大いなる妖の神
「――――マキノ。マキノ起きろ!」
夜も更け、やっとの思いで家に着くと、私はマキノを起こすべく、玄関戸を蹴り破って出来るだけ声を張った。
マキノは、私たちが信仰を集める際に負った傷や怪我をよく手当してくれた。それに、今頼れるのはマキノしかいない。あまりあの婆の事は好いておらんが、背に腹は代えられぬ。
「マキノッ、ユウヤミが怪我を負った、早く出て来い!」
草鞋の締紐を解く時間も惜しいので、そのまま土足で家へ上がり込むと、私はユウヤミを抱えたままマキノの寝室へと向かう。
「おお、ヨツミ。貴女ですか」
そして丁度居間に差し掛かったところで、廊下の奥からマキノが眠たげな顔ばせのまま、牛のようにのそのそと歩いて来た。
「ユウヤミが背に怪我をした。手当をしてくれ」
その言葉を聞くや否や、彼女は眼を丸くして、脇目も降らずに私の傍に寄る。しかしまあ、それも納得できる。マキノからしたらユウヤミは、それだけ大切な存在なのだろう。
「早くこちらへ!」
そして私の腕の中で眠るユウヤミを見て、マキノは額に汗を浮かばせながら踵を返す。
…………よかった。これでユウヤミは助かる。
「お主はここで待て」
ここまで金魚の糞のようについて来た山犬に、私はただそれだけ言って、マキノの後を追っていくことに。すると、やはり言葉が通じているのか、彼はその場に座り込み、ただ刺さるような眼差しだけを私に向けたのだ。
「心配するな。ユウヤミは大丈夫だ」
――――そうして、私は屋敷の一番奥にある一室へと向かう。
その部屋には、怪我や病などを治す薬や道具が所狭しと置かれており、常に酒の様な匂いがするので、私はあまり好きではない。
「治りそうか?」
「手は尽くすわ」
ユウヤミを布団の上に寝かせると、マキノは彼女の着物をゆっくりと脱がす。そうして露わになったのは、その白い肌には似合わない、夥しい数の刀傷。
「ところで、何故ユウヤミは、背に刀傷なんか負ったのです?」
マキノは彼女の傷をまじまじと眺めながら、そんな事を私に聞く。
「ユウヤミは、突然神体が動かなくなった私を、庇ってくれたのだ」
「ふむ。貴女を庇って…………」
そして彼女は、棚の中から一つの小壺を取り出すと、井戸から汲んで来た水で手を濯ぎ始める。どうやら薬を塗るようだが、しかしその表情は何か考え込んでいる様ではっきりとはしない。
「ところでヨツミ。神体が動かなくなったと言うのは、どういうことですか?」
くそ。次から次へと。
「知らん! いいから早くユウヤミを手当てしろ!」
毛が逆立つような苛立ちのままに私がそう怒鳴ると、マキノは視線をこちらに向けて、ただ一回だけ頷いた。
「分かったわ。ここは私に任せて、貴女は居間へ行ってなさい」
「…………私に指図するな」
だがこちらとしても、こんな婆と同じ部屋に居座りたくはない。
「それと、貴女もこの薬を傷に塗りなさい」
そう言うマキノの手には、見覚えのある古びた小坪。それは、ユウヤミが怪我をしたとき、よく傷口に塗っていた薬だ。
「いらん」
だが私はそれを断り、襖を開けて部屋を後にした。
せっかくユウヤミから受け取った傷なのだ。そこに糊のような液体なんか塗りたくはない。
……そうして部屋を出た後、私は傷口を清めるべく、外にある井戸へと向かうことに。だが斯くして廊下を歩いていると、その真ん中で傷を舐っている山犬が目に入る。
「来い。お主の穢れも祓ってやる」
妖を殺したり、傷をつけられたりすると、そこから稀に不浄なる神が生まれることがある。そしてそれに取り憑かれると、宿主は物の怪や荒ぶる神になってしまうのだ。それを防ぐために、傷口はしっかりと清めねばならぬ。
「己の御霊を、己で清めることも出来んとは、獣とは難儀なものだな」
――――山犬と共に庭へと出た私は、桶に溜めた水で、山犬の傷口を洗ってやる。欲を言えば、社に湧いている水の方がいいのだが、妖の穢れくらいなら井戸水でも簡単に祓える。
「どうだ。いくらか楽になったか?」
彼も私と共に戦い、そして相当の傷を全身に負っていた。だから私が、それを余すことなく洗ってやると、彼はまるで、別の生き物の様な姿になってしまった。
「あはははっ、それがお主の誠の姿か」
綿菓子の様だった毛並みは、水を吸って萎えてしまい。さらに大きさも一回りほど小さくなってしまったのだ。こんな姿を見てしまったら、笑うなと言う方が無理がある。
「うわっぷ」
さらに何の冗談か、山犬は全身を振るわせて、あろうことかこの私に水滴を飛ばして来たのだ。これには少しばかり呆れてしまう。
「笑った仕返しと言う訳か?」
借りを作るのは嫌いな性分。故に私も、桶の水を手ですくい上げると、それを山犬にかけてやった。
肌寒い秋の宵だと言うのに、まるで獣神の子供のように、私と山犬は寒さも忘れて戯れあったのだ。本当に楽しくて仕方がない。こんな気持ちになるのは初めてだ。
…………そのときの私は、自分の孔が埋まっている事にも気づかず、ただ一心不乱に彼との禊を楽しんだ。まさにその時、ユウヤミの身が穢されていることも気付かずに。
※※※
山犬との禊を済ませた私は、少しばかり燥ぎすぎた事を、震える寒さと共に後悔しながら屋敷へと戻っていた。我が神体と、なかなか乾かぬ山犬を拭くための手拭を探して。
しかし屋敷の中では、まるで子供が跳ねているかのような、そんな鈍い音が一定の間隔で木霊していた。
――何の音だ?
そう思った私は、その音の正体を突き止めるべく、糸を手繰り寄せるように音の鳴る方へと歩みを進めた。
「何なんだ一体」
屋敷の奥へと進むほど、その音はどんどん大きくなる。
ギシギシと軋む床。汗なのか水滴なのかも分からない物が頬を伝う。
月明かりも差し込まない廊下は、まるで森の中にいるかのような暗闇を作り上げ。そして、ただただ何かを叩きつけているかのような音だけが闇の中で響く。
「マキノ。お前何をしてるんだ?」
音がしていたのは、マキノとユウヤミがいる部屋の中から聞こえていた。しかし私が襖越しにそう聞いても、返ってくるのは同じ音だけ。
「入るぞ」
そして襖に手をかけ、私はゆっくりと敷居を滑らせた。
「あら、どうしたのヨツミ。随分と濡れているじゃない」
マキノの耳に障る声。一聞すれば気遣っているような優しい声音だが、私はいつも、その声にただ鬱陶しさを感じていた。
しかし今は、それに苛立ちすらも感じない。
「何を、しているのだ?」
ドン……ドン。
「ユウヤミはね、あのお方に神霊を捧げたのよ」
ドン…………ドン。
「何をしているんだと、聞いている」
ドン、ドン。と、屋敷の中に響いていた音は、マキノがユウヤミの神体に刃を突き立てている音だった。
その手に握られた短刀は、ユウヤミの神体を貫くと、最後には床に突き刺さって鈍い音を放っていたのだ。
「この子は完璧ではなかった。吾月様に相応しい神になるには、優しさなどいらぬのですよ」
依然としてマキノは、刀を振り下ろしながらも言葉を続ける。
――そして、その音を聞きつけて来たのか、全身に水を吸わせたままの山犬が、低い声で唸りながらマキノに飛び掛かる。
「…………やめろッ!」
私がそう叫ぶと、山犬は一瞬だけだが耳を動かした。
多分私の言葉を聞こうとしたのだろう。しかしそれが命取りになったのか、山犬はマキノの一振りによって断たれてしまう。
「ヨツミ。まさか獣如きに情を移したのですか」
力なく転がる山犬の死体。彼が切られる間際、私は彼を助けようと声をかけた。だが彼が死んだ瞬間、そんな心もとうに消え失せてしまった。
「ヨツミ。貴女は今日まで完璧だった。そしてあともう少しで、完璧な神となれるのです。故に、この娘はもう必要ない」
まるで理解が追い付かない。ユウヤミは確かに完璧だった。信仰も集め、人々からも好かれ。そして私の孔を。…………孔を。
「孔が…………」
ここで私は気付く。宇野師村から帰って、ここに至るまでの間、私の孔が確かに塞がっていたことを。そして再び感じる。その孔が、まさに山を飲み込む大火のように、私の心を蝕み始めていることを。
「苦しいのでしょう? 神霊が疼くのでしょう? 楽になるためには、声に従いなさい」
声。それは恐らく、頭に響くあの声の事を言っているのだろう。だが生憎、その声はユウヤミが打ち消してくれた。
それをマキノは知らないようだが、今の私は、身も心も全て、完璧に制御できる。
「…………マキノ」
「ええ、聞いておりますよ」
目の前にはユウヤミと山犬の亡骸が横たわっている。私に愛をくれた彼女達は、もうここにはいない。
そう思うと、彼女らに対する私の興味は、完全に消え失せてしまった。結局私は、自分の損得でしか物事を考えられないのだ。山犬もユウヤミも、私にとっては、ただ私に無い物を与えてくれる存在でしかなかったのだ。
「私はな、お前を初めて見た時から、思っていたことがある」
「なんでございましょう」
そして彼女は私の物。あの山犬も私の物。これらを失ってしまったのは、私にとっては計り知れない損失。マキノにそれを奪われたのなら、今度は私が奪う番だ。
「私はお前を、殺してみたかった」
「畏まりました。貴女の望むままに致しましょう」
それから私は、マキノの身体を使って思う存分楽しんだ。耳を引き千切ったり、目玉を抉ったり、足を斬り落としたり。とにかくこれまでの鬱憤を晴らすかのように、私は彼女をいたぶったのだ。
そして最後、事切れたマキノがユウヤミの上に倒れた時、私の眼には、子を守る親の姿のようにも見えた。
「ユウヤミは、お前の事を母と呼んでいたな」
そこから見出すは愛情。その一切を惜しむことなく、子に愛情を捧げる親の姿。それを見た時、私の心は、少しだけ楽になった。
「ふふふ。そうか。それも愛か」
ああ、これで私は自由だ。もう何にも縛られない、まさに雲の如し存在となったのだ。
もう誰にも笑わせない。あの美しい空にも、あの赫赫たる太陽にも。黄金に輝く月にさえもだ。
私は生まれ変わった。否、私は今この瞬間に産まれたのだ。
まるで今日という日が、私の降誕日の様な気分だ。
「うっふふふ、あぁ、なんて素晴らしい」
そうして私は、今日まで私を縛り付けていた家を燃やした。言わずもがな、そこに一切の不浄はない。
…………これはユウヤミと山犬への手向けだ。借りた物は返さなければ気が済まないのは、どうしようもない私の性でもある。そしてそれすらも、今では完全に私の物。
「私の神体。私の神霊。私の心」
誰にも渡しはしない。誰にも奪わせはしない。奪われるくらいなら、私が奪う。
そして家に火をつけてから四半刻にも満たぬ頃、さながら太陽のように燃ゆる瓦礫の中から、一つの影が浮かび上がって来た。
「ふふふ。そうかそうか。やはりお主は、ユウヤミに似ておるな」
振りかかる火の粉を寄せ付けず、あまつさえこの目に神々しさを焼きつけさせる豪勢たる姿。
背は家の屋根にも届きそうなほど大きく。口から覗くは岩をも砕かん美麗なる牙。毛並みはまさに灰の様な色合いで、その目は月にも負けぬほどの美しさを放っている。
「大狼よ、我らに貸し借りはもうないぞ」
しかし灰色の狼は、その鼻を私の神体に寄せると、頭を撫でろと言わんばかりに首を垂れる。
「そうか。私に憑いたのか、憂夜巳。お主らは誠に、大馬鹿だな」
――――それから私は世界を楽しんだ。
火付け。強奪。殺し。凌辱。蹂躙。やれることは全部やった。村を滅ぼしては次の村へ。その村が燃えれば次の村を。
もちろん私を誅伐しようと躍起になる連中もいたが、しかしどうってことはない。斬られれば返し、捥がれれば返し、殺されれば返し。
恐らくこの神通力と、この無駄に強靭な神体は、今の私の為に与えられたものだろう。
そしてそんなことを繰り返しているうちに、私の後ろには魑魅魍魎が付き従っていた。中にはあの時殺しまくった妖の類もいる。もちろん私の隣にはユウヤミ。
そんな彼らと暴れるのは楽しかった。共に喰らい、共に殺し、共に犯し。
まさに悪逆非道と罵られるが、しかしそれは今に始まった事ではない。今もどこかで誰かがやっているし。獣や妖の世界ではそれが普通なのだ。
弱きを殺し、強きを殺す。女は犯させ、男は犯す。子供がいれば親に守らせ、愛を感じる。
そこに在るのは、ただただ孔を埋めたいがための欲望。
飯を食らうように殺し、床に就くように殺し、用を足すように殺す。
そしていつからか、私はこう呼ばれるようになった。
山の麓より産まれし魔王。大妖津神・山本と。




