狂狂まわる
斯くして私たちは、ようやく部屋へと案内されることとなったのだが、しかしこれまた、案内された部屋がとんでもなく大きかった。
「うわ。なんだコレ」
「こ、これはまた、使い道が見いだせないですね」
中居さんに案内されるままに、私たちは宛がわれた部屋へと足を踏み入れた。そしてそこから見える光景は、もう客室なんて言葉には収まらない程の空間だったのだ。
小さな中庭をぐるりと囲うように三つの部屋が置かれ、その用途の異なる部屋を、渡り廊下で行き来するような造りの部屋。と言うより、もはや一軒家だ。
加えて、一番奥の部屋からは、見渡す限りの大海原を一望できるのだ。これは紛れもないスイートルーム。なんだか妃屶を平定したくなってきた。
「わぁ、ソウ様、池に鯉がおりますよ」
「おおお。しかも超高そうな錦鯉」
「食べても良いと言う事でしょうか?」
「駄目に決まってるでしょ。追い出されちゃうよ」
今の発言から察するに、どうやらユキメは空腹なようだ。まあ妃屶に入ってから半日、何にも食べてないからなあ。
しかしもう少し我慢してもらわねば。私たちの真の目的は、まだ達成されていないのだから。
――――と言う訳で、目を凝らす絶景をまだ惜しむ心を抑えながら、私たちは障子戸を閉め切って、暖を取りながら話し合う。
「それじゃあ、天孫降臨まで時間が無いし、さっさとこの国を調査しよう」
「そうですね。しかし一体、どこから手を着ければいいのやら」
「見た感じ、栄白は治安の良い街みたいだけど、もう少し歩いてみた方がいいかもね」
「なるほど。先ずは足元を固めるという事ですね」
「そ。灯台下暗しって言うし」
などと、私たちは据え置かれた茶菓子を頬張りながら、のんびりと作戦会議をする。まあこれだけの部屋だ。ゆっくりしたい気持ちの方が勝るというもの。それにクサバナも、気持ちよさそうに寝てしまっている。
「まあ、もう少しゆっくりしてから行こっか」
「ふふ。致し方ないですものね」
だから私が気を利かせて言うと、ユキメは呆れたように笑って、その視線をクサバナへと向けた。まあ今回のクサバナは、休暇で来ているようなものだからな。仕方ないと言えば、仕方はないのかもしれない。
――――そうして私たちは、しばらく客室にて足を伸ばし、取るに足らない小話をしながら、悠々自適にその空間を満喫した。
ユキメが官学生だった頃の話とか、子供の頃はどんな性格の子だったのかとか。まあ色々とだ。
しかし最後に聞いた質問。過去にどれだけの男と付き合った事があるのか。という質問の答えに、私の愛は狂い始めた。
「私がまだ学生だった頃、一人だけ行交っていた殿方がおりました」
「へえ。そうなんだ」
「こ、この話は止めにしませんか?」
多分その時の私は、かなり面白くなさそうな顔をしていたのだろう。ユキメは言葉を詰まらせながらそう言ってきた。
「んーん。もっと聞きたい」
正直に言えば、最初からもっと突っ込んだ質問をしたかったのだが。しかしそれはあまりにも無粋だと感じた。まあ過去の男の話なんか、超が付く程どうでもいいのだが、それでも聞かずにはいられなかったのだ。
「うーん、そうですね。どこから話せばいいのか」
顎を指で挟みながら、彼女は記憶を掘り起こし、その言葉を皮切りに話を始めた。
「あれは丁度、官学の卒業が近い頃でした。5年生の頃から交際していた私たちは、互いに初心だったこともあり、特に進展はなかったのですが。しかし卒業間際、その相手が急に、私に縁談を申し込んできたのです」
「縁談っ?」
「ええ。それには私も驚きました」
「それで、その後どうなったの?」
そして私は嫉妬の心も忘れ、ただ食い入るように言葉の続きを待った。だがそれもその筈だろう。今は私と一緒に行動しているユキメも、もしかしたらどこぞの男と結婚していたかもしれないからだ。そしてもしそうなっていたら、私とユキメが出会う事は無かったのかもしれない。
そうしてユキメは口元を綻ばせながら、どこか切なげな表情で「断りました」と言った。しかしその言葉を口にしたときの彼女の顔は、今でも忘れらないくらい、寂しそうな顔をしていた。
「な、なんで?」
私がそう聞くと、ユキメは伏せた視線をこちらに戻して言葉を続けた。
「まだ、早かったのです。もちろん年齢的にもですが、それ以前に私は、ヨウ家の侍女となる事しか頭になかったので」
「そうなんだ…………」
当然だが、その話に私の名前は出てこなかった。その言葉が、“ソウ様の侍女になる事しか”。だったら、どれだけ心が楽だったことだろう。
私はずっと、ユキメとの出会いを運命だと思っていた。向こうの世界で命を落とし、ヨウ家に産まれて、ユキメと出会った。しかし結局、それも偶然に偶然が積み重なったが故のたまさかに過ぎないのだ。
もし彼女の両親が亡くなっていなければ、彼女は私を知る事も無かった。そして彼女は結婚し、幸せな道を歩んでいた筈だ。両腕で我が子を抱き、その目で愛を捧げていたのだろう。
だったら、今のユキメは本当に幸せなのか?
自分の人生を捨て、その全てをヨウ家に捧げる事が、彼女にとっての本当の幸せなのか?
分からない。「ユキメは今幸せなの?」なんて聞くのは簡単だが、そうすれば彼女のこれまでを否定する事になる。今は確かに彼女も幸せを感じているかもしれない。だが、ユキメにはもっと別の幸せがあったのではなかろうか…………。
――――もし、それを邪魔しているのが、あの時の誓いだったら?
「ソウ様、ソウ様?」
今、私たちは街人に聞き込みをするべく、旅籠を出て栄白の大通りを歩いている。
しかし旅籠での会話によって、私は何事にも身が入らなくなってしまっていた。ずっと頭の中で、同じ考えがグルグルと巡っているのだ。
そして、そんなどこか上の空の私を心配したのか、ユキメは顔を覗き込んで優しく声をかけてくれた。
「如何されましたか?」
「ううん。大丈夫」
何が大丈夫なもんか。彼女を縛り付けているのは私かもしれないのに。
…………でもだからと言って、私は彼女に離れて欲しくはない。だってこんなにも愛しているんだから。それに、再びユキメが私の前から居なくなった時、振り返るのが怖くなってしまいそうで。
「ねえユキメ」
「ええ、なんでしょう?」
いつもと変わらない、優しさを含んだ笑みで、ユキメは私を見つめる。
でも怖くて言えない。それを言ってしまった時、彼女の心が何処へ向かってしまうのか分からない。それ故に怖くてたまらないのだ。
「ごめん、やっぱいいや」
もしかしたら、私にはユキメを愛する資格なんて無いのでは?
――――パン。
と、聞きなれた破裂音が耳に入る。ユキメが自分の頬を叩いた時の音だ。
彼女はいつも、心を切り替えるとき、そうやって手を弾いていた。しかしそれが出来ない今、彼女は自らの頬を軽く叩くようになったのだ。
「ソウ様。あそこに団子屋がありますよ」
彼女が指さす先。そこには日除けの和傘が、なんとも重そうに雪を受け止めながら、甘味を食す人たちを守っていた。
「少し休憩していきませんか?」
「うん。そうだね」
どうやら、彼女の癖のお陰で、私も心を切り替えることが出来るようになったようだ。
そうだよね。せっかくユキメとの時間を過ごしているのだから、私も彼女に倣って、今は楽しまないと。




