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龍人の子、陽の元に堕つ  作者: 麗氷柱
第四章 常しえに咲きし妖花
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大いなる妖の神

「――――マキノ。マキノ起きろ!」


 夜も更け、やっとの思いで家に着くと、私はマキノを起こすべく、玄関戸を蹴り破って出来るだけ声を張った。

 マキノは、私たちが信仰を集める際に負った傷や怪我をよく手当してくれた。それに、今頼れるのはマキノしかいない。あまりあの婆の事は好いておらんが、背に腹は代えられぬ。


「マキノッ、ユウヤミが怪我を負った、早く出て来い!」


 草鞋の締紐を解く時間も惜しいので、そのまま土足で家へ上がり込むと、私はユウヤミを抱えたままマキノの寝室へと向かう。


「おお、ヨツミ。貴女ですか」


 そして丁度居間に差し掛かったところで、廊下の奥からマキノが眠たげな顔ばせのまま、牛のようにのそのそと歩いて来た。


「ユウヤミが背に怪我をした。手当をしてくれ」


 その言葉を聞くや否や、彼女は眼を丸くして、脇目も降らずに私の傍に寄る。しかしまあ、それも納得できる。マキノからしたらユウヤミは、それだけ大切な存在なのだろう。


「早くこちらへ!」


 そして私の腕の中で眠るユウヤミを見て、マキノは額に汗を浮かばせながら踵を返す。

 …………よかった。これでユウヤミは助かる。


「お主はここで待て」


 ここまで金魚の糞のようについて来た山犬に、私はただそれだけ言って、マキノの後を追っていくことに。すると、やはり言葉が通じているのか、彼はその場に座り込み、ただ刺さるような眼差しだけを私に向けたのだ。


「心配するな。ユウヤミは大丈夫だ」


 ――――そうして、私は屋敷の一番奥にある一室へと向かう。

 その部屋には、怪我や病などを治す薬や道具が所狭しと置かれており、常に酒の様な匂いがするので、私はあまり好きではない。


「治りそうか?」

「手は尽くすわ」


 ユウヤミを布団の上に寝かせると、マキノは彼女の着物をゆっくりと脱がす。そうして露わになったのは、その白い肌には似合わない、夥しい数の刀傷。


「ところで、何故ユウヤミは、背に刀傷なんか負ったのです?」


 マキノは彼女の傷をまじまじと眺めながら、そんな事を私に聞く。


「ユウヤミは、突然神体が動かなくなった私を、庇ってくれたのだ」

「ふむ。貴女を庇って…………」


 そして彼女は、棚の中から一つの小壺を取り出すと、井戸から汲んで来た水で手を濯ぎ始める。どうやら薬を塗るようだが、しかしその表情は何か考え込んでいる様ではっきりとはしない。


「ところでヨツミ。神体が動かなくなったと言うのは、どういうことですか?」


 くそ。次から次へと。


「知らん! いいから早くユウヤミを手当てしろ!」


 毛が逆立つような苛立ちのままに私がそう怒鳴ると、マキノは視線をこちらに向けて、ただ一回だけ頷いた。


「分かったわ。ここは私に任せて、貴女は居間へ行ってなさい」

「…………私に指図するな」


 だがこちらとしても、こんな婆と同じ部屋に居座りたくはない。


「それと、貴女もこの薬を傷に塗りなさい」


 そう言うマキノの手には、見覚えのある古びた小坪。それは、ユウヤミが怪我をしたとき、よく傷口に塗っていた薬だ。


「いらん」


 だが私はそれを断り、襖を開けて部屋を後にした。

 せっかくユウヤミから受け取った傷なのだ。そこに糊のような液体なんか塗りたくはない。


 ……そうして部屋を出た後、私は傷口を清めるべく、外にある井戸へと向かうことに。だが斯くして廊下を歩いていると、その真ん中で傷を舐っている山犬が目に入る。


「来い。お主の穢れも祓ってやる」


 妖を殺したり、傷をつけられたりすると、そこから稀に不浄なる神が生まれることがある。そしてそれに取り憑かれると、宿主は物の怪や荒ぶる神になってしまうのだ。それを防ぐために、傷口はしっかりと清めねばならぬ。


「己の御霊を、己で清めることも出来んとは、獣とは難儀なものだな」


 ――――山犬と共に庭へと出た私は、桶に溜めた水で、山犬の傷口を洗ってやる。欲を言えば、社に湧いている水の方がいいのだが、妖の穢れくらいなら井戸水でも簡単に祓える。


「どうだ。いくらか楽になったか?」


 彼も私と共に戦い、そして相当の傷を全身に負っていた。だから私が、それを余すことなく洗ってやると、彼はまるで、別の生き物の様な姿になってしまった。


「あはははっ、それがお主の誠の姿か」


 綿菓子の様だった毛並みは、水を吸って萎えてしまい。さらに大きさも一回りほど小さくなってしまったのだ。こんな姿を見てしまったら、笑うなと言う方が無理がある。


「うわっぷ」


 さらに何の冗談か、山犬は全身を振るわせて、あろうことかこの私に水滴を飛ばして来たのだ。これには少しばかり呆れてしまう。


「笑った仕返しと言う訳か?」


 借りを作るのは嫌いな性分。故に私も、桶の水を手ですくい上げると、それを山犬にかけてやった。


 肌寒い秋の宵だと言うのに、まるで獣神の子供のように、私と山犬は寒さも忘れて戯れあったのだ。本当に楽しくて仕方がない。こんな気持ちになるのは初めてだ。


 …………そのときの私は、自分の孔が埋まっている事にも気づかず、ただ一心不乱に彼との禊を楽しんだ。まさにその時、ユウヤミの身が穢されていることも気付かずに。


※※※


 山犬との禊を済ませた私は、少しばかり燥ぎすぎた事を、震える寒さと共に後悔しながら屋敷へと戻っていた。我が神体と、なかなか乾かぬ山犬を拭くための手拭を探して。


 しかし屋敷の中では、まるで子供が跳ねているかのような、そんな鈍い音が一定の間隔で木霊していた。

 ――何の音だ?

 そう思った私は、その音の正体を突き止めるべく、糸を手繰り寄せるように音の鳴る方へと歩みを進めた。


「何なんだ一体」


 屋敷の奥へと進むほど、その音はどんどん大きくなる。

 ギシギシと軋む床。汗なのか水滴なのかも分からない物が頬を伝う。

 月明かりも差し込まない廊下は、まるで森の中にいるかのような暗闇を作り上げ。そして、ただただ何かを叩きつけているかのような音だけが闇の中で響く。


「マキノ。お前何をしてるんだ?」


 音がしていたのは、マキノとユウヤミがいる部屋の中から聞こえていた。しかし私が襖越しにそう聞いても、返ってくるのは同じ音だけ。


「入るぞ」


 そして襖に手をかけ、私はゆっくりと敷居を滑らせた。


「あら、どうしたのヨツミ。随分と濡れているじゃない」


 マキノの耳に障る声。一聞すれば気遣っているような優しい声音だが、私はいつも、その声にただ鬱陶しさを感じていた。

 しかし今は、それに苛立ちすらも感じない。


「何を、しているのだ?」


 ドン……ドン。


「ユウヤミはね、あのお方に神霊を捧げたのよ」


 ドン…………ドン。


「何をしているんだと、聞いている」


 ドン、ドン。と、屋敷の中に響いていた音は、マキノがユウヤミの神体に刃を突き立てている音だった。

 その手に握られた短刀は、ユウヤミの神体を貫くと、最後には床に突き刺さって鈍い音を放っていたのだ。


「この子は完璧ではなかった。吾月ごがつ様に相応しい神になるには、優しさなどいらぬのですよ」


 依然としてマキノは、刀を振り下ろしながらも言葉を続ける。


 ――そして、その音を聞きつけて来たのか、全身に水を吸わせたままの山犬が、低い声で唸りながらマキノに飛び掛かる。


「…………やめろッ!」


 私がそう叫ぶと、山犬は一瞬だけだが耳を動かした。

 多分私の言葉を聞こうとしたのだろう。しかしそれが命取りになったのか、山犬はマキノの一振りによって断たれてしまう。


「ヨツミ。まさか獣如きに情を移したのですか」


 力なく転がる山犬の死体。彼が切られる間際、私は彼を助けようと声をかけた。だが彼が死んだ瞬間、そんな心もとうに消え失せてしまった。


「ヨツミ。貴女は今日まで完璧だった。そしてあともう少しで、完璧な神となれるのです。故に、この娘はもう必要ない」


 まるで理解が追い付かない。ユウヤミは確かに完璧だった。信仰も集め、人々からも好かれ。そして私の孔を。…………孔を。


「孔が…………」


 ここで私は気付く。宇野師村から帰って、ここに至るまでの間、私の孔が確かに塞がっていたことを。そして再び感じる。その孔が、まさに山を飲み込む大火のように、私の心を蝕み始めていることを。


「苦しいのでしょう? 神霊が疼くのでしょう? 楽になるためには、声に従いなさい」


 声。それは恐らく、頭に響くあの声の事を言っているのだろう。だが生憎、その声はユウヤミが打ち消してくれた。

 それをマキノは知らないようだが、今の私は、身も心も全て、完璧に制御できる。


「…………マキノ」

「ええ、聞いておりますよ」


 目の前にはユウヤミと山犬の亡骸が横たわっている。私に愛をくれた彼女達は、もうここにはいない。

 そう思うと、彼女らに対する私の興味は、完全に消え失せてしまった。結局私は、自分の損得でしか物事を考えられないのだ。山犬もユウヤミも、私にとっては、ただ私に無い物を与えてくれる存在でしかなかったのだ。


「私はな、お前を初めて見た時から、思っていたことがある」

「なんでございましょう」


 そして彼女は私の物。あの山犬も私の物。これらを失ってしまったのは、私にとっては計り知れない損失。マキノにそれを奪われたのなら、今度は私が奪う番だ。


「私はお前を、殺してみたかった」

「畏まりました。貴女の望むままに致しましょう」


 それから私は、マキノの身体を使って思う存分楽しんだ。耳を引き千切ったり、目玉を抉ったり、足を斬り落としたり。とにかくこれまでの鬱憤を晴らすかのように、私は彼女をいたぶったのだ。

 そして最後、事切れたマキノがユウヤミの上に倒れた時、私の眼には、子を守る親の姿のようにも見えた。


「ユウヤミは、お前の事を母と呼んでいたな」


 そこから見出すは愛情。その一切を惜しむことなく、子に愛情を捧げる親の姿。それを見た時、私の心は、少しだけ楽になった。


「ふふふ。そうか。それも愛か」


 ああ、これで私は自由だ。もう何にも縛られない、まさに雲の如し存在となったのだ。


 もう誰にも笑わせない。あの美しい空にも、あの赫赫たる太陽にも。黄金に輝く月にさえもだ。


 私は生まれ変わった。否、私は今この瞬間に産まれたのだ。


 まるで今日という日が、私の降誕日の様な気分だ。


「うっふふふ、あぁ、なんて素晴らしい」


 そうして私は、今日まで私を縛り付けていた家を燃やした。言わずもがな、そこに一切の不浄はない。

 …………これはユウヤミと山犬への手向けだ。借りた物は返さなければ気が済まないのは、どうしようもない私の性でもある。そしてそれすらも、今では完全に私の物。


「私の神体。私の神霊。私の心」


 誰にも渡しはしない。誰にも奪わせはしない。奪われるくらいなら、私が奪う。


 そして家に火をつけてから四半刻にも満たぬ頃、さながら太陽のように燃ゆる瓦礫の中から、一つの影が浮かび上がって来た。


「ふふふ。そうかそうか。やはりお主は、ユウヤミに似ておるな」


 振りかかる火の粉を寄せ付けず、あまつさえこの目に神々しさを焼きつけさせる豪勢たる姿。


 背は家の屋根にも届きそうなほど大きく。口から覗くは岩をも砕かん美麗なる牙。毛並みはまさに灰の様な色合いで、その目は月にも負けぬほどの美しさを放っている。


大狼おおかみよ、我らに貸し借りはもうないぞ」


 しかし灰色の狼は、その鼻を私の神体に寄せると、頭を撫でろと言わんばかりに首を垂れる。


「そうか。私に憑いたのか、憂夜巳ユウヤミ。お主らは誠に、大馬鹿だな」


 ――――それから私は世界を楽しんだ。


 火付け。強奪。殺し。凌辱。蹂躙。やれることは全部やった。村を滅ぼしては次の村へ。その村が燃えれば次の村を。


 もちろん私を誅伐しようと躍起になる連中もいたが、しかしどうってことはない。斬られれば返し、捥がれれば返し、殺されれば返し。

 恐らくこの神通力と、この無駄に強靭な神体は、今の私の為に与えられたものだろう。


 そしてそんなことを繰り返しているうちに、私の後ろには魑魅魍魎が付き従っていた。中にはあの時殺しまくった妖の類もいる。もちろん私の隣にはユウヤミ。


 そんな彼らと暴れるのは楽しかった。共に喰らい、共に殺し、共に犯し。

 まさに悪逆非道と罵られるが、しかしそれは今に始まった事ではない。今もどこかで誰かがやっているし。獣や妖の世界ではそれが普通なのだ。


 弱きを殺し、強きを殺す。女は犯させ、男は犯す。子供がいれば親に守らせ、愛を感じる。

 そこに在るのは、ただただ孔を埋めたいがための欲望。

 飯を食らうように殺し、床に就くように殺し、用を足すように殺す。


 そしていつからか、私はこう呼ばれるようになった。


 山の麓より産まれし魔王。大妖津神オオヨツミ山本サンモトと。

 

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