嫌だ。
「島も大分見えなくなったわね」
いつもより少し暗めの太陽が差す天鳥舟の甲板上。雲は少なく快晴にも見えるが、夕暮れ差し込む海原は、少しご機嫌斜めの様子だ。
――――私たちがチヨを島に送り、そしてこれまで常世の国が抱えていた問題もサクッと解決し、西ノ宮の港に戻る間、ヒスイは遠くを眺めながら呟く。
「…………うん。なんだか寂しいねぇ」
「あれユハン、もしかして泣いてる?」
私がそう意地悪く言うと、ユハンはぐっとこらえて目つきを尖らせる。
「な、泣いてないもん!」
「あははぁ。分かりやすいなあ」
「ソウ、あなたもお城で号泣してたけどね」
「おい! それは言わないお約束だろ!」
「はぇぇ。二人とも喧嘩しないで…………」
「ほら見ろ! ユハンが泣いちゃったじゃんか!」
「な、泣いてないってばぁ」
「っふふ、もう」
などと、甲板上は遠征帰りとは思えない賑やかさだった。常世の国も天都の統治下に置かれることになるし、チヨも母親と言う存在を受け入れようとした。何もかもが、この船の様に順風満帆なのだ。それらすべての事を考えると、この旅行帰りのような空気も納得できる。
――――と、思っていた。
「カナビコ殿。少し、嫌な気配を感じませんか?」
私たち三人の隣で、ユキメとカナビコの声が聞こえる。
「お主も気付いたか」
「ええ。何か、とてつもない気配が…………」
私も薄々感じていた。と言うより、行きも感じたあの不安感だ。まるで海の中に一人沈んでいくようなあの恐怖。全身を内側から喰らいつくすアメーバのような異常。
「…………まて、何じゃこれは」
「カナビコ様、どうしました?」
ウヅキが耳を垂らし、眉をひそめて彼を見る。
カナビコの焦り。その雰囲気が、自然と私たちにも伝わるのだ。風を読めるカナビコだからこそ、彼の焦燥は一層不気味に感じる。。
「ふえぇぇ。どうしたのかな?」
「…………分からない。ソウは何か感じる?」
「………………………………え?」
――――感じる。この正体が何かは分からない。ただただ足元からゆっくりと食らうような、少しずつ地面に溶けて行くような恐怖。
この広い海原を抜けても、私は家に帰れないのではないか、という不安。そのどれもが、今の私たちを引き千切らんと、声を上げている。
分からない。この絶望の正体が。いつどこからきて、今までどこに潜んでいたのか。これだけの強大な上位的存在を、私は今まで感じられずに過ごしていた?
いや、感じる事はあったはずだ。現世で生きていた時も、この世界に産まれ落ちた時も。
この感覚は、恐怖や絶望なんかじゃない。夜空を見上げた時のような、圧倒的な無力感だ。
「う、ううん、私は何も感じないよ。気のせいじゃないかな?」
などと強がって見せるも、彼女たちは私の表情を見てさらに青ざめる。――――表情と言うより、私の眼を見ている?
「ソウちゃん…………」
「どうしたのソウ、目が真っ赤よ」
鼓動が早い。マラソンをしている時とは比べ物にならない早さ。一秒間に、一日分の脈拍を打っている様だ。――――呼吸が、整わない!
「何か来る! 全員わしの傍から離れるな!」
「皆さん、甲板上に!」「誰かいます!」「気を付けて!」
「ソウ様ッ! 私の傍にッ!」
カナビコ、三女神が騒ぎ、ユキメの目は血のように真っ赤だ。これほど赤く輝くのは見たことが無い。
「皆さぁん、驚かせてすいやせん」
聞いたことの無い男の声。野蛮なしゃべり方だが、それは紛れもない殺気を纏っている。
――声の方を向くと、そこには龍の彫刻が彫られた、黒い甲冑を身に着けた男が一人、荒れ狂う海の上に立っていた。
「お主は…………」
カナビコが声を震わせる。
「久方ぶりですね、翁カナビコ」
「アラナギ、貴様何故ここにおる」
その男を見た途端、カナビコが刀を抜く。私はこの時初めて、彼が戦いで刀を抜いた姿を目の当たりにした。……故に感じるは、アラナギと呼ばれる男への恐怖心。
「嫌ですね。その目、そんなので私を見ないで頂きたい」
「貴様! 我が君への忠誠を失くしたのか!?」
――――大神への忠誠? まてまて、こいつ天津神か?
そうして空中に舞い上がる男。腰には一振りの太刀。その佇まいからして、相当の使い手であることは明白だが、先ほどから感じる異常な気配は、こいつの物ではない。
「いえ、天陽様への忠は未だ健在ですよ」
「…………ならばなぜ八百年前、中つ国の平定に向かったきり戻ってこなかったのだ」
八百年前の平定? 中つ国の平定が始まったのは三十年前じゃ?
「私も色々とありましてね。仕える主を変えただけですよ」
吹き荒れる波風をものともせず、男は空中で直立不動を保ったまま、上品な笑みを浮かべる。
髪色は明るく、かき上げたような長い髪は、男とは思えない妖艶さを感じさせる。そして確かに、その男は天つ神としての神々しい神霊を放っていた。
「何だと」
「しかし、太陽への忠があることは真の事。太陽が無ければ、月は輝きませんからね」
その言葉を聞いた時、目に見えてわかるくらい、カナビコの表情から血の気が引いた。
「…………月じゃと」
「いくら太陽が輝けど、夜の闇は照らせぬのですよ」
「アラナギ、お主」
沈黙が続く。しかしそれを破ったのは他の誰でもない、突如甲板上に現れた、もう一人のアラナギだった。
「おいアラナミ。いつまで趣味の悪い事をしているつもりだ」
宙に浮いている男とは違い、漆黒の袴に身を包むもう一人の男。二人とも兜をかぶっていないため、その素顔は露わになっているが、驚くことに、二人とも全く見分けがつかない程の相似っぷりだ。
「だってさ兄貴ぃ、こいつ全然気づかねえんだもん」
先ほどの気品はどこへ行ったのか、先ほどまでカナビコが話していた男は、大きく表情を変えて声高らかに笑う。
「カナビコ殿、長年共に苦渋を舐めたというのに、まさか気付かぬとは、残念で仕方ありません」
「どういうことじゃ。何故アラナギが二柱もおるのだ」
「アラナミは弟ですよ。けれど、我ら同じ光から生まれし双神。顔も神霊も似ているので、見分けがつかぬのは自然な事です」
先ほどから悠長に話してはいるが、カナビコ以外の全員は気が気ではなかった。呼吸を忘れる程の異常な空気。
けれどそれが、この二柱から伝わるものならどれだけよかったか。
――――そう、確実にもう一つ気配がある。いや、二つか三つかも分からない。一体どれだけの気配がここにある?
「失礼、ご紹介しましょう、こちらの方は我らの巫女。その御心を神に捧げるべく参った、誠貴きお方です」
異質な雰囲気を纏う巫女装束の少女。その表情は虚無だが、しかし目には涙が浮かんでいる。
そしてアラナギは、彼女の背後から両肩に手を置き、ニンマリと、目の笑わない笑顔を作った。
「兄貴ぃ、別にソイツの紹介はいらんだろ」
「馬鹿者。彼女はさるお方の巫女です。故に我らも敬意をもって接さねばならぬ」
依然として空中に佇む弟のアラナミは、へらへらと顔の筋肉が無いかのような表情。それに対し、兄アラナギは常に上品さを纏っている。
「へいへい。……んじゃあそろそろ、長い前置きも置いといてさぁ、やっちゃっていい?」
――――その言葉の意味は、皆殺しだ。
「カナビコ殿! 神通力で子供たちを西ノ宮へ送ってください!」
「…………しかし、ワシが風に変えられるのは一人までじゃ」
ユキメが叫ぶ。しかしカナビコの額には汗。その思考は、連続する意外によって鈍っているように見える。
「――――構いませんアラナミ。ただし、カナビコと大神の神使は殺さないでください」
呼吸が早まる。「殺す」と言う言葉を、私は初めて本来の意味で捉えることが出来たのだ。怖い、怖い?
「あいよ、三女神はどうする?」
「雑魚だ。我らの脅威にはならぬ。好きにしてください」
「あいあい!」
その言葉を境に、空中にいたはずのアラナミが、煙のようにその姿をくらます。
「カナビコ殿、早く――――ッ!」
ユキメの怒号が飛び――――。彼女の腕が飛ぶ。真っ赤な血を、その断面から噴き出しながら、円を描くようにクルクルと。
「っユキメぇッ!!!!!」
「…………………………ソウっ」
彼女は斬られた腕を庇うことなく、私をカナビコの方へと突き飛ばす。
「あれ? おっかしいなぁ、確かに首を狙ったはずなんだがなぁ」
「アァッ、クソがァッ! よくもユキメを! お、お前ッ、絶対ぶっ殺してやるッ!」
殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す殺す、殺す、殺す、殺す、殺すッ!
「おいおい、血の気の多いガキだなぁ。っはっははは!」
アラナミは刀に付着した、その燃ゆるように朱い液体を眺めて笑う。液体は血だ、ユキメの血が、アイツの刀を伝っているんだ。
「カナビコ殿ッ! ソウ様を! 大神の御神使をッ」
「不覚ッ! ユキメ殿、援護は頼んだぞ」
――――カナビコが私を抱きかかえる。
違う、そうじゃない。ユキメを助けなきゃッ!
「龍脚ッ、龍椀ッ」
「――――蒼陽姫ッ!」
還りを使い、私は彼の腕から逃れる。
駄目だ、私はユキメと居なければならない。産まれた時も一緒だった。今日までずっと、一緒だったんだ。
「カナビコ、先ずは他の皆から!」
「ソウ…………!」
ほんの数秒渋ったが、カナビコはすぐさまヒスイを抱え、何か言いたげな彼女と共に風に変わった。
「おお? なんだガキぃ、お前龍人かぁ、悪くねえな」
刀の峰で肩を叩くアラナミ。その余裕たる表情を浮かべ、嘲笑。
「ユキメ、今すぐ龍昇で逃げろ。ここは私が引き付ける」
「なりませぬ。…………ソウ様は、私の後ろに」
「誓いを忘れたかッ? 退け!」
左手に血刀を構え、右腕断面からは流血。もはや彼女は、戦える状態ではない。だから早く、この場から退けないと。
「…………龍頭、龍尾、龍脚」
「ユキメッ! 言う事を聞いて、お願いだから!」
しかしユキメは、驚くことに三か所を同時に還らせる。頭には松の如し角。腰からは尾が生え、鎧のような鱗で覆われている。
「おお? いいね、いいねぇ。龍人らしいぜ、化け物どもォッ」
「――――居合、閃光」
刹那の斬撃。目にも留まらぬ速さで、ユキメがアラナミに斬りかかる。だが、虚しくも、その斬撃は受け止められる。
「おおこわ、流石に見えなかったぜ。やっぱツイてるわ俺様は」
「天叢雲斬、抜刀ッ、山卸!」
殺ッた、龍脚による最高速度の山卸。
しかしそれすらも、兄アラナギに邪魔をされ、アラナミの神体に届くことはなかった。
「気を抜かないでください、アラナミ」
「おい兄貴! 邪魔すんなよ、俺だけでやれたって!」
「馬鹿を言え、俺がこうして来なかったら、お前は絶対遊んでただろ?」
「あああ? それは分かってねぇ。全く持って分かってねえよ俺様を」
ぺらぺらと喋る兄弟。視線も、集中も、お互いの会話に集中しているように見えるが、彼らは私たちの剣撃を悔しいほど鮮やかに受けている。
「弐舞・乱斬りッ!」
「一刀桜花」
これまで如何なる者も青ざめてきた二振りの乱舞。しかしその一切までもが、アラナギたった一柱によって止められている。
さらに乱斬りを受ける兄アラナギの隙を突き、そこにユキメが一刀を入れるも、今度は弟が出てきて止める。――――全く敵う気がしない。
「ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ!」
祝詞が聞こえた。私じゃない、これはユハンだ。
「…………縁切り、離心ッ!」
その瞬間、アラナギが手にしていた刀が、まるで意思を持っているかのように、彼の手から弾け飛んだ。
「ふむ。縁切りの御利益か。面白い神使ですね」
――――これでアラナギは丸腰! チャンス!
「弐舞・飾り斬りッ!」
叢雲と羽羽斬が十文字の斬撃を繰り出す。甲板を削り、木片をまき散らしながら斬り上げる…………が、それすら弟アラナミが刀で受ける。
「おいおい! 戦の最中になに刀放り投げてるんだよ!」
「馬鹿者、刀との縁を切られたのです。我が刀はもう使い物にならない」
「なんだそりゃ、ざまあねえな。まあそういう事なら、俺様が貰ってやるよ」
届かない。どれだけ隙があっても、どんだけ斬撃を加えても、兄弟でカバーし合うこいつらには、全く隙が無い。私の一太刀がまるで届かない。ユキメも出血しすぎだ。これでは、負ける。
「術が解ければ、また握れますよ」
「――――ユハン逃げて!」
「…………ふぇっ」
アラナギがユハンに向かう。阻止したいが、しかしこの距離では、私の二振りは間に合わない。不味い。
「龍尖ッ!」
瞬間、ユキメの尻尾から青白い熱線が放たれ、それは耳を塞ぎたくなるほどの風切り音を放ちながら、支柱をつんざき、アラナギに向かう。
この技は、還った龍人の体内に溜まる熱を圧縮し、それを鞭のようにしなる尾から撃つ技。山すら断つ程の大技だ。
――――だが、尾の先から放たれる熱尖は、電源が切れたかのように途切れ、尻尾の切断面から末広がりに空へ放射される。
「…………ッぐ」
床に転がる龍尾。それはアラナミによって切断された、ユキメの尻尾。
もう嫌だ、もう止めて。
「ひえぇ。やっぱ尻尾は真っ先に斬るべきだな」
「助かりましたアラナミ」
龍尖は、龍人の切り札にして、最終奥義。速度も火力も最高を誇るが、体内に溜まる熱を逃がすため、行動制限が生まれてしまう。
「ハッハッハ。やっぱ何度見ても面白いなぁ、それ」
龍尖による体温の上昇を抑えるため、ユキメの口からは大量の唾液が溢れ出る。これが収まるまで、彼女は動けない。
「そう言えば、今は動けないんだっけか?」
――――ヤバイ!
「弐舞ッ・二枚卸ッ!」
二振りの刀が、逆方向から同時に払い斬る。――――だが、アラナミの姿は既にそこに在らず。
「角、頂きぃ」
ユキメの双角が断たれる。
「高く売れるんだよなぁ、これ」
「――――アラナミ! 何してる、さっさと殺せ!」
最早ユキメは、血を流しすぎた。もう立てない程、彼女の顔は真っ青だ。……駄目だよユキメ。早く立って。
「龍は…………」
「あ?」
「その滴る一滴までも、無駄にはしない」
いつもの透き通るような声が、唾液と血反吐で擦れている。聞きたくない。お願いだから、もうここから逃げて。
「なんだ、負け惜しみかぁ?」
「早く殺せアラナミ! 床はもう、龍の血で溢れているぞ!」
「は?」
木材で仕上がった優しい色合いの甲板は、気付けばユキメの血によって、燃ゆるような赤で埋め尽くされていた。
「神楽・神舞」
――――瞬間、血の海から幾百もの槍が生成され、その鉾先は、全てがアラナミへと向けられる。
「…………やべ」
アラナミに初めて焦燥が生まれる。しかし時すでに遅く、龍血槍は一本残らず彼に向かって牙をむく。そしてその嵐の如き猛攻は、アラナミの身体を貫いた。
「ひょぉぉ。あっぶねえぇぇ」
「馬鹿が! だから早く逃げろと言ったんです!」
――――いつの間にッ?
串刺しになったと思っていたのは、アラナミの甲冑だけで、その本体はアラナギによって既に移動していた。
「疾風ッ!」
ここで突如、船を揺らす程の風の斬撃が、二柱の兄弟目掛け放たれる。
「カナビコっ」
「遅れてすまぬ。ここから陸地まで、どうしても時間が掛かってしまう」
髭も髪も、汗でぐっしょりと萎びている。相当飛ばしたのか、その呼吸ももはや呼吸とは言えぬほど荒れている。
「カ、カナビコ殿、ソウ様を早く…………」
「駄目じゃ、今ここで奴らを殺す」
「子供たちが狙われます!」
「このまま運んでいても、ユキメ殿が殺されるだけじゃ」
「構いませんッ、ソウ様と子供たちを」
しかし話し合う時間すら、兄弟は与えてくれなかった。
兄アラナギは変わらずユハンを狙い、凄まじいスピードで距離を詰める。
「こんな幼気な少女を狙うとは、お主も変わったなアラナギ」
だがユハンの前にはカナビコが立ちはだかった。そして先ほどからウヅキの気配がない。もし隠れ笠で隠れているのなら、今守るべきは、ユハンだけだ。
「――――翁カナビコ。貴殿も、随分と老いている様だ」
「なにを言うか、まだまだ健在じゃ」
これでアラナギはカナビコと対峙する。あとは私がアラナミを殺して、ユキメを早く治療しなければ…………。
しかしここで、総毛立つような、全身の血が逆流するような悍ましさが私を包む。しかしその気配には、どこか懐かしい感じもした。
そうして、糸を手繰り寄せるようにその先触れを追っていくと、そこには彼ら兄弟が連れてきた巫女が、悲痛な涙をこぼしながら合掌をして立っていた。
「不味い! 蒼陽姫ッ、あの巫女を断たれよッ!」
「クソ、血一矢ッ!」
カナビコからの突然の怒号。少し焦ったが、私は咄嗟に血矢を作り、これまでにないくらいの最高速度で打ち放った。
だがやはりそれさえも、いつの間にか現れたアラナミによって打ち砕かれてしまう。
「なんだよお前はッ!」
――――そうして巫女が、その身に真っ赤な日暮れを受け、血に染まった床から神を降ろす。
「月・黄金・神憑き」




