〇.五話 転生者らしいこと①
桜の舞い散る花の如く、花弁のような雪がしんしんと降り積もる冬の大地。寒そうな太陽が西へと沈み、時刻は夕方の終わりごろ。
そんな雪化粧の美しい黄美山脈の頂に佇む榮鳳官学、その陽日院の女子寮にて、思い悩む少女が一人、机に向かっていた。
「うーん」
――――時が過ぎるのは早いものだ。
私がこの世界に転生してから、はや九十余年。それなのに私は、全く転生者らしいことをしていない。…………これは不味いぞ。
「だからって何すればいいんだぁ」
などと不満たっぷりに呟きながら机に伏せた時、私はあるものに目が留まる。
「もう12月かあ」
この世界の人は日付というものに感心はなく、それ故にカレンダーという代物も無かった。しかし現代人の私からすれば、それはこの上なく不便極まりなかったので、暇なときに作ったのだ。
半永久の時を生きる我々からすれば、日付なんて物は全くの無意味なんてことは分かっている。だがしかし、流れる月日を追わないと、どうにも落ち着かないのだ。
「…………ん。そう言えば」
365日が雑に詰め込まれた、もはやカレンダーとも呼称し難い一枚の和紙を眺めながら、私は気付く。
「今日クリスマスイブじゃん!」
神様になってからというもの何かと忙しく、これまで全く意識していなかったイエス様の誕生日。違う国の神様を、神様の私がお祝いするのも変な話だが、しかし祝日であることに違いはない。いわゆる多様性ってやつだ。
「クリスマスって言ったらプレゼントでしょ? 七面鳥でしょ? あとは…………」
その時、頭の上に稲妻が落ちたような気がした。そしてその衝撃が残るままに、私は恐る恐る、その名前を口に出す。
「ケーキだ」
それからの行動は早かった。まずできるだけ事細かにケーキのレシピを思い出し、龍文書にメモをする。ありがとう家庭科の先生。
そして完成形から逆算をして材料の分量を弾き出す。ありがとう数学の小野寺先生。
それができたら、材料の原産地や生産地などを思い出しては地図に記す。日本列島と形は違うけど、とにかくありがとう社会科の先生。
ここまで来たら、後は全てを揃えて作るだけだ。ありがとう。記憶の宮殿を教えてくれたレクター博士。
私は結局、今日まで誰かに支えられて生きてきたのだ。ありがとう皆。お陰でケーキが作れそうです。
「でも待てよ」
しかしどうしても、一つだけ分からないものがあった。記憶のどこににも見当たらず。作ろうにも作り方が謎のアイテム。
「…………バニラエッセンスってなんだ」
いや、その意味は理解できる。つまりケーキに香り付けする液体の事だ。それもバニラ風味の。でもバニラエッセンスってなんだ? そもそもバニラってなんだ。なにを以てバニラなんだ。ていうかバニラの定義ってなんだ。どうやったら作れるんだ?
「バニラ……バニラ……バニラ………………高収入」
――――駄目だッ! 如何わしいピンク色の宣伝カーと、あの妙にキャッチーな音楽しか思い出せない。
くそぅ、ここに来て恐れていた事が起きてしまった。まさかあのチンケな音楽が、記憶の宮殿の一室を、しかもスイートルームを借りていたなんて。…………しかもお陰で、宮殿の全室にあの音楽が流れる始末。
どうでもいい事をいつまで経っても覚えているのは、あの記憶法の一番のデメリットだ。ああ泡沫よ、忘れることもまた才能哉…………。
「まあでも、バニラエッセンスなんて無くていっか」
しかし私の心は強いッ。所詮バニラエッセンスは風味付け。それが無くとも、この世界の人たちは絶対に気付かないしね。
「よしっ。あとは明日に備えて寝るだけだ」
そうして私は、押し入れから布団を引っ張り出し、無駄に眩しいロウソクの明かりを吹き消した。
――――翌日。
「よっしゃあ! 先ずは材料探しからだ!」
休日の朝は、私は起きるのが超早い。
すぐさま身なりを整え、歯を磨き、袴に着替える。別に着物でもいいのだが、もう袴じゃなければ落ち着かない体になってしまった。ていうか着物面倒くさいし。
「うわ、寒っ」
障子戸を開けると、矢に射られたかのような寒さが私の身体を縮こませる。やっぱり冬は苦手だ。
しかしこれも愛するユキメのため。ユキメには絶対、ケーキを食べさせたいのだ。そのためには労力も厭わない。
「龍昇!」
そうして縁側に立つと、私は龍玉を光らせた。ちなみに龍昇を発動させると、見えないバリアが私を包み込んでくれるので、風やバードストライクも防げるのだ。
そうして西ノ宮に降り立った私は、どこで買ったか忘れてしまった買い物袋を片手に、大通りを闊歩する。
「さーて。先ずは小麦粉かなあ」
時間で言えば大体朝の8時。それなのに西ノ宮の通りは昼時のように賑わっている。
曲芸を披露する芸人がいたり、珍物を売りに来た露天商が開店準備をしていたり。あとは市場の皆様が元気に呼び込みをしている。
「おじさーん。小麦粉下さいな」
「お、何だお嬢ちゃん、お使いけ?」
何の獣か分からない耳を、頭に生やした店の店主。にこにこと屈託のないその笑顔は、とても爽やかだ。
「そんなところ」
「うどんでも作るのかい?」
独自の天秤で小麦粉を量りながら、店主は私にそんなことを聞いて来る。
「ケーキ!」
「おおそうか、けえきかっ。お嬢ちゃんも大したもんだねえ」
適当な事言いやがって。多分子供の戯言だと思って、半分聞いてないのだろう。でもまあ、小麦粉が手に入るのも、この人が作ってくれてるお陰だ。感謝しなければ。
「はいよ。小麦粉五十匁で、1800楽だよ」
「おじちゃん、ありがとー」
さあて次はどれどれ。
そうして私がメモ帳を眺めていると、何やら大通りが祭りのように騒がしいのに気づく。
「なんだ?」
視線を上げ、欠伸をしながらそちらの方へ目を向けると、一人の騎馬族がものすごい速度で、私の方へ迫ってきているのが分かった。
「ひったくりだぁぁぁッ!」
数人の獣神に追われる細身の騎馬族。余多をも置き去りにする自身のスピードを誇っているのか、その表情は余裕しゃくしゃくたる笑みだ。
「仕方ない」
そうしてその騎馬族の青年が、私の横を通り過ぎようとした瞬間を見計らい、私は神通力を使う。
「な、なんだ!?」
時が止まったかのように静止したひったくり犯。何が何だか分からないと言った様子の彼に構わず、私は再び視線をメモ帳に移す。
「…………次は砂糖だな」
などと思い耽ながら、ケーキのような雪道に足跡を残していると、ひったくりを追っていた数人の住人が騒ぎ始めた。
「おおっ。那々名嘉比売のご加護じゃ!」
「罰が当たったな盗賊め!」
「観念しろ!」
やったのは私なんだけどなあ。
しかし漁業が盛んな西ノ宮は、主に海の神や川の神を信仰している。そしてその要となるナナナキ比売が、いま西ノ宮で絶大な人気を博しているのだ。そして今や天津神のナナナキが信仰を得れば、同時に天都も信仰を得られるという一石二鳥の美味しさもあるのだ。
しかし泣き虫だったナナナキがここまで立派になるとは、私としても嬉しい限りだ。
「うんうん。ナナナキ比売も頑張ってるなあ」
――――そのとき私は、ふと彼女に会いたくなったので、黄美山の麓にある彼女の社を訪ねることにした。
「頼もーう」
ゴールデンレトリバーくらいの狛犬が走り回る境内。私は寒さでかじかむ手に息を吹きかけながら、拝殿に向かって声を上げた。…………すると。
「これはこれはっ。蒼陽姫ではありませぬか!」
そう言って慌しく現れたのは、微塵も見たことがない京猿族の神職。ちなみにこの種族は、サイヤ人のような尻尾が生えているのが特徴だ。
そして恐らく、彼は社の管理をするため、神院から派遣された職員なのだろう。
「このお寒い中、一柱のみで参られたので?」
「ええ。ところでナナナキ比売はおられますか?」
私がそう言うと、彼はガチガチと歯を鳴らしながら私を中へと誘う。私も寒いのは苦手だが、どうやら彼は私の比ではないらしい。
「比売様に御用ですね。外は冷えるので、どうぞお上がりください」
「ああ、助かりますっ」
カジュアル系バンドもびっくりするような底の高い足駄を脱いで、私は一礼して拝殿内へと上がり込む。
そんな殿内は、炎千石を使った火鉢が所々に置かれているのでとても暖かく、きゅっきゅと軋む床の冷たさも苦にならない。つまりは中々の快適度合いなのだが、それでも床暖房は恋しい。
「…………蒼陽様?」
そうして本殿へたどり着くと、薄暗い奥の間から心地の良いハスキーボイスが飛んできた。
「やっほー」
「ああっ、お久しゅうございます!」
「……………………え゛っ」
寒風を入れないため四方の襖を閉じ切ってるので、中はまるで夜のように暗い。しかしロウソクの明かりを頼りに彼女の姿を見た時、私は思わず喉の奥から濁った声を出してしまった。
「あはは、暗くてごめんね。ナナナキ、寒いの苦手なの」
「あ、ああ、そうなんだ。…………はは」
たまに彼女とは会っていたのだが、それでも大体今の私くらいの大きさだった。しかしなんということでしょう。今の彼女は身長が2メートル近くあるのだ!
「お、大きくなったねえ」
腰まで伸びた水色の髪に、春を思わせるかのような柔らかい匂い。そして沢山の信仰を得ている彼女は、元々半蛇神だったこともあり、今では下半身が蛇のようになっている。
…………いやほんと、立派になっちゃって。
「うん。体を小さくすることも出来るんだけどね、それをやると疲れちゃうんだ」
「そうなんだ。ていうか、胸も大きいね」
スイカでも入れているのかと言いたくなるほど、彼女の着物は山のように膨らんでいた。初めて会った時は、今の私と同じくらいだったのに…………。
「……誰の胸が、水瓜のようだって?」
「あ、ああっいや、そう言う意味で言ったんじゃないの!」
そして彼女はキレやすい。っていうかそんなこと言ってないぞ。
「お主っ、言っていい事と悪い事があるんだぞ!」
キーキー牙を剥きながら袖を振るナナナキ。彼女がまだ小さかった頃は、これも可愛げがあって面白かったのだが、今の姿でそれをやられると、控えめに言って超怖い。
「ご、ごめんね」
「もう」
ふんっと鼻から息を吐きだすと、彼女はそっぽを向いてしまった。これは機嫌を戻すのが大変そうだ。
そして案の定、私はナナナキの機嫌を戻すのに10分くらいの時間を費やしてしまったのだった。
「――――それより聞いたっ?」
「ん、何を?」
先ほどの怒りはどこへやら、彼女は龍のような眼を輝かせながら、息を荒くして笑顔を作る。しかしここまで表情が変わると、彼女の情緒が心配になる。
「オクダカ様とヤチオちゃんが結納したんだって!」
結納って、確か式を挙げる前に、旦那さんと奥さんの親戚が顔を合わせる儀式の事だよな。式ってのはつまり結婚式で、結婚ってのはつまり…………。
「えええええええええ!?」
――――あいつ結婚したの!?
「ナナナキも最近、ヤチオちゃんから聞いたんだけどね。なんでも彼女の方から申し込んだらしいよ」
「あのヤチオヒメが?」
私の覚えている限りだと、ヤチオヒメはとても気の弱そうな、心優しい女神様だった筈。そのヤチオの方からオクダカにプロポーズって。恐るべし隠れ肉食系女子。ちょっと恐怖を覚えるぞ。
「うん。ヤチオちゃんも今では大川の神様だから、凄い神様の二柱が結婚するなんて、すごい事だよね」
「確かにそうだ」
なんか、結婚できない女の悲しい会話に聞こえてしまう…………。まだ九十歳なのに、なんかだか取り残された気分だ。
っていうかオクダカの奴。普通そういう事は私にも言うだろ!
「はぁ、何か萎えた」
「大丈夫?」
「うん。あたし今日は予定が一杯だから、もう帰るね」
ただ挨拶に来ただけなのに、まるで心臓に千本の針を刺されたかのような感じだ。
――――そうして、ぞっとしないオクダカの結婚話に、完膚なきまでに叩きのめされた私は、もはやケーキ作りという甘い夢にまどろむことも出来ないまま、材料を買い終え女子寮にまで戻ったのだった。




