自分の為に
「…………ここは」
一瞬の滞空。そして次の瞬間、彼女の身体は糸を切られたかのように落下を始める。
「龍昇!」
龍玉を光らせ、落下をコントロール。
そして遥か下方から感じる一つの気配。それは紛れもない天陽のもの。そしてもう一つ感じる禍禍しくもどこか懐かしい神霊が、ソウを強く引き付けた。
「カナビコ! オクダカ! 子供らを早く運べ!」
「…………御意ッ」
ソウは誰にも気づかれないよう、遥か上空から海を見渡す。
その紺碧の大海原に浮かぶ一つの大船。そして端から齧り取られていくような黒い太陽。その景色は紛れもない、十年前の忌まわしき記憶そのもの。
「ひひひ。さあ、お姉さま、ほんの束の間ですが、ここから先は此方の世界。ようこそ、夜の国へ」
今でも毛がよだつような美しい声。敵意の無い敵意。その一言一句までも、ソウは事細かに覚えていた。
「アラナミ、そこの縁切りの神使を殺してください!」
「あいよ」
飛儺で自らが手にかけた男神の姿と、その弟の姿。
ソウは直ぐにでも助けに向かいたかったが、それを邪魔しているのはもう一人のソウだった。刻返りの誓約で、過去の自分と出会ってしまえば、ソウの神霊は直ぐにでも消滅を始めてしまう。
「何やってんのよ。早く行ってよ」
心が焦る。目の前でユキメと友が殺されそうになっていると言うのに、過去の自分がいつまで経ってもその場に留まるのだ。
「ユハンを」
「今何と!?」
「…………ユハンを運んで」
その瞬間、ユハンの身体が光を帯び、まるでシャッターを切るかのように船上から消え去る。
しかし同時に、アラナギの刀がユキメの頭部を貫かんとする。
「天羽羽矢ッ!」
ソウはついに我慢ができず、もう一人の自分が完全に姿を消していないにも関わらず、咄嗟に作り上げた血矢をその刀に目掛けて放つ。そしてその光の如し速さで突き進む矢は、アラナギの刀を小枝のようにへし折った。
「もうこれ以上は無理ッ!」
天陽に持たされた、頭をすっぽりを覆い隠すような菅笠を被ると、燕のように凄まじい速度でユキメの元へと翔ぶ。
「ソウ。…………さよなら。どうかお元気で」
アラナギの半ば折れた刃が、ユキメの首を断たんと喉元へ迫る。その時ソウの脳裏に浮かんだのは、自身が最後に葬式で見た、その丁寧に縫い合わされたユキメの遺体。
「させるかッ!」
船上まで残り数十メートルの所で、背中の太刀が無意識のうちに鞘から抜け出す。しかしそれはソウの感情そのもの。天叢雲斬は、アラナギの刀がユキメに達する前に、その腕をたったの一太刀で斬り落とした。
「兄貴ッ?」
天叢雲斬が腕を断った数秒後、遂にソウの神体が船上へと到着。その衝撃は船を揺らし、まるで水面に石を投げたかのように海面に波を立たせる。
「気を付けろアラナミッ。新手だッ!」
「クッソ、よくも兄貴をッッ!」
ここでアラナミの神通力が発動するが。しかしソウは、動作を省く彼の神通力を既にシンから聞いていた。故にその攻撃を防ぐことに成功。
「…………なんだッ、てめぇ」
得体の知れぬ女神に初撃を止められ、アラナミの顔にも焦りが浮かんだ。
「今度は逃がさんぞ」
突如現れた菅笠の異常物。その夥しくも神々しい神霊に双子は焦り、巫女の姿を借りた吾月からは嫌味ったらしい笑みが消え去る。
「お姉さま。アレは一体なんですの?」
「さあな。じゃがお前の笑顔が消えて嬉しく思うぞ」
天陽と対峙したままではあるが、吾月の注意はソウに向く。しかしそれは天陽も同じだった。
自信と似た神霊を持つ女神。その時の天陽は彼女の事をそう認識した。だがこれ以上にない好機、それを逃がすまいとすぐさま反撃に出る。
「日・流れ星ッ」
宙からの飛来物。そのバレーボール程の岩石は、吾月を討たんと目にも留まらぬ速さで邁進。
「ひひひ。やはり昔と変わらないのですね」
まさに弾丸の如し速さで降り注ぐ礫をひらりと躱し、吾月は再び嘲笑し神通力で反撃する。
「月・欠け月」
目で捉えることが出来ない斬撃、それは連続して天陽の神体を刻むが。しかしその強靭な神体からすれば、ただのかすり傷ほどのダメージでしかない。
「風神・疾風!」
風神の神通力。その鋼をも断つ風の斬撃が吾月に向かう。
天陽の神通力である神統は、自らを信仰する神の力を使用する術であり、読んで字の如く、神を統べる主宰神に相応しい力。…………しかし。
「月・満ち黄金」
――――不抜の結界がその斬撃を防ぐ。
「っち」
「いひひひッ。ああ素晴らしい顔ばせです、もっと見せてくださいまし」
「相変わらず、べらべらと五月蠅いやつだ」
陽が月に隠れ存分な力を発揮できない天陽。しかしそれでも、下で双子の神を圧倒する女神のお陰で、彼女は吾月のみに集中することが出来ていた。
――――そしてその女神、ソウは利き手を失くしたアラナギとその弟を同時に相手取ったうえで、天羽羽斬と天叢雲斬をそれぞれにぶつける。
「あのガキと同じ能力。こいつも龍人か!」
「アラナミッ、集中を絶やすな!」
舞うような二振りの斬撃を受けながら、さらにソウから放たれる血矢の防御にも意識が向いてしまい、彼らは苦戦を強いられていた。
「クソッ。まるで百人と戦ってるみてぇだ」
「ここまでの龍人は初めてですね」
しかしどこか楽し気に戦う二柱。相手は自分たちよりも遥か及ばない身長であるにもかかわらず、その戦術的優位を無に帰するかのような攻撃を仕掛けてくる女神に、彼らは嬉々としていたのだ。
「ひひひひッ。ああ堪りませんわ、お姉さまが悶えるお姿はッ!」
「…………っく」
一方の天陽は苦戦を強いられる。多岐に渡る吾月の神通力を読み切れず、存分な力も発揮できぬままその攻撃を真向から受け続けていた。
「北風ッ」
するとここで、突如現れたカナビコが吾月に不意打ちを繰り出す。その剣先から生まれた風を矛先のように研ぎ澄ませ、吾月の神体を崩さんと牙を剥いたのだ。…………しかし。
「……無粋な真似を、しないでいただけます?」
吾月はその攻撃を、神通力も使わず容易く弾き飛ばす。
「カナビコ」
「遅ればせながら参上仕りました」
最強の一柱として謳われる風神と、そして最高の神を眼前にしてなお、巫女の姿を借りた吾月は、その表情を我がもののように歪ませる。
「月・欠け月」
「――――不味い、避けろ!」
天陽の声を聞き、カナビコは咄嗟に姿を風に変える。だがその見えぬ斬撃は、風すらも捕らえその神体を切り刻む。
「ぐッ、何という術」
「ひひひ。流石は風神。その身体も丈夫いですわね」
しかしここで、ようやく世界に光が差し始める。それは天陽に希望を与え、同時に吾月たちに時間切れを知らせる日時計。
「ああ。お姉さま、どうやらここまでの様ですわね」
「逃がすかッ」
朝日が世界を照らすように、天陽の神霊も本来の力をゆっくり戻し始める。しかし吾月はそれを待たずして、瞬時の判断で巫女の身体からその神霊を抜く。
「兄貴、時間だ」
「名残惜しいがここまでです。名も知らぬ龍人よ」
「――――案ずるな。直ぐに行くから待っていろ」
ソウと対峙していた双子の神も、彼女の言葉を聞き入れた後、煙のように甲板上から姿を消した。
こうして、時を超えたソウの救出劇は成功に終わったのだ。
「ユキメッ!」
吾月ふくむ双子の神の神霊が消えたことを確認すると、ソウは子供のように涙を浮かべながら、咄嗟にユキメの元へと駆ける。
血だまりの中で静かに横たわるユキメ。彼女は血を流しすぎたため気を失っており、そしていつ事切れてもおかしくないと言った状態だった。
「お主、何者だ」
ここでカナビコが、菅笠で顔を隠していたソウに問う。だが身長も伸び、さらに纏う神霊も知らぬものとなれば、彼の警戒心も仕方のないもの。
「よせカナビコ」
「大神?」
だが天陽だけは、唯一彼女をソウだと見抜いた。そして天陽は、そんな彼女の著しい成長を嬉しく思いながらも、しかし嫌な予感をその身の内でどよめかせながら問う。
「お主は一体、どこから来た」
案の定ソウは黙る。刻返りの誓約によって、相手が口外しないという確信を持てぬ限り、ソウは誰にも正体を明かせないからである。もし誓約に反したり、ソウが過去の自分に出会ってしまったら、彼女の神霊は即座に消滅を起こしてしまうからだ。
「案ずるな一二三。ここにいる者は、口の堅い連中ばかりじゃ」
その名前を聞き、カナビコは顔を白くさせた。なぜなら、確かに先ほど官学まで運んだソウが、もう一柱目の前に存在するからである。そしてその神霊に、彼は息を呑んだ。
「…………大神、これはどういう事で」
「まあ焦るな」
船上にいるのは天陽とカナビコ。そして取り残された海神三女と気を失ったユキメ。だがその誰もが、天陽に絶対の忠誠を誓う者ばかり。だからこそソウは安心できた。出来たからこそ、その口を静かに開く。
「私は、ユキメを助けに来ただけです」
「そうか。この世界には、どれだけ留まらねばならぬのだ?」
あくまでも刻返りの事は口にしない姿勢を見せる天陽。そんな彼女にソウも気を楽にして答える。
「十年です」
「…………なんと」
天陽だけは刻返りの誓約を知っている。故に彼女は、その年月を重く受け止めた。
「心配するな。お主の事は十年間、しっかりと余が世話してやる」
「先ずユキメの治療を最優先にお願いします」
ここまでの会話の中で、ソウは絶えずユキメの顔ばかりを眺めていた。どれだけ求めても決して帰ってこなかったその存在を、その全てを、しっかりと目に焼き付けるように。
「無論じゃ。直ぐにでも天都へ連れて行く」
「それと、ユキメが生きていることは、今はまだ黙っていてもらえないですか?」
「構わぬが、理由はなんじゃ」
ソウの答えは決まっている。だがしかし深い理由はない。これはいつも通りの、皆を困らせるただの我が儘。
「十年と言う短い時間ですが、最後の瞬間まで共に過ごしたいんです」
「こっちの一二三は悲しむぞ」
その言葉にはソウも笑ってしまう。最後の最後で、彼女はもう一人の自分のためではなく、自らの欲望の為に決断しからだ。
「ふふっ。まあ少しは、大切な人を失う悲しみを味わってもらわないと」
その言葉を聞き、天陽は全てを察した。本来であればユキメは殺され、神として成長させるはずのソウが、それどころではなくなってしまう事を。
そして完全なる神霊へと昇華したにも関わらず、デメリットの方が圧倒的に多い刻返りを行ったという事実が、神霊をより完璧なものにするために何が必要なのかも物語っていた。
そうして天陽が思考をめぐらす中、ソウは言葉を続ける。
「ですが、大切なものを守り抜くには力が必要です。その悲しみは少し危なっかしいですが、私の成長を大きく促すことでしょう」
目つきを変えて天陽に視線を据える少女。菅笠でその表情は窺えないが、その奥で垣間見える燃えるように赤い目は、確かに光を宿している。
「故に、いずれ行う飛儺火の平定には、もう一人の私も同行させてください。というより、何が何でも私は行くでしょう」
「しかし危険じゃぞ」
「大丈夫です。その時は私がお膳立てします。あんな思いをするのは私だけで十分ですから」
「お主も加わるのか?」
それから先、ソウは自身が経験した飛儺火での出来事を、大雑把ではあるが天陽たちに説明をした。己の心を見失い、ただ感情のままに行動しても、その先には何もないと言う事も。
…………そしてそれが、龍神蒼陽姫が自身に伝えるべき、最初で最後の言伝だった。




