〇話 二度目の禊②
「ようやく来たか」
「久方ぶりです。我が君」
扉を抜けて、そのアリーナのように甚大な広間に入ると、その真ん中で正座をしている天陽様が目に入った。しかし彼女の姿も変わっていない。黄金色の髪に、彩色豊かな着物。そして身に着けている装飾は大げさな程キラキラと眩い光を放っている。
「堅っ。もっとラフに行こうよ」
「そういう訳にも参りませぬ。天都を治める誠貴し神霊の前では」
「嫌じゃっ。一二三は唯一フレンドリーに話すことが出来る相手なのじゃ。だから如何様な言葉遣いは許さぬぞっ」
この神様はもっと威厳を保ってほしいものだ。ユキメもこんな感じだったらいいのになあ。
「…………まさか、まだ怒っておるのか?」
恐らく彼女は、ユキメが生きていたことを隠されていた私が、まだ怒っていると思っている様だ。まあ確かに最初は怒ったさ。しかし今ではそんな思いを抱いてはいない。
そう。これはそんな彼女の不安を逆手に取ったドッキリだ。っぷぷ。
「言うに及ばずです」
「もう許してよぉ。アレはある神にお願いされたこと故、栓なきことじゃったんじゃ」
「どうせ悲しむ私を見て喜んでいたんでしょうに。そのような申し訳は通用しませぬ」
「ひぃふみぃぃ。そんな言葉遣いする一二三なんて嫌なのじゃぁ、何でも言う事聞くからぁ」
そう喚きながら、彼女は少し涙目になりながらも私の膝元に擦り寄る。
くくくっ、こいつ、めっちゃ必死になってやがる。これはこれで面白いぞ。
「今、何でもとおっしゃいましたか?」
「…………え?」
「なんでも言う事を聞くと、申されましたよね」
「う、うむ!」
私が少し声音を和らげると、彼女は眼を輝かせながら大きく頷く。しかしこの感じだと、本当に何でもやってくれそうだな。
「じゃあ、足の裏を舐めてください」
「え゛っ?」
私は腰を下ろすと、真っ白な足袋を脱ぎ捨て、露わになった足をアマハル様に向ける。しかし神様に、しかも最高神に足を向けるこの背徳感がたまらない。
「ねっ、舐れば赦してくれるのか?」
「ええっ。もちろんでございますとも、我が君!」
「その我が君って呼び方もやめてくれるのか?」
少し頬を染めながら私の足裏を眺める天陽様。なんだかちょっと可愛く思えてきた。
「ええ」
「あ、相分かった」
そうして彼女は私の足に軽く手を添えると、真っ赤な口紅が塗られた口元から、淡いピンク色をした舌を覗かせる。私も、ドキドキと心音が聞えそうなほど胸が高鳴る。
しかし禊祓をしに来たのに、こんな不浄な事をしていていいのだろうかと不安になる。そして今から足を舐めようとしている太陽神にも。だからそろそろネタばらしするか。
「アマハル様」
「な、なんひゃ?」
「冗談ですよ」
すぐさま舌を引っ込め、口をぽっかりと開けたまま私の顔を見る天陽様。多分今の私は、相当悪い顔をしている事だろう。笑いを堪えるのが大変だ。
「っふふ。まさか本当に舐めようとしてたんですか?」
私がそう言うと、彼女は私の足を強く握る。それはもう大層な力で。
「いたたたッ、痛いですってば!」
彼女の親指が足に食い込んでいるのが分かる。疲れの溜まったサラリーマンならまだしも、子供の私からすればこれは紛れもない激痛。
「痛い痛い痛い!」
しかし彼女は足を放してくれない。それどころか痛みは増す一方だっ。
「詫びれ」
「ごめんなさいッ」
「もっと丁寧な言葉でじゃ」
「お、お赦しくださいませ!」
ぱっと足の痛みが消える。それでもまだジンジンと痺れてはいるが……。どんだけ怪力なんだよくそったれ。
「全く、調子づきおって」
「…………も、申し訳ございません」
そう言って彼女は立ちあがると、ゴミでも見るような眼で私を見下ろす。そしてそんな目を向けられると、太陽に嫌われまいと身体が強張るのだ。私が纏いをして頭を下げさせてきた神や獣神たちも、きっとこんな気持ちだったのだろう。
――――そしてそれからしばらく、私は彼女に謝り続けたのだった。
「ひふみぃっ、さっきはごめんねぇ!」
すっかり機嫌を直したアマハル様は、改めての私の身体を抱きしめる。それは誰よりも強い抱擁。と言うより、骨が砕けそうなほどの力加減。
「くッ、苦しいですってばッ!」
「あ、すまぬ」
「もう。いつからそんな性格になったんですか?」
着崩れた着物を正しながら私が問うと、彼女はどこか恥ずかし気な様子で言葉を続ける。
「だって、近頃の一二三は全然余の相手をしてくれなんだからのう」
「それも天陽様のせいじゃないですか」
結局はそうだ。ユキメが生きていたことを包み隠さず教えてくれていれば、私だってもっと天陽様に会いに行っていたし、精神世界でももっとお喋りしていたのだ。
「それは、そうだけど…………」
「それに、一体誰なんですか。その名も知らぬ神様っていうのは」
ずっと心に引っかかっていた事を聞く。
私を私のままでいさせてくれた恩神だが、しかし天陽様は名前すら教えてくれない。
それに加えユキメまでもが、赤い菊を目にする度に表情を綻ばせる始末。もう気になって仕方ないのだ。多分いま私の髪を留めている簪も、その神様がユキメに渡したプレゼントに違いない。
「それは断じて言えぬっ」
なのに、私が何度聞いても彼女は必ずこう答える。本当にもどかしい! ため息が出る!
「はぁ、分かりましたよ」
しかし私もくどいのが嫌いな性分。やり切れぬ思いは残るが、この件はまた今度聞くとして、私はもう一つ気になっていたことを天陽様に聞いてみる事にした。
「それと、私の神霊なんですが。いくら天陽様の血が流れているとはいえ、神霊までも似る事ってあるんですか?」
「気になるのか?」
「え。まあ」
先ほどの子犬のような無邪気さから一変して、彼女はどこか神妙な顔つきに変えて私の眼を見据える。何か思慮している様子だが、そんなに言い辛いことなのか?
「本当に、聞く覚悟があるのか?」
「な、なんですかそれ」
まるで宝石の鑑定士のように、私の眼を見つめる天陽様。
なんでそんなにかしこまるんだよ。そんな面持ちされたら、聞くのが怖くなってしまう…………。
「っぅぐ。っぷはは!」
「なんですか」
「あっはははははっ。さっきのお返しじゃ! 様を見ろ!」
「はぁ?」
けらけらと笑う天陽様。初めて会った時は、多少なりとも彼女には憧れていた。なのに、それが今ではどうだ。まるで私のお姉ちゃんみたいだ。
――――ある時、私はオクダカに聞いたことがある。“主宰神があんなんで本当にいいのか?”と。するとオクダカはこう言った。“天陽様は最近、よく笑うようになった”と。まるで私のおかげだ、と言わんばかりの表情で。
その時は特にどうとも思わなかったが、しかし天陽様も、存外寂しかったのかもしれない。周りは自分を尊ぶ者ばかりで、どこか狭苦しさを感じていたのだろう。
「――――なあなあ一二三。余にジョークとやらの手解きをしてくれぬか?」
そして天陽様の元へ来てから数十分経った頃、彼女は足をパタパタさせながらそう言ってきた。さながら友達の家でくつろいでいるかのように。
「ジョークって。あたし禊祓に来たんですけど」
「教えてくれたらやってやるぞー」
…………嘆息が出る。まるで猫のように、ごろごろと転がる太陽神の姿を見ると、実にため息が出る。酸欠になってしまいそうだ。
しかし天陽様の頼みだ。仕方ない。
「じゃあ一個だけ」
「やった!」
ちなみに、ジョークはまあまあ自信がある方だ。
人間だった頃、私は一時期アメリカンジョークにハマっていた。まあ何の役にも立たなかった知識だし、今はもう錆び付いてるけど。
「えー、ある日太陽が言いました。“一日中世界を照らし続けて、もう疲れたのじゃあ”と」
「ふむふむ」
「すると月がやって来てこう言いました。“いひひ、ようこそ夜の世界へ”と」
「ぎゃはははははは!」
正直、物凄い目つきで睨まれると思っていたのだが、しかし彼女は腹を抱えて笑った。本当に大丈夫かこの神様。
しかしここまで笑ってくれると、私としても気持ちがいい。
「これがいわゆる、ブラックジョークってやつです!」
「あっははははっ。面白いのぅ。他にはないのかっ?」
「一個だけって約束ですよ」
「いけず!」
しかし今のくだらないジョークで、私はもう一つ聞きたいことが出来てしまった。
「あの。吾月って、一体何者なんですか?」
もちろん天陽様は表情を変える。ぱっと見は真顔なのだが、しかしどこか呆れたようにも見える。というより、困ってる顔か。いや違うな、なんだその顔。




