〇話 二度目の禊③
「吾月なあ。吾月はなあ。何と言えばよいか」
「天陽様の事を“お姉さま”って呼んでましたけど。妹なんですか?」
顎を指で挟みながら、彼女は天井を見上げる。
「まぁのう。あ奴も昔は天都に住んでおったのじゃ」
「へえ。じゃあ今はどこに?」
「昔色々あってな。今は夜の世界…………」
そこまで言ったところで、彼女の頬がリスのように膨らむ。一体どうしたのだろう。
「よっ、夜のせかっ、っぷぷ。夜の世界っに。ぷっはっはははは。だめじゃ、もう言えぬ!」
なんであんなジョークでツボってるんだよ。頼むからしっかりしてくれー。
「夜の世界にいるんですか?」
正直、夜の世界が何なのかも分かってはいないが、ここは話を進めるため、取りあえず分かったようなふりをする。
「っふふ。そうじゃ」
「それで? その吾月の目的は何なんですか」
ひとしきり笑った後、彼女は長い深呼吸を終えて話を切り出す。
「余が何故、中つ国を平定しようとしているのか、ひふみは考えたことがあるか?」
「天都のような安寧をもたらすため。ですよね?」
「それは表向きじゃ」
表向き? じゃあ本当の理由は何だ。っていうか吾月と関係あるのかそれ。
などと、私が口を紡いで考えていると、天陽様は視線を落とし、どこか切なげな表情で言葉を続ける。
「余はな、いずれこの中つ国も、お主の世界のようにしたいと思うておる」
「私の世界?」
「うむ。お主のような、人間が台頭する世界にのう」
「…………なるほど」
「じゃがそのためには、我ら八百万の神は、人間に影響を与えぬよう身を隠さねばならぬ」
という事は、いずれ私の世界みたいに、人間は神様を認識することが出来なくなるって事か。なかなか興味深い話だが。しかし、それに反発する神もいるんだろうな。
「つまり、それが気に食わない神もいるって事ですね」
「そうじゃ。もともと天界に暮らしておる神は得心しておるが、国つ神はこれに真っ向から反発した」
「それが、800年前の平定ですか?」
「お主は勘が良いのお」
よく言われる。人間だった頃は、割といい高校にも行っていたし。
しかし歴史は苦手だ。特に日本史。あと政治も。あと経済も。あと体育も。そして、もっと神話についての勉強もしておけばよかった。と、今さら後悔が募る。
「そして、それらを率いたのが吾月じゃ」
「え、でも吾月って当時は天津神だったんですよね?」
「あ奴は、自分たちよりも遥かに劣っている種が、国を支配することが気に入らなんだのじゃろう」
うーん。その気持ちは分からなくもない。私も昔は人間だったが、今こうして神として生活していると、このまま神々が国をまとめていた方がいい様にも思えるのだ。
「故に、吾月は決して余とは相容れぬ存在となった」
「…………でも、再び現れた」
「うむ。吾月は夜を統べる神ゆえ、陽が沈んだ時や、日食の時にしか降ることは出来ぬ。しかし今も、神使や配下の神を使って、色々やっとる様じゃ」
配下の神。てことは、今もどこかで生きている双子も、吾月の思想に感化されて国つ神になったってことか?
「恐らく今も、吾月は平定を阻止しようと、企んでおるのじゃろうな」
「恐らく、ですか」
「あ奴は昔から、何を考えておるのか分からなんだ。故によく喧嘩もした。ある時は余が負けて、そのショックでずっと引きこもっていた時期もあったのう」
なんか聞いたことあるぞ。
「もしかして、鏡に映った自分を、他の神と勘違いして出て来たってやつですか?」
「えっ、何で知ってるの?」
やっぱりか。過程は違えど、やることは一緒って事だな。
「まあ、私の世界の神様も同じ事してましたから」
「天照もか?」
「ええまあ。それより、そろそろ禊祓を…………」
禊の部屋に来てからかれこれ30分以上は経過している。別に天陽様となら何時間でも一緒にいられるが、それ以上に私はユキメといたい。
しかし天陽様は私の言葉を聞くと、まるで子供のように空気を頬張る。
「何ですかその顔」
「禊が終われば、一二三は帰るんだろ?」
「そりゃあ、…………まあ、ええ」
そりゃそうだ。と、きっぱり言おうと思ったが、しかしその後の天陽様の気持ちを考えると、どうにもやるせないので、私は少し言葉を濁した。
「寂しいのう。つれづれよのう」
「天陽様だって、まだ飛儺火の仕事が残ってるんじゃないですか?」
「っぐ。余計なことまで思い出させおって」
そして、ようやく禊祓が執り行われることになり、私は心の底から安堵のため息を吐いたのだが、しかし私は、この儀式の恐ろしさを忘れていた。
「じゃあ、いくぞ」
「どんと来い!」
三十歳の頃は死ぬかと思ったが、しかし今の私からすれば、こんなのはただの水浴びだ。今日こそは耐えてみせるぞ!
――――そうして頬に当たる雨粒。最初は小雨の様だが、水の量は飛び石を渡るように増えてゆく。
「ぬるいですよ天陽様っ。もっと強くできないんですか?」
「……………………ハァ」
その言葉を皮切りに、降水はどんどん強くなってゆく。今の強さを例えるなら滝行だ。あの頃の私なら、きっと立ってはいられなかっただろう。
だがその水圧は、まるで階段を二段飛ばしで登るかのように、助走なく強大なものとなってゆく。
「ぅぐぐ。…………まだまだ」
「なあ、禊祓はそういう儀式ではないんじゃが……」
「何言ってるんですかっ、私はまだ行けますよ!」
「正気かひふみ」
天陽様の呆れた様な声が僅かに聞こえるが、今の私にはもっと強い衝撃が必要だった。
頭の中に渦巻く不浄。特に、謎めいた吾月の、その目的に対する不安や、誰かに助けられてばかりの、自分の弱さへの怒り。他にも色々と思うところはあるが、私はその一切を、この流れる水と共に、自身の奥底に留めたいのだ。
「ッッく!」
訂正する。これは水じゃない。このアラナギの神通力を食らっているかのような負荷。これはもはや山だ!
「おーい。本当に死んでしまうぞ」
息もできない。足もガクガク。だがまだ行けるはず。私は、私は…………ッ。
「はいお終い!」
「…………ぷはっ」
通り雨のようにピタリと止んだ奔流。整えようにも言う事を聞かない呼吸。けれど、まるで心を押しつぶすかのような、あのどうしようもない気がかりは、この腹の底へと堕ちて行った。
「もう少し行けたのに!」
「駄目じゃ。それに、着物も着崩れとるぞ」
気づけば肩まで丸出しになった肌。しかも水行のせいで真っ赤に腫れており、私が見てもどこか痛々しさを覚える程。
けど、これでいいんだ。お陰で雑念も、多少は消えてくれたようだし。
「…………天陽様。中つ国の平定は、どれくらいの所まで進んでるんですか?」
「残るは、飛儺火より東部にある諸々の小国と、西ノ宮より遥か西方の国々だけじゃな」
「結構進んでるんですね」
びしょ濡れの着物を、天陽様の神通力で乾かしてもらいながら、私は乱れた髪を整える。
「まあ、先鉾や他の天津神が、献身的に取り組んでくれとるおかげじゃ」
そう言う天陽様の表情にはどこか影が残る。しかしそれは私も同じだ。確かに飛儺火の平定は多難だったが、それ以外は不気味なほど順調なのだから。
「何で吾月は、動かないんですかね」
「それは分からぬが、足を速めることに越したことはない。故に一刻も早く中つ国から信仰を集め、吾月の策に対応できるようにせねばなるまいぞ」
私の着物を撫でるように乾かす天陽様。まるでアイロンで仕上げたかのように綺麗だが、私たちはこの着物のようにサッパリとは出来ずにいる。それでも今は、この心を強く保たせなければ。
「そうですね。ならサクッと、残りの国も統治しましょう!」
そう言って私が笑って見せると、天陽様はその綺麗な顔を綻ばせながら、私の冷え切った体を優しく包み込んでくれた。これは、これまで幾度となくあった、一方的なハグではない。もっと、愛情の込められたもの。
「…………天陽様?」
今思えば、彼女にしっかりと抱きしめられたのはこれが初めてだ。しかしなかなか悪くない。
まるで野原で寝転んでいるかのような心地よさ。そして日に包まれているかのような落ち着く匂い。耳と耳が触れ合う感覚。手を回した時の、天陽様の暖かい背中。聞こえる息遣い。そのどれもが、いま私を包み込んでくれている。
「無理はするな」
初めて耳にするその濡れたような声。まるで曇天に隠れた太陽のような控えめさ。今は神様とはいえ、元人間の私には、もったいないくらいの幸福だ。
「はい。大神も」




