今は昔
遅くなりました…………。
ここからはヨツミの一人称で始まります。とは言っても少しだけですが( 一一)
「ヨツミ。ここの暮らしはもう慣れたかしら?」
神院と呼ばれる組織が設立した、神津杜と呼ばれる屋敷で暮らし始めて、はや数十年が経過したころ。私が朝餉を食べていると、マキノがそう問うてくる。
皿に盛られた種々雑多な山菜。それ以外は米と味噌汁のみの質素な朝食。この神津杜では、食事は朝夕の二回のみ。しかもその全てが、今朝の食卓と全く変わらない。いい加減うんざりしてきた。
だから私は、蔦のような不味い山菜を頬張りながら、その鬱陶しい質問にただ一回だけ頷いて見せた。
「そう。よかったわ」
「ところでお母様。今日はどの村まで信仰を集めに行けば良いのですか?」
私とマキノ以外にも、この屋敷にはもう一柱の女神がいる。
「今日は宇野師村まで行ってきてもらうわ」
「宇野師村ですね!」
この女神はユウヤミと言って、私より後にこの神津杜に入ってきた矮小な神だ。背丈も私の胸元ほどしかない。そして彼女はマキノを慕っており、そんな彼女の事をいつからか母と呼ぶ様になった。
「宇野師村って、山の向こう側だろっ。そんな遠くまで行かないといけないのかッ?」
神津杜に来てからというもの、私たち二柱は毎日毎日、信仰を集めるために何里も歩かされる。まるで、首輪をつけられた犬畜生の様に。
「ヨツミっ。お母様にそんな言葉遣いは駄目だよ」
「ユウヤミの言う通りよ。完璧で美しい神を目指すのなら、意識を改めなさい」
完璧な神。それがマキノの口癖だ。しかしそんな物に興味はないし、心底どうでもいいとさえ思っている。
「……はいはい」
そうして彼女らに責められた私は、小さく舌打ちをして、元より不味いが、しかし一層不味くなってしまった食事の続きを始めたのだった。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
――――朝餉を済ませると、マキノは早く行けと言わんばりの口調でそう言ってくる。だがこれも毎度の事なので、私はすっかり慣れてしまっていた。
「行ってまいりますっ」
ユウヤミはまるで子供の獣神のように、大手を振って玄関を出る。恐らく生まれたばかりでまだ未熟なのだろう。だが、そんな幼気な彼女を見ると、胸の奥がなんだかムズムズする。
最初こそは、この例えようのない衝動も直ぐに収まったのだが、しかし最近はどんどん酷くなる一方。一体この気持ちが何なのか、私は未だに分からない。
「ヨツミっ、今日はいい天気だね」
「…………ああ」
山に入ってから数刻したころ、私の少し前を歩くユウヤミは、変わらずの活力のままで空を見上げてそう言った。
だからそんな言葉に釣られて、私も空を見上げてみるが、しかし生まれるのは彼女の様な感情ではなく、ただただ腹の奥底に積もる強い劣等感だけ。
どこまでも澄んだ秋の青空。そしてその中心で輝く太陽。それらはまるで、私が持っていない物を、自慢げに見せつけているようにも見えた。
「ねえねえ、ヨツミはさ、完璧な神様になったら何をしたい?」
ユウヤミは突然振り返ると、背を前に向けて歩きながら、私にそんなことを聞いて来る。
だが私は、その質問の答えを知らない。なぜなら私は、マキノやユウヤミの言う完璧な神というやつには、到底なれそうにないからだ。――ただ今は、この心にぽっかりと空いた孔を、一体どうすれば塞ぐことが出来るのか。そんな考えだけが。……それだけが、私の頭の中で蠢き、脳を食らっている。
「お前は、何をするんだ?」
「ちょっとぉ、私が聞いてるんだよ」
「いいから教えろよ」
さながら栗鼠のように頬をふくらませるユウヤミに、私はそう冷たく言い放つが。それなのに彼女は、一切嫌な顔せず答えてくれる。何でそんな顔ができるのか、不思議で仕様がない。
「神様になったら私はね、助けを求めている人々を救ってあげたいんだ」
反吐が出そうなほどの綺麗ごとを、何の躊躇いもなく口に出すユウヤミ。
この頭上に蔓延する青空や、私を嘲笑うかのような太陽と同じく。こいつは、私には無い物を持っている。それを奪えるものなら奪ってやりたいが、しかし私はその方法を知らない。
「じゃあ今度はヨツミの番ね」
「私にはない」
「えーっ。絶対あるはずだよ!」
「しつこいぞ」
などと、そんな軸も持たない会話を続けながら歩いていると、私たちは遂に、目的の宇野師村にたどり着いた。
「はぁぁっ、着いたぁ!」
“信仰を集めよ”などと言われて、度々行かされるこの村は、肥えた土地と豊富な水で溢れている恵まれた村だ。故にその規模も大きく、盗賊や妖などの襲撃もそうそうないらしい。
そして、その環境のお陰もあってか、往来する村人たちは皆、悠々とした表情で生を励んでいるのだ。
「よしっ、それじゃあ今日も頑張ろうね!」
そうして村に着くや否や、ユウヤミは息荒げにそう言って、さっさと私の前から消えてしまう。
――神津杜からここまで半日以上は歩いたと言うのに、元気なものだ。
などと思い耽ながら、私はどこか休めそうな場所を探す。
「あそこだな」
村の外れにぽつりと佇む一本の楓。正面には村の田畑が広がり、後方には葉が落ち切ってしまった森林。人気の少ない場所を探していた私には、まさに絶好の場所だ。
だから私は、稲刈りを終えた茶色い田んぼのあぜ道を、思うがままの足取りで進みながら、その楓を目指す。
「一体、何がいいんだか」
そして木の根元に腰を下ろし、楽しそうに村の辻を歩く人や、せっせと汗を流しながら、刈り取った稲を天日干しにする人たちを眺める。一体何が楽しくてそんな事をやっているのかは分からないが、そんな村人たちを目に入れていると、自ずと虫唾が走るのだ。
「子供、親、恋人、夫婦」
私には、これらの言葉の意味が分からない。一体なんの利益があって、奴らは他人と生活をしているのだろう。アイツらは私と違って、青空の様な暮らしをしているのに、何でわざわざ自分に縛りを課すような真似をするのだろう…………。
「あー。くそ」
…………来た。またこの感覚だ。孔が疼くかのようなこの感じ。まるで芋虫が心臓を這っているかのような、このムズムズとした衝動。この切なさを晴らすことが出来れば、私の孔は埋まるのだろうか?
――――ガサッ。
と、背後の森林から物音が聞えてきた。
その音の正体を確かめるべく、腰を据えたまま振り向くと、そこには私に向かって牙を剥く、灰色の山犬が一匹。
「畜生か?」
いや、いつまでも唸っている様を見るに、人に飼われている様子はない。
「去ね。さもなくば殺すぞ」
しかし山犬は、逃げる素振りを見せるどころか、依然として牙を見せながら、ゆっくりと私に迫ってくる。まあ相手は獣。神語が通づるはずもない。
「そうか。ならば死ね」
そう言って私は、念動力で山犬を絞め殺そうと、掌を向ける。
生き物を殺したことはないが、かと言って殺すことに躊躇いがあるわけでもない。そもそも私には、命だとかはわからないのだ。
――――などと、そんなことを思いながら、私が念動力を発動させようとした瞬間だった。なんと山犬は、突然牙を収めたかと思うと、おもむろに私の手を舐りはじめた。
「な、なんだお前」
まるでナメクジが這い回っているかの様な触感。ただただ気持ち悪い。
だから私は、すぐさまこの手を引っ込めた。しかし誰に対しても愛想を振りまくこの感じ、どこかユウヤミと似ている。
「……その足」
そして私は、どこかぎこちない山犬の歩き方を見て、自然と視線が山犬の足元へと移った。
よく見ると、山犬は右後ろ足に怪我を負っており、灰色の毛並みには黒ずんだ血がこびり付いていたのだ。
「丁度いい。私の昼餉になれ」
このまま妖や他の獣に食われるくらいなら、いっそ私が食おう。
そうして再び山犬の頭に手をかざすと、山犬は甲高い声を出しながら尾を振り始める。今から食われると言うのに、呑気なものだ。
「…………いや、こいつを殺すと仲間が来るか?」
山犬は確か群れを成して行動しているはずだ。――そう思った私は、首を左右に振って辺りを警戒するのだが、それでもコイツの仲間らしき山犬は見当たらない。……どうやらこいつは一匹狼の様だ。
産まれた時から一匹なのか、それとも他の山犬に見捨てられたか。まあどちらにせよ、まだ腹は減っておらぬ。
私は肺に溜まった空気を抜き、視線を再び村の方へと向ける。
腹が減ったら殺そう。だが、逃げられたら逃げられたで構わん。
――――そして、一体どれだけの時が流れただろうか、気付けば日は西へと傾いていた。しかし隣にはまだ、あの山犬が居座っており、かいがいしく足の傷を舐めている。
「痛むのか?」
私がそう声をかけると、まるで言葉が通じているかのように、山犬は情けない声で鳴く。
だから私は、そんな山犬の足に手をかざして、その傷を治してやることにした。食う前に腐られたんじゃ、適わないからな。
「夜鏡神」
私の神通力は、この身に受けた傷を他に移すことが出来る。それが生き物であれ、そうでなかれ関係無しに。しかし不便な事に、相手から受け取った傷は、最早どこにも移すことが出来なくなるという欠点がある。
「…………っ」
山犬の傷が癒えると同時に、私の右足に痛みが走る。私の神体からすれば、こんなのはかすり傷だ。しかしこの私が、まさか獣如きの傷を受け取る事になるとはな…………。
「貸が一つだ。その身をもって償えよ」
私がそう言って頭を撫でてやると、まるで元気を取り戻した山犬が、何の冗談か今度は私の頬を舐め始める。
「おいよせっ」
しかしこの時なぜか、今までどうしようもなかった私の孔が、少しだけ埋まったような感覚を覚えた。そして同時に、その孔を塞がせまいと湧き出る声。
その声の正体は終ぞ分からないが、まるで私が私ではないような感覚に陥る。
「――――ああっ、こんな所にいた!」
その明るい声にふと気が付けば、大きく手を振りながら、小走りでこちらに駆け寄ってくる一つの影が見えた。
「ヨツミっ、もうすっごい探したんだからね!」
「す、すまん」
…………すまんだと? 何なんだ、何で私は、ユウヤミなんかに謝った。
「いいよ。じゃあ帰ろっか」
初めて口にする言葉に、私はつい動揺してしまった。
しかしユウヤミはそんな私に構わず、その顔に満面の笑みを作ると、蛇の如し速さで私の手を取って、引っ張るように私を立ち上がらせる。
「ねえねえっ、それより何このワンちゃんっ。可愛いぃ!」
そして最初こそはユウヤミに威嚇をしていた山犬も、ついに彼女を敵だと認識しなかったのか、今では良い様に撫でまわされている。
そんな光景を目の当たりにすると、まるで胸が満たされるかのような充足感と、それを拒絶するかのような薄気味悪い声に再び襲われる。
そして私が、私でなくなってしまうような感覚。全く持って分からない。
――――だが私は、その初めて味わう正体不明の感情と、頭の中で蠢く謎の声を、もはや特に気にも留めずに、なぜか付いて来る山犬と、嬉しそうに笑うユウヤミと共に帰路についたのだった。




