祝詞
龍文書―13
【祝詞】:神に奏上する詞。神使はこれを奏上し、神から力を借りる。
「お待ちくださあい!」
止められなかったにやけ面が、後方から聞こえた声によって一瞬にして真顔に変わる。
何だろう、誰かが走ってくる。
「やっと追い付いた!」
背の小さな、しかし私より横幅の大きい中年の男が、息も絶え絶えに声を張る。その立派な召し物と、贅肉をたくさん纏いながらよくこぞこまで走ってこられたものだ。
「何か御用で?」
ユキメが問う。
「滅相もございません! 恐れ多くも我が君、天陽大神のその御神使を、ここまでお見送りしなかった我らを、どうかお赦しくださいませ!」
男は見苦しいほどに謝罪に精を出す。しかし、この神様は誰だ?
「申し遅れました。私はこの“天の山腹"の統括神。ユイゴと申します。先ほどは我が息子、トウゴがとんだご迷惑をお掛けしました事を、ふかーっくお詫び申し上げます!」
おっさんが腰を直角に曲げている。
そうか、一応龍人族も半神。神であることに違いはないからな。それに加え大神の使いだもんね。
――――しかしあの糸目の父親か。全然似てないな。あの男前は母親譲りか?
「どうされますか、ソウ様?」
その言い方、悪役の手下が使う言葉だよユキメちゃん。
「いや、別に大丈夫ですよ。頭を上げてください」
というより、早く帰って着替えたいんだよな。まだ袴がじめじめして気持ち悪いし、お風呂にも入りたい。
「なんと寛大な。流石は大御神が選ばれた事だけはある!」
ユイゴはあごの肉をふるふると揺らしながら私の手を握る。油の中に手を入れているみたいで気持ち悪いが、それを強く振り払えるほど私の心は強くない。
「あまり、気安く触らないでいただきたい」
ナイスだよユキメ!
「こっ、これは失礼をば」
男はユキメの目力に負け、まるで熱い物を触ったかのように手を引いた。出来れば手を握られる前に止めて欲しかったものだが……。
「お見送りもここまでで結構ですので、お気遣いなさらず」
私はそう言って、そそくさと後ずさりをするが。しかし男は追い詰めてくる。
「なりません。これでは統括神としての面子が立ちませぬ」
だったら出迎えもするだろ。結局この男神は私に用があるのではなく、私の神である大神に顔を売りたい訳だ。
「結構です。行こ、ユキメ」
ぷいと振り返り、一歩足を前に出す。しかし……。
「いえいえいえ!! ここはどーか私めにお任せください」
しつこい。――――と、我慢の限界も近くなり、さすがのあたしも怒ろうかと思った矢先、すっとユキメが壁のように立ちはだかる。
「そこから一歩でも、おみ足を前に出さぬよう、かしこみ申す」
火に入る夏虫を見るかのような眼差し。最高に冷たくてイカしてる。しかしこれじゃあまるで、ヤクザの親分とその子分だ。
「で、では、失礼ながら、お見送りはここまでとさせていただきます」
それよいよい。ご苦労、ご苦労。
そうして、卑しい目線を背中に浴びながらも、私達は天の山腹を後にした。
最初は壮大に感じた境内も、まるで田舎の神社に立ち寄った様な感覚だ。
「――――さて、無事に禊祓と誓約も終え、ソウ様は今日から神通力を使えるようになりました!」
ようやく家に帰って新しい袴に着替えた私は今、家の広間で武鞭を行っている。正直今日は休みたいが、時間はまだ正午すぎ。長い一日だ。
「しかし神通力を使うには祝詞を奏上し、神との間に繋がりを作らなければなりませぬ!」
知っている。祝詞にも様々な種類と用途があることも知っている。しかし、私はそれら全てを一言一句覚えているのだ。この事実を知ったユキメの顔が見たい。
「そして祝詞とは、自らの呼吸を神の呼吸に合わせる行為。奏上することで自然と、神の呼吸になると言われています」
うんうん。全部知っている事実だ。
そしてユキメは初めて教鞭を取る新米教師のように目を輝かせている。よほど楽しいのだろう。もちろん、あたしも楽しい。
「もちろん感謝の念と、敬う心を持ち続けねば、祝詞は何の効果も発揮しません」
それも多分問題なし。
私の心は、大好物を目の前に置かれ、しかし手足を封じられた犬のようにもどかしい気持ちで溢れていた。早く神通力を使いたい。
「ではさっそく、教本を開いてくださいましっ」
余裕の表情を浮かべ、日焼けの目立つ古びた本をぺらぺらとめくる。
――――三十年間、一人で外に出してもらえなかった私は、家で本をひたすら読み漁ってた。だからこの本も既に読破済みだぜ!
「そこにたくさんの祝詞が載っていますが、覚えるのは一つだけでいいです」
「……………………ぇ?」
え、え、なんて?
「この本を開いて、ソウ様はこう思われたはずです。大祓詞長すぎるだろ。と」
思ったよ。今から数十年前に既に思っていたよ。でも頑張って覚えたよ!?
「ですがそれは、神使ではない者が神へ奏上する祝詞。それに、それを全部聞くほど神様も暇ではありません」
私は、できるだけ汚い言葉を見つけては、頭の中で思いっきり叫ぶ。
「故に我々に必要な祝詞は、“ひふみ祝詞”一つで十分です!」
ひふみ祝詞って、一番最初に覚えたやつだ。全部ひらがなで読みやすかったし、短かったから最初に覚えたやつ。――――えっ?
「このひふみ祝詞は、神を呼び出すために作られた祝詞です。そして一度読めば様々な恩恵が得られる、まさに便利な祝詞なのです」
この背骨を抜かれたような感覚はなんだろう。あれだけ必死に覚えたのに、本当に必要なのは一つだけって。…………そういうことは本に書いとけよ。
「それじゃあ、さっそく奏上するのですが。まずは私が実践して差し上げますので、一度お庭に出ましょうか」
手足が動かない犬は既に諦めている。なんだか少し肩の力が抜けてしまった。
――――そんな気持ちをぶら下げたまま、私はユキメの後を付いてゆく。多分、今なら何が起きても驚かないだろう。




