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龍人の子、陽の元に堕つ  作者: 麗氷柱
第四章 常しえに咲きし妖花
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さようなら世界

 西ノ宮より遥か西方の国々。その中でもとりわけ甚大である妃屶ひなた国は、民を武力による圧政ではなく、地に足を着けた政治活動によって、国としての形を保っていた。故に国は豊かで、作物は豊作。冬の間も難なく過ごせる程の備蓄に溢れている。


 そんな流るせせらぎまでもが、まるで安らいでいるかのように聞こえる冬のある日。降りこめる雪は大地を白染め、てらてらと夜月の明かりをその身に受ける夜に、それは起こった。


 ――――妃屶の最北端に位置する大きな村。その名を宇野師うのし村と言い、並ぶ建物からは、明るい声とロウソクの淡い光が、立派な障子戸から楽し気に漏れていた。


「サルハミィっ、ご飯だよ」

「はあい」


 宇野師村の中でも取り分けて大きな一棟の屋敷。

 燃ゆる石が入れられた火鉢は、毛穴が閉じ切ってしまう程の寒さを和らげ、一家団欒の時間を暖める。


「……また干し肉」

「文句言わないの。冬の間は辛抱しなさい」

「オイエの言う通りだ。食べられるだけ有り難く思え」


 二十畳ほどの茶の間にて、小さな食卓を囲む城狼しろ族の家族。男と女の耳はピンと立ち、息子の耳は濡れた髪のように垂れている。

 そして彼らは、泡沫のように短い一日の終わりを感じながらも、どこか陰鬱な会話を挟みつつ、夕餉に舌鼓をうっていた。


「サルハミ。今日の武鞭はどうだった?」


 サルハミと呼ばれる齢8歳くらいの男子は、そんな男の言葉に、噛みちぎった干し肉を飲み込んで息を取り込んだ。


「うん。他のみんなよりも、割と良い成績だったよ」

「本当か?」

「う、うん」


 男の責め立てるような目つきに、サルハミは怯えて俯いてしまう。しかしそんな事をしてしまえば、彼は嘘を吐いていると疑われてしまう。


「サルハミ。あんたまた嘘を吐いてるんじゃないでしょうね」

「お前は嘘をつく癖があるからな。それが本当か怪しいものだ」


 そう言ってサルハミの両親らしき二人は、まだ湯気が立ち上る鹿肉を頬張る。


 一見すれば、彼らはごく普通の家庭にも見えるが、しかし何皿もの煮炊きが並ぶ円卓に目を向ければ、そこには誰が見ても明らかな差があった。


「ほ、本当だって……」

「俺の目を見て答えろッ!」


 たじろぎ、目に涙を浮かべるサルハミに、父親は容赦なく声を尖らせ、机に手を叩きつけた。

 まだ年端も行かぬ子供にとって、その鈍い音と鬼のような形相は、ただただ身の危険を覚える恐怖でしかない。


「ごっ、ごめんなさい!」

「ほら! やっぱりこの子、嘘を吐いてたんだわ!」


 黒板を引っ掻くかのような声音と。迫り来るその気迫から自分の身を守ろうと、彼は枝のように細い腕を顔の前に突き出した。


「あんた、何とか言ってやってちょうだい!」


 まるで狐のような細い目つきを夫に向けるオイエ。しかしその口元は、僅かに歪んでいるようにも見える。

 そしてその言葉を聞いた父親は、顔の影をますます濃いものにし、サルハミへと迫った。


「サルハミ。お前にはもっと、躾が必要なようだな」

「いっ嫌だッ。痛いのは嫌だよッ!」

「黙れッ! 大体お前が来てから、俺たちの金は減るばかりなんだぞッ!」


 そう怒鳴っては、サルハミの耳を掴み上げる男。

 しかし痛がるサルハミには構わず、男の傍でオイエは笑いながら、何とも美味そうに料理を口に運ぶ。


「全くよ。そのくせお前と来たら、碌に働くこともせずに、かと言って良い成績を残すわけでもなく、ただ飯だけを食う始末。もうたまったもんじゃないわ」


 などと、オイエは依然として食卓に向かいながら、唾液と共に愚痴を溢す。しかし身体も小さく、まだ力仕事もままならないサルハミにとって、それはこの上ない言いが掛かりでもあった。

 そして男はこう言う。


「オイエ。湯を沸かせ」

「ふふ。少し待ってて」


 これまで頑なに動かなかったオイエだったが、しかしその言葉を耳にした途端、まるで羽でも付いているかのような足取りで、鼻歌交じりに台所へと歩いて行った。


「許して下さいっ、許してくださいっ。もう嘘は吐きませんからッ」

「だったら、俺がいいと言うまで許しを請うんだ」


 醜く歪んだ表情のまま、男はサルハミに冷たく言い放つ。だがもちろん彼にその気はなく、代わりにあるのは、ただただ弱者をいたぶる事によって覚える愉悦のみ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 …………と。彼はひたすら頭を下げ続ける。

 醜く黒ずんだ闇の部分。それを知るにはまだ早すぎるが故、サルハミにとって、それがどれだけの恐怖であるのかは、もはや誰にも理解はできないだろう。


 弱きを守る存在だと思っていた大人。そしてそれに裏切られる恐ろしさ。抗う事すら出来ない圧倒的な力。痛み、その絶望と防衛本能。それが彼にとっての普通であり、それが彼にとっての現実だった。


 覚めない夢はないが、かといって彼には見る夢も無い。そんな毎日に身を置いていたサルハミ。そうして男児は、絶え間なく襲ってくる恐怖に、ただ身を任せる事しか出来なくなっていた。


「口が止まってるぞッ!」

「…………ぁぐッ」


 内臓が潰されるかのような衝撃と、その痛み。そして口の中に広がる血の味それすらも、彼にとっては世界の一部だった。


 弱きを助け、強くを挫く。そんな有りもしない神話のような言葉は、同時に不平等という三文字を彼に植え付けた。


「はっはっはッ。全く、兄貴様様だ」

「…………お、とうちゃん」


 痛みに耐えかねたのか、それとも腹部を守るためか。彼は小さく床にうずくまると、まるで縋りつくようにその言葉を口にした。


 しかしそんな想いすらも、男はその薄汚い言葉で凌辱する。


「感謝しねえとな。お前の父ちゃんが死んでくれたお陰で、大金と玩具が手に入ったんだからよ」

「…………もう…………許して」


 男はサルハミを踏みつけると、その体重を徐々に傾ける。そうすれば、サルハミの小さな身体は次第に崩れ、遂には腹ばいになってしまった。


「お前の母ちゃんなあ、アレはいい女だぜ」


 目から光が消え失せ、しかし尚もその口で許しを請うサルハミの耳元で、男はこう言葉を続ける。


「……ここだけの話、オイエとは比べ物にならねえんだ」


 そんな何処までも下劣な言葉を聞いても、彼にとってはそれが日常。男に対して怒ればいいのか、それとも母を想って悲しめばいいのかすら、サルハミは分からなくなっていた。

 彼にとっての感情とは、かつて持っていた喜怒哀楽を指すものではなく、ただの苦しいだけの恐怖でしかない。否、彼にはそれしか残っていなかった。


「あんた、湯が沸いたよ」


 先ほど土間へと消えた女が、ぐつぐつと煮えたぎる釜を両手に戻ってくる。


「おう。持って来い」

「顔以外にしなよ。また村の連中に変な目で見られたら、たまったもんじゃないからね」

「ばーか。お前が良い女だから、男どもが釘付けになってるんだよ」

「うふふふ。また上手いこと言って」


 などと言って、女は男に熱い口付けを交わすと、その手に持っていた釜を男に渡した。そしてその足元には、恐怖で震える小さな男児。


「ほおらサルハミ。寒いなら暖めてやる」


 その言葉は、これから耐え難い苦痛が始まるという事実を、問答無用でサルハミに脳に直接焼き付ける。そして彼は、過去に味わった痛みと苦しみを思い出し、ただただ泣き叫ぶ。


「いっ、いやだ…………。もう許してください」


 しかし男はそれに構わず、釜の口をサルハミの背中に目掛け、徐々に傾けていく。


「嫌だ嫌だッ。熱いのは嫌ですッ! 許してくださいッ、許してくださいッ!」


 耳を畳み、尾を抱え、サルハミはただ許しを請いながら、しかし止まることの無い時間に怯え、その歯を小刻みに打ち震わせた。


 最早彼に手を差し伸べる者はいない。それはサルハミ自信が一番よく分かっている。彼にとっての大人とは、自分を痛めつける恐怖の対象でしかない。そのような大人しか存在しない世界が、彼の住まう世界だった。


 その時までは。


「夜分遅くにすいませーん」


 熱湯が釜の口から溢れる一歩手前、その透き通るような声が、突如屋敷の中にこだました。

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