いろはにほへと
時は少し遡り、天都が飛儺火を平定せんと ソウと幾柱の神々を飛儺へ送り込んだその日。
天には鏡のように美しい丸い黄色が浮かび、秋の澄んだ夜空をその輝きで照らしている。
「ひゃっ、ッぶねー間に合ったッ。アイツ滅茶苦茶やりやがってッ!」
ユキメを助けるために過去へと遡って来た蒼陽は、現在飛儺の遥か上空にて不満を叫んでいた。
だがそれもそのはずで、彼女はもう一人の自分が戦闘の際に発動させた神通力の、その半径100メートル近い爆発から辛うじて逃れていたのだ。しかし術者であるソウは、その爆発を数秒で収めたため、爆風などによる追撃が一切なかったのが最大の救いでもあった。
「…………つってもあれも私だもんなぁ。ほんとアホだなあ」
などと、蒼陽はもう一人のソウを眺めながらぶつくさと呟く。
そしてその片手には、ソウとの戦闘で再起不能となったアラナギの姿。彼女はユキメをソウの元へと送り届けた後、本来なら殺されていた筈のアラナギを命からがら助け出していた。
「私ですらあそこまではやらなかったぞ」
そうして不満を零しながらも、彼女は天龍体のままで思考し、気絶したアラナギをひとまず避難させるという結論に至る。ここで彼が死んでしまったら、弟のアラナミが龍狩りを率い、ソウを殺しに来ることが明白だったからだ。
「ほんっとに感謝しろよな。誰一人殺さずに済んだんだし。この先の七十年も経験できるんだし、何よりお前は、ユキメと一緒に暮らせるんだし…………」
まるで友達に愚痴を吐くかのように蒼陽は呟く。しかしその表情はスッキリとしたもので、口角は僅かに上がっている。
「さてっ、私もそろそろ帰らなきゃだし、こいつをアラナミの所まで送ってやるか」
ユキメの救出から約十年。蒼陽は毎日毎日を悠々自適にユキメと過ごしていた。それはもう楽しく。
しかし刻返りのタイムリミットが刻々と迫る中、彼女はアラナギの救出に、残り僅かな時間を費やすことを選んだのだ。
「んーと、ユキメからもらった髪飾りはあるし、ハグもいっぱいしたし、渡す物も渡したし、言い残した言葉もない。よし!」
龍昇による飛翔の中、彼女は指を折りながらこれまでの十年間を振り返った。そして一つ一つの思い出を掘り起こしては、その表情を絶えず変えさせる。――――そして。
「…………ここは」
爆発が起きてから数分した後、腰の帯を蒼陽に掴まれ、空中で“くの字”の体勢のままアラナギは目を覚ます。
そんな彼の最後の記憶は、胸倉を掴まれて上空へと投げ飛ばされた瞬間までだった。それからの事はまるっきり覚えてはいないが、しかし死への恐怖だけは彼の心の中に深く沈殿していた。
「目覚めたか?」
過酷な戦いによって、神体も神霊も崩壊しかけているアラナギは、蒼陽からの声掛けによってなんとか意識を引き留める。
「…………お主は」
「十年ぶりだね」
別世界のアラナギとはいえ、彼は本来ユキメを殺すはずだった憎むべき敵。しかし今の蒼陽は、その憎悪一切すらを抱いてはいない。
「船上の龍神ですか」
「そうだよ」
そしてアラナギは、まるでボロ雑巾のようになってしまった自身の姿を見て一言呟く。それは独り言を零すように、ゆっくりと静かに。
「…………負けたのか」
「……………………うん」
これまでは敵として幾度となく顔を合わせてきたアラナギの、その初めて垣間見る表情に、蒼陽の心は複雑な感情を作り上げる。敵とはいえ、アラナギは大切なものを守るために戦っていた。そしていざその視点に立ってみれば、アラナギはただ英雄でしかなかったからだ。
「なんで。…………なんで十年前、私たちを襲った?」
――――故に蒼陽は苛立っていた。アラナギを殺すことになったのも、飛儺火が平定されたのも、すべては十年前の強襲から始まり、結局は全て彼らの自業自得なのだから。
「月が、肉塊のように真っ赤な月が浮かぶとき、その答えは分かるでしょう」
「何だよそれ」
「我らが何故、天都を離れて吾月様に降ったか、分かりますか?」
「いや…………」
虚ろな思考で、そしてその口元もおぼつかない中、アラナギは振り絞るように言葉を出し続ける。
しかし、そんな彼から投げられた質問は、蒼陽の頭に疑問符だけを浮かばせた。
「俺たちは、中つ国平定の神勅を受け下界へと降臨した。そして出会ったのが、結舞月という名の国つ神でした」
その言葉を聞いて思い出すのは、王狐族の村で聞かされた飛儺のおとぎ話。
「竹から生まれた姫か」
「っふ。あの話を聞いたのですね」
「まあね。どうにも信じられないけど」
「無理もない。伝説とはそういう物です」
そして数秒の沈黙を置いた後、アラナギは言葉を続ける。
「結舞月は、常世の国つ神だ」
「常世の国って、あの?」
アラナギの口から出た常世の国と、十年前、蒼陽が実際に平定した常世の国は、奇しくも同じ場所を指していた。しかし何故ここでその名前が出てくるのかは、蒼陽自身も分からずにいる。
「ああ。数百年前、俺たちが降臨したのは飛儺ではなく、常世の国なのです」
「おとぎ話だと、飛儺になってたけど?」
「あの話は、民の信仰を得るための作り話にすぎません」
「じゃあ、双子が結舞月に求婚したって話は?」
その言葉を聞いた時、アラナギは気管に溜まっていた空気を押し出すかのように笑う。
「結舞月に縁談を申したのは誠の話。その後の無茶な要求もしかり」
年寄りが思い出に浸るかのような和やかな笑み。だが彼は、そんな表情を一変させて次の言葉を始める。
「…………しかし実際、俺たちは吾月様に踊らされていただけに過ぎなかった」
「まてまて、お前らは吾月に忠誠を誓ったんじゃなかったのか?」
十年前の船上で、彼らは確かに吾月のことを崇めていた。しかし蒼陽は、そう思えば思うほど、つい先ほど放たれた言葉に矛盾を感じてしまう。
「……そこが、あの神の恐ろしい所だ。吾月は一柱だけではない。いや、一柱のみでもある。お主もこれまで出会って来たはずです」
「おい、もっと分かりやすいように言え!」
ソウとの戦闘で霊力を使い果たし、あまつさえ神霊にまでも修復困難なダメージを負ってしまったアラナギだが、しかし舌を噛み切るほどの余力は残っている。そんな彼がなぜ、蒼陽にここまで話をしてるのか。それは、最後の願いともとれる強い思念があったからだ。
「最期に、結舞月に会わせて欲しい」
「今向かっているから、さっきの話をもっと詳しく!」
「…………結舞月に、会えば分かる」
その言葉が蒼陽の足を速めた。それはアラナギの為でもあり、焦りでもあり、敵の正体を早く知りたいと言う苛立ちでもあった。
「クソッ、何なんだよ一体!」
アラナミの神霊にたどり着くまで残り僅か。蒼陽に残された時間も後少し。そして、何か途轍もない事が起きているという、心に巣食う形容し難い恐怖。その全てが、蒼陽の神霊を徐々に侵し始めていた。
――――そうして飛儺火の国々を通り過ぎ、その遥か北方。鬱蒼とした森に囲われた、上津野と呼ばれる片田舎に蒼陽は降り立つ。
「アラナミはどこだ?」
アラナギを草むらに横たわらせ、彼女は辺りを見渡す。
空には鏡のような満月。そんな不気味な月明りを頼りに見てみれば、目の前には腐りかけた廃村。しかし神経を集中させて気配を感じ取れば、並ぶ廃屋のどれかにアラナミがいることは確実だった。だがそれ以外にも、もう一つの弱弱しい神霊も感じる。
――――カラカラカラ。
と、ここで一棟の玄関が静かに音を立てる。
(誰か出てきた?)
得体も知れぬ誰か。しかし神霊はそこまで大きくはない。それでも蒼陽は天叢雲斬を背から抜く。そして構え、こちらに向かってしずしずと歩いて来る影を警戒した。
「ど、どちら様ですか?」
聞こえる女の声。それは怯えているようだが、その足取りは確かなもの。
そして月明かりが女の顔を照らし、遂に蒼陽はその正体を認識する。
「…………だれだ?」
瞼を閉じ切った妙齢の女。纏う着物は碧く、その髪は雪のように白い。背丈は蒼陽よりも高く、恐らく2メートルにまで達するほど。
「わ、私は、結舞月と申します。うん」
「お前が…………」
天女のように美しい風貌。放つ神霊は儚く、虫も殺さないような性格だと見て取れる。
「アラナギ様の神霊を感じたので、外へと出て来たのですが。貴女は一体…………」
「――――結舞月か?」
ここでアラナギが上体を起こし、その名前をぽつりと呟く。
「アラナギ様っ」
「待てッ、近づくな!」
アラナギを見るや否や駆け出す結舞月に、蒼陽は言葉による抑制を試みるが、それでも結舞月は止まらない。それどころか、涙を流し、まるで数年ぶりに、主人と再会した犬のように走る彼女に、蒼陽は何をすることも出来ず、それから先をただ傍観するしかなかった。
「ああっ、生きておられたのですね! この結舞月、ただあなた様の身を案じておりました!」
そして膝を着き、アラナギの神体を抱きしめる結舞月。その感情に他意はなく、一見すれば愛する者の無事を喜んでいるようにしか見えない。
「心配をかけたな。結舞月」
「いえっ。結舞月は信じておりました」
「ふふ。そうか」
その表情を綻ばせ、互いの愛を確かめるかのように抱き合う二柱の神。その様子はまるで、今生の別れの様だった。
「…………結舞月。お主に伝える事がある」
「はい。確と聞いております」
アラナギは、涙する結舞月の頭にそっと手を置くと、その額を彼女の額に重ねる。
「お主は、我が一生の中で、一番の華であった」
その言葉はまさに最期の言葉。自身の死を受け入れた英雄が、ただ愛する者へと手向ける言葉。そんな光景に、蒼陽はただただ息を呑む。
「…………はいっ……はいっ。わたくしも、同じにございます」
「お主に会えてよかった」
涙をくくみ、その口元を綻ばせ、アラナギは一言一言を確かに彼女へと伝える。
だが蒼陽は理解に苦しむ。アラナギの神霊は確かに半壊にまで及んではいた。しかしそれでも死に至るほどではなかったのだ。ではなぜ彼がそんな言葉を発したのか。…………それは、蒼陽も直ぐに知る事になる。
「嫌ですッ。嫌です!」
――――結舞月の様子がどこかおかしくなる。
「おやめくださいっ。まだアラナギ様は生きておられるのです!」
天を仰ぎ、まるで許しを乞うように叫ぶ結舞月。その頭上では満月が笑い、秋の夜空を美しく照らす。
「こんなのは嫌です! こんなのっ、こんなのはッ。ああッ、吾月様ッ!」
アラナギを抱きしめ、決して離れまいと強く身を寄せる結舞月。そんな閉じ切ったまぶたからは、絶えず涙が溢れており、その悲しみを彩っている。
「…………結舞月、やはりお主は愛しい」
「アラナギ様ッ、アラナギ様ッ、嫌だ、嫌だっ、嫌だぁぁぁアッ!」
そして結舞月が叫んだその瞬間、アラナギの首が流れ星のように宙を舞った。
「――――ッおい!」
蒼陽は咄嗟に刃を向ける。しかしその鉾先を何に向けているのかは分かっていない。まるで事態を飲み込めず、彼女はただ混乱していた。
「色ハ匂ヘド、散リヌルヲ」
だがそれもその筈。いま確かにアラナギの首を落としたのは。
「我ガ世誰ゾ、常ナラム」
つい先ほどまで涙して、その想いを強く抱いていた。
「有為ノ奥山、今日越エテ」
結舞月自身であったからだ。
「浅キ夢見ジ、酔ヒモセズ」
「……………………お前は」
そして達磨落としのように成り代わった神霊。それは決して忘れもしない歪な神霊。まるで真っ黒な海の底から、声にならない声で囁いて来るかのような得も知れぬ不気味。
「嗚呼、可惜夜ですこと」
閉じたまぶたを大きく見開き、地に伏した首無しの死体には目もくれず、結舞月はただ月を扇いで醜く嗤う。否、それは結舞月の姿をした別の何か。
「…………神憑、か?」
神憑。それは神使がその身に神を降ろす術。だが結舞月は神であり、神霊が神霊を宿すなど聞いたことも無かったため、それが違うことは蒼陽も気付いていた。しかしそれ以外に、この状況を理解できる言葉が見つからないのだ。
「っひっひひひ。アラナギ、うぬはもういらぬ。うん」
「…………吾月」
蒼陽がその名を口に出す。確かに見えているのは結舞月ではあるが、その中を満たしているのは吾月の神霊。だが完全な神霊ではない。それはまるで、一つの卵に二つの黄身が入っているかの様。
「お前は一体、何なんだ」
吾月は面を天に向けたまま、その視線だけを蒼陽に下ろす。その目は満月のように美しく、何者をも魅せる輝く黄金。
「ああ、いらしたのですね、そこに。うん」
「結舞月に、何をした」
「ひひひ。何も」
蒼陽は今すぐ吾月に攻撃を仕掛けることも出来る。しかし彼女はそれが出来ずにいた。そうさせるのは、十年前に船上で見た天陽と吾月の戦い。太陽が月に隠れただけで互角。ならば夜の世界では、吾月の方が圧倒的であることは火を見るよりも明らかだからだ。
「二つめの太陽。うぬはまだ殺せぬ。うん。その時が来るまでは」
緩やかで、そして上品なしゃべり方と、その口癖。それらは全て結舞月のもの。十年前とはまるで別の神のようにも思える言動は、蒼陽の心に溜まる不快を一層大きい物へと変えていた。
「その時が来たら、死ぬのはお前の方だ」
「っひひひひッ、うぬはまた違った可愛げがある。うん」
「お前…………」
「――――姫ッ!」
ここで横やりを入れるかのように突き刺さる声。二柱がその方向へ目を向ければ、そこにはアラナミの姿。しかし片腕は無く、物干し竿の如し長刀を、さながら杖のようについている様は、まさに虫の息といった様子だ。
「よせッ、来るな!」
蒼陽はアラナミに声を飛ばす。それはアラナギ同様、吾月が弟のアラナミさえも殺してしまうと思ったが故の言葉。しかし吾月は笑みを浮かべたまま、何もしようとしない。
「なんだよ、これ」
そしてアラナミはすぐに兄の死体に気付く。首はなくとも、その見慣れた背中は確かにアラナギのもの。
「…………おい。どういうことだてめえ」
その顔に憤怒の感情を浮かべながら、彼はおぼつかない手つきで鞘から刀身を抜く。だがその鉾先は震えており、確かな方向へと向かない。
――――そしてここで、蒼陽の身体が光を纏い始めた。刻返りの残り時間が尽きたのである。
「くそッ、タイムアップだっ。――今すぐ逃げろアラナミッ!」
足元から始まる世界への帰還。そしてその消失が頭に及ぶ間際、彼女はアラナミに言い放った。そこにはもはや、アラナミの怒りなど見えてはおらず、彼女はただ彼の身を案じていた。
…………しかし無念にも、彼女がそこから先を知ることは終ぞ敵わなかった。
終わったッ! 第三部完!
恐らく、ソウとアラナギの戦いで分かった方もいらっしゃると思います。ええそうですとも。私はジョジョが大好きなのです。
でも一番好きなのは五部ですね!
ちなみに六部もアニメ化しますね!
楽しみですね!




