのだろうな」
「家族とは離れちゃったのかな」
「かもしれん」
まるで十五夜に焦がれる兎のように、彼女は膝を着いて燕の命を見守っている。
その光景は、今にも死にそうな燕に、自分の姿を重ねているようにも見えた。
「斯様に小さな命と言えど、放っておくのは可哀そうだ。さっさと楽にしてやろう」
「…………え」
「無益な痛みを、終わらせてやるのだ」
私がそう言えば、こちらに向けた目も再び燕に行く。非情に聞こえるかもしれんが、燕もきっと、それを望んでいる。
「こやつの神も、きっと赦してくれるさ」
「でもこの子は、まだ生きたいって思ってるんじゃないかな」
依然として視線を落としたまま、吾月は呟く。
どれだけ矮小な命でも、彼女は平等に思い遣ることが出来る。――――否、優しすぎるのだ。それ故に一柱で抱え込んでしまう。だから私は、その行く末が不安でならない……。
「看取るのか?」
「うん」
「そ奴は望んでおらぬかもしれんぞ?」
「そんなの分からないよ。結局私たちは、私たちの裁量で世界を決めないといけないから。他者の想いなんて、私たちには分からないんだから」
「だったら、そのまま放っておけば善いだろ」
吾月の言葉に被せてしまった。
故に沈黙が流れる。
恐らく彼女も気づいているのだろう。国造りが終わってしまえば、私たちが世界にしてやれることはもう何も無いという事を。
だから朝陽は、世界には干渉しないという道を選んだ。
「夕律姫も、姉上の考えに賛成なの?」
「そう言う事を考えるのは得意じゃないけど、朝陽がそう決めたのなら、私はそれに従う」
「下界で人々が苦しんでいても、私たちはただ眺めているだけなんだよ?」
「それに手を貸しても、世界は善い方向へは進まない。それはお主も分かっておるはず」
私がそう申せば、吾月は燕をすくい上げて立ち上がる。
「この話はまた今度にしよ。とりあえず今は、この子の看病に専念するよ」
そうして吾月はこの場を去る。
きっと私なら理解してくれると思っていたのだろう。…………けれど私は、間違えてしまった。
何も考えず、“朝陽の決定に従う”などと言って、私の意見を聞きたかった吾月の気持ちを、軽々しく踏みにじってしまったのだ。
きっと、今日の事を深く後悔する日が来るだろう。恐れている事が起きるとしたら、きっとその時だ。
吾月が吾月ではなくなってしまう事。彼女が天都に敵対心を抱くこと。下界と天界の神々が、対立してしまう事。
そうならない為に今何をするべきなのか、私には分からない。だから怖いのだ…………。
「吾月め、やぁっと消えよったかー」
――――吾月が去ってから少し経った後、変わらずの陽気さで朝陽が顔を出した。
「朝陽、いたのか」
「まあのぅ」
口を尖らせ、どこか面白くなさそうな顔をする彼女は、燕が墜落した場所を眺めながら口を開く。
「あ奴は元気じゃったか?」
「ずっと見ていたのなら、分かってるはずだろ?」
私がそう言えば、彼女は眉根を寄せてその表情を曇らせる。
だから私は、しばらく黙り込む彼女を見かねて、先に話を振ってやることに。
「朝陽、お主いつまでこうしておるつもりだ?」
すると彼女は、ため息を吐きながら秋の稲穂のような髪を弄り出す。
「律、お前もそれを言うか」
「…………吾月は、苦しんでおるぞ」
「そう言われてもな。最近のあ奴は全く分からんのじゃ」
「だがこのままだと、吾月は確実に我らの敵となるぞ」
どうやら私の言葉が刺さったらしく。朝陽は綺麗に伸びた親指の爪を甘噛みし始める。
爪を噛むのは昔からの悪い癖だ。解決が難しい問題に直面すると、彼女は赤子のように親指を歯で挟むのだ。
「その癖も、いい加減治したらどうだ」
「うるさいのう。言われずとも分かっておる」
苛立ちを隠せない朝陽は、明後日の方に睨みを利かし、小さく舌打ちをする。
私は朝陽の荒魂であるがゆえに、神として成熟する前の彼女を知らない。だが私が化生したときから、朝陽は何も変わっていない。だから余計に腹が立つ。
「もし吾月が天都を離れ謀反など起こしてしまったのなら、それこそ手遅れだぞ」
「うるさい! ならばどうするべきか申してみよ!」
「吾月に詫びを入れるんだ」
「それは嫌じゃ!」
本当にため息が出る。こやつは誠に成長しておらん。負けず嫌いな所も、恣意的な所も、何もかもだ。
「お前が変わらぬのなら、吾月も変わらぬぞ」
「むぅ! 何ゆえ夕律はあ奴の肩ばかり持つのじゃっ」
「今のお前を好いておらんからだ」
今まで溜め込んでいた感情が爆ぜそうになる。――だが、似たような感情を先に出したのは朝陽の方だった。
――――私は不意に胸倉を掴まれ、そのまま馬鹿にならん力で柱に叩きつけられる。
だが朝陽は、鬼のように息を荒くするだけで何も言わない。それどころか、今しがたの行為を強く後悔するかのように、見開いた目を次第に潤わせた。
そして着物の襟から手を離すと、朝陽はそのまま私の胸元に顔を埋め、せせらぎの様にすすり泣く。
「……なぜじゃ。なぜ左様な悲しき事を平然と言える」
まるで子供だ。吾月も朝陽も、まるで聞き分けの無い童の如し気立てである。
「朝陽。吾月との仲を戻せ。私も傍にいてやるから」
今朝はせっかく綺麗に着付けが出来たのに、朝陽のせいで着崩れてしまった。だが、斯様な物はまた直せばいい。それだけの手間で済むのなら、今の言葉も死にはせん。
「お主も吾月との縒りを戻したいのだろ?」
「……やかましい。糸の話は聞き飽きた」
「茶化すな。誠の気持ちを申せ」
私がそう言えば、朝陽はしばらく沈黙を保った後、口を開く。
「明日じゃ。明日、改める」
なんとも朝陽らしい言葉だ。とてもじゃないが、天都を統治する主宰神とは思えん。
だが、彼女がここまで素直になったのも初めてだ。
「馬鹿者」




