祝詞3
龍文書―15
【黄泉の国】:死者の国。下界よりもさらに下部に位置する。通ずる道は一本だけあるが、知る神は少ない。
「いかがですか? 初めての纏いは」
――――気が付くと、私は見慣れた我が家の中庭に立っていた。
驚くことに、あの空間でどれだけの時間を過ごそうと、現実では一秒の時間も経ってはいなかったのだ。
「纏い?」
この言葉は書物にも書かれていないな。――待てよ。もしかして家の書物って、あまり当てにならない感じか?
「纏いとは、神のお力を得ている状態の事です」
私が質問するとユキメはいつも嬉しそうに答えてくれる。だから彼女には気兼ねなく聞けるのだ。
しかし“纏い”と言うのか。何ともおしゃれな名前だ。しかし…………。
「うーん。何かイマイチぱっと来ないなあ」
想像してたのと違う。というより、ユキメがやって見せた時より迫力がない気がする。どうした最高神。
「ふむ。天陽大神は願いを聞き入れてくれる神様です。もしかしたら、願い事がないと祝詞は無効になるのかもしれませんね」
なるほど。ユキメは水の神を信仰しているから、祝詞を奏上した時点で水を操れるようになる。でもアマハル様は特殊だから、それには当てはまらないって事か。
「しかし、いくら短いとは言え、ひふみ祝詞を一発で覚えるとは。さすがソウ様です」
「まあね」
ユキメはそう言って、小さくかがんで私の頭を撫でる。人に頭を撫でられるのはいつでも心地いいものだ。これも子供の特権。今のうちに堪能しておこう。
――――そうしてその日の武鞭は終わり、私は倒れるように布団へと潜った。時間はまだ夕刻だが猛烈に眠い。禊に契約、そして纏い。今日のイベントは濃かった。
そういえば、明日からは何を勉強するんだろ? ユキメから聞いておけばよかった。
枕に顔をうずめ、羽毛のように柔らかい布団を頭にまで被る。この瞬間が何とも言えないくらい心地いい。ご飯を食べることの次に好きだ。
「…………きて」
なんだ? 誰かが私を読んでいる。
「起きてソウ」
襖の奥から優しい声が聞こえる。
お母さんか? 夕飯ならいらないから、このまま朝まで寝かせて欲しい。せっかく布団も暖まっていることだし。
「朝よ、ソウ。武鞭に遅れるわよ」
朝だって? そんな馬鹿な。さっき布団に入ったばかりなのに。
「朝ごはん、もう出来てるからね」
その言葉を耳に入れて、私は亀のように布団から頭を出す。すると、爽やかな陽の光が障子を貫いて、私の眼球に突き刺さる。
「――――え! もう朝!?」
布団を押し退ける。今何時だ?
私は急ぎ、枕元に用意していた袴を身に着ける。
ひもが多くて最初は何が何だか分からなかったが、何十年も着続けていれば、もうお手の物だ。
「おはようございます!」
朝日が直接当たらず、日陰と日向が丁度よく織り交ざる居間。小さい中庭がよく見渡せ、たまに響く鹿威しの音色が、眠たい脳を起こしてくれる。
「お早うソウ。禊に血交わしの儀式。昨日は大変だったな」
そういう父上の食器にはまだまだ食べ物が残っている。ゆっくり食べるのはいい事だ。私は早食いだが、そこは母親似なのだろう。
「うん。昨夜はあっという間に寝ちゃった」
「子供はそれくらいが丁度いい!」
父との会話を進めながら、私は食卓に並べられた朝ごはんをパクパクと口に運んでいく。朝はパン派だが、存外、米と味噌汁も悪くない。
「――――それで、ソウはどの神と血を交わしたんだ?」
「アマハル様だよ」
まだ少し眠く、そのせいか白米が上手く喉を通らない。朝の閉じた喉には、米はいささか窮屈すぎる。
「い、いま何と申した、ソウよ?」
「ごめんなさい。天陽大神様だよ」
迂闊だった。アマハル様と呼ぶのは本人の前だけにしておこう。他の人の前でこんな呼び方したら、罰当たりな奴だと思われる。
箸で紅鮭の身をほぐし、その淡く色付いた身を白米の上に乗せる。そうしてそのまま白米と一緒に食べようとしたとき、瞬く間に食卓が私から離れていく。
「なんという事だ。大御神が、大御神様が我が子とご契約なされたというのかッ?」
私を抱きかかえたまま、父上は雄叫びを上げる。
全く、朝はゆっくりと食べたいんだけどなあ。ってあれ。私がアマハル様と契約したって今初めて知ったのか?
「かの大神様が。龍人族は愚か、他の獣神とも血を交わさなかった太陽神様が。まさかうちの子と血を交わすなんて! 皆の物、今夜は祝いじゃぁ!」
私の何倍もの大きさの顔から、何倍もの大きさの涙が溢れ出てくる。もちろんその量も倍量だ。
しかしまいった。この事はもっと後で言うつもりだったのに、ついうっかり口を滑らしてしまった。
「父上っ。そろそろ降ろしてください。武鞭に遅れてしまいます!」
もう少しこのままでいたいが、ユキメを待たせる事だけはしたくない。それにまだ紅鮭も食べていないのだ。
「おお、すまない。ではまた今夜にでも、ゆっくりと話を聞かせてもらうからな」
「はい、もちろんです!」
そうして私は母の作った朝ご飯を口へかき込み、今日の武鞭に期待を膨らませながら、ユキメとの待ち合わせ場所へと足を急がせるのであった。




