さようなら世界
西ノ宮より遥か西方の国々。その中でもとりわけ甚大である妃屶国は、民を武力による圧政ではなく、地に足を着けた政治活動によって、国としての形を保っていた。故に国は豊かで、作物は豊作。冬の間も難なく過ごせる程の備蓄に溢れている。
そんな流るせせらぎまでもが、まるで安らいでいるかのように聞こえる冬のある日。降りこめる雪は大地を白染め、てらてらと夜月の明かりをその身に受ける夜に、それは起こった。
――――妃屶の最北端に位置する大きな村。その名を宇野師村と言い、並ぶ建物からは、明るい声とロウソクの淡い光が、立派な障子戸から楽し気に漏れていた。
「サルハミィっ、ご飯だよ」
「はあい」
宇野師村の中でも取り分けて大きな一棟の屋敷。
燃ゆる石が入れられた火鉢は、毛穴が閉じ切ってしまう程の寒さを和らげ、一家団欒の時間を暖める。
「……また干し肉」
「文句言わないの。冬の間は辛抱しなさい」
「オイエの言う通りだ。食べられるだけ有り難く思え」
二十畳ほどの茶の間にて、小さな食卓を囲む城狼族の家族。男と女の耳はピンと立ち、息子の耳は濡れた髪のように垂れている。
そして彼らは、泡沫のように短い一日の終わりを感じながらも、どこか陰鬱な会話を挟みつつ、夕餉に舌鼓をうっていた。
「サルハミ。今日の武鞭はどうだった?」
サルハミと呼ばれる齢8歳くらいの男子は、そんな男の言葉に、噛みちぎった干し肉を飲み込んで息を取り込んだ。
「うん。他のみんなよりも、割と良い成績だったよ」
「本当か?」
「う、うん」
男の責め立てるような目つきに、サルハミは怯えて俯いてしまう。しかしそんな事をしてしまえば、彼は嘘を吐いていると疑われてしまう。
「サルハミ。あんたまた嘘を吐いてるんじゃないでしょうね」
「お前は嘘をつく癖があるからな。それが本当か怪しいものだ」
そう言ってサルハミの両親らしき二人は、まだ湯気が立ち上る鹿肉を頬張る。
一見すれば、彼らはごく普通の家庭にも見えるが、しかし何皿もの煮炊きが並ぶ円卓に目を向ければ、そこには誰が見ても明らかな差があった。
「ほ、本当だって……」
「俺の目を見て答えろッ!」
たじろぎ、目に涙を浮かべるサルハミに、父親は容赦なく声を尖らせ、机に手を叩きつけた。
まだ年端も行かぬ子供にとって、その鈍い音と鬼のような形相は、ただただ身の危険を覚える恐怖でしかない。
「ごっ、ごめんなさい!」
「ほら! やっぱりこの子、嘘を吐いてたんだわ!」
黒板を引っ掻くかのような声音と。迫り来るその気迫から自分の身を守ろうと、彼は枝のように細い腕を顔の前に突き出した。
「あんた、何とか言ってやってちょうだい!」
まるで狐のような細い目つきを夫に向けるオイエ。しかしその口元は、僅かに歪んでいるようにも見える。
そしてその言葉を聞いた父親は、顔の影をますます濃いものにし、サルハミへと迫った。
「サルハミ。お前にはもっと、躾が必要なようだな」
「いっ嫌だッ。痛いのは嫌だよッ!」
「黙れッ! 大体お前が来てから、俺たちの金は減るばかりなんだぞッ!」
そう怒鳴っては、サルハミの耳を掴み上げる男。
しかし痛がるサルハミには構わず、男の傍でオイエは笑いながら、何とも美味そうに料理を口に運ぶ。
「全くよ。そのくせお前と来たら、碌に働くこともせずに、かと言って良い成績を残すわけでもなく、ただ飯だけを食う始末。もうたまったもんじゃないわ」
などと、オイエは依然として食卓に向かいながら、唾液と共に愚痴を溢す。しかし身体も小さく、まだ力仕事もままならないサルハミにとって、それはこの上ない言いが掛かりでもあった。
そして男はこう言う。
「オイエ。湯を沸かせ」
「ふふ。少し待ってて」
これまで頑なに動かなかったオイエだったが、しかしその言葉を耳にした途端、まるで羽でも付いているかのような足取りで、鼻歌交じりに台所へと歩いて行った。
「許して下さいっ、許してくださいっ。もう嘘は吐きませんからッ」
「だったら、俺がいいと言うまで許しを請うんだ」
醜く歪んだ表情のまま、男はサルハミに冷たく言い放つ。だがもちろん彼にその気はなく、代わりにあるのは、ただただ弱者をいたぶる事によって覚える愉悦のみ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
…………と。彼はひたすら頭を下げ続ける。
醜く黒ずんだ闇の部分。それを知るにはまだ早すぎるが故、サルハミにとって、それがどれだけの恐怖であるのかは、もはや誰にも理解はできないだろう。
弱きを守る存在だと思っていた大人。そしてそれに裏切られる恐ろしさ。抗う事すら出来ない圧倒的な力。痛み、その絶望と防衛本能。それが彼にとっての普通であり、それが彼にとっての現実だった。
覚めない夢はないが、かといって彼には見る夢も無い。そんな毎日に身を置いていたサルハミ。そうして男児は、絶え間なく襲ってくる恐怖に、ただ身を任せる事しか出来なくなっていた。
「口が止まってるぞッ!」
「…………ぁぐッ」
内臓が潰されるかのような衝撃と、その痛み。そして口の中に広がる血の味それすらも、彼にとっては世界の一部だった。
弱きを助け、強くを挫く。そんな有りもしない神話のような言葉は、同時に不平等という三文字を彼に植え付けた。
「はっはっはッ。全く、兄貴様様だ」
「…………お、とうちゃん」
痛みに耐えかねたのか、それとも腹部を守るためか。彼は小さく床にうずくまると、まるで縋りつくようにその言葉を口にした。
しかしそんな想いすらも、男はその薄汚い言葉で凌辱する。
「感謝しねえとな。お前の父ちゃんが死んでくれたお陰で、大金と玩具が手に入ったんだからよ」
「…………もう…………許して」
男はサルハミを踏みつけると、その体重を徐々に傾ける。そうすれば、サルハミの小さな身体は次第に崩れ、遂には腹ばいになってしまった。
「お前の母ちゃんなあ、アレはいい女だぜ」
目から光が消え失せ、しかし尚もその口で許しを請うサルハミの耳元で、男はこう言葉を続ける。
「……ここだけの話、オイエとは比べ物にならねえんだ」
そんな何処までも下劣な言葉を聞いても、彼にとってはそれが日常。男に対して怒ればいいのか、それとも母を想って悲しめばいいのかすら、サルハミは分からなくなっていた。
彼にとっての感情とは、かつて持っていた喜怒哀楽を指すものではなく、ただの苦しいだけの恐怖でしかない。否、彼にはそれしか残っていなかった。
「あんた、湯が沸いたよ」
先ほど土間へと消えた女が、ぐつぐつと煮えたぎる釜を両手に戻ってくる。
「おう。持って来い」
「顔以外にしなよ。また村の連中に変な目で見られたら、たまったもんじゃないからね」
「ばーか。お前が良い女だから、男どもが釘付けになってるんだよ」
「うふふふ。また上手いこと言って」
などと言って、女は男に熱い口付けを交わすと、その手に持っていた釜を男に渡した。そしてその足元には、恐怖で震える小さな男児。
「ほおらサルハミ。寒いなら暖めてやる」
その言葉は、これから耐え難い苦痛が始まるという事実を、問答無用でサルハミに脳に直接焼き付ける。そして彼は、過去に味わった痛みと苦しみを思い出し、ただただ泣き叫ぶ。
「いっ、いやだ…………。もう許してください」
しかし男はそれに構わず、釜の口をサルハミの背中に目掛け、徐々に傾けていく。
「嫌だ嫌だッ。熱いのは嫌ですッ! 許してくださいッ、許してくださいッ!」
耳を畳み、尾を抱え、サルハミはただ許しを請いながら、しかし止まることの無い時間に怯え、その歯を小刻みに打ち震わせた。
最早彼に手を差し伸べる者はいない。それはサルハミ自信が一番よく分かっている。彼にとっての大人とは、自分を痛めつける恐怖の対象でしかない。そのような大人しか存在しない世界が、彼の住まう世界だった。
その時までは。
「夜分遅くにすいませーん」
熱湯が釜の口から溢れる一歩手前、その透き通るような声が、突如屋敷の中にこだました。




