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龍人の子、陽の元に堕つ  作者: 麗氷柱
第二章 不死の呪いと死なずの少女
109/202

嫌だ。

「島も大分見えなくなったわね」


 いつもより少し暗めの太陽が差す天鳥舟アメノトリフネの甲板上。雲は少なく快晴にも見えるが、夕暮れ差し込む海原は、少しご機嫌斜めの様子だ。


 ――――私たちがチヨを島に送り、そしてこれまで常世の国が抱えていた問題もサクッと解決し、西ノ宮の港に戻る間、ヒスイは遠くを眺めながら呟く。


「…………うん。なんだか寂しいねぇ」

「あれユハン、もしかして泣いてる?」

 私がそう意地悪く言うと、ユハンはぐっとこらえて目つきを尖らせる。

「な、泣いてないもん!」

「あははぁ。分かりやすいなあ」

「ソウ、あなたもお城で号泣してたけどね」

「おい! それは言わないお約束だろ!」

「はぇぇ。二人とも喧嘩しないで…………」

「ほら見ろ! ユハンが泣いちゃったじゃんか!」

「な、泣いてないってばぁ」

「っふふ、もう」


 などと、甲板上は遠征帰りとは思えない賑やかさだった。常世の国も天都の統治下に置かれることになるし、チヨも母親と言う存在を受け入れようとした。何もかもが、この船の様に順風満帆なのだ。それらすべての事を考えると、この旅行帰りのような空気も納得できる。


 ――――と、思っていた。


「カナビコ殿。少し、嫌な気配を感じませんか?」


  私たち三人の隣で、ユキメとカナビコの声が聞こえる。


「お主も気付いたか」

「ええ。何か、とてつもない気配が…………」


 私も薄々感じていた。と言うより、行きも感じたあの不安感だ。まるで海の中に一人沈んでいくようなあの恐怖。全身を内側から喰らいつくすアメーバのような異常。


「…………まて、何じゃこれは」

「カナビコ様、どうしました?」

 

 ウヅキが耳を垂らし、眉をひそめて彼を見る。

 カナビコの焦り。その雰囲気が、自然と私たちにも伝わるのだ。風を読めるカナビコだからこそ、彼の焦燥は一層不気味に感じる。。


「ふえぇぇ。どうしたのかな?」

「…………分からない。ソウは何か感じる?」

「………………………………え?」


 ――――感じる。この正体が何かは分からない。ただただ足元からゆっくりと食らうような、少しずつ地面に溶けて行くような恐怖。

 この広い海原を抜けても、私は家に帰れないのではないか、という不安。そのどれもが、今の私たちを引き千切らんと、声を上げている。


 分からない。この絶望の正体が。いつどこからきて、今までどこに潜んでいたのか。これだけの強大な上位的存在を、私は今まで感じられずに過ごしていた?

 いや、感じる事はあったはずだ。現世で生きていた時も、この世界に産まれ落ちた時も。

 この感覚は、恐怖や絶望なんかじゃない。夜空を見上げた時のような、圧倒的な無力感だ。


「う、ううん、私は何も感じないよ。気のせいじゃないかな?」


 などと強がって見せるも、彼女たちは私の表情を見てさらに青ざめる。――――表情と言うより、私の眼を見ている?


「ソウちゃん…………」

「どうしたのソウ、目が真っ赤よ」


 鼓動が早い。マラソンをしている時とは比べ物にならない早さ。一秒間に、一日分の脈拍を打っている様だ。――――呼吸が、整わない!


「何か来る! 全員わしの傍から離れるな!」

「皆さん、甲板上に!」「誰かいます!」「気を付けて!」

「ソウ様ッ! 私の傍にッ!」


 カナビコ、三女神が騒ぎ、ユキメの目は血のように真っ赤だ。これほど赤く輝くのは見たことが無い。


「皆さぁん、驚かせてすいやせん」


 聞いたことの無い男の声。野蛮なしゃべり方だが、それは紛れもない殺気を纏っている。

 ――声の方を向くと、そこには龍の彫刻が彫られた、黒い甲冑を身に着けた男が一人、荒れ狂う海の上に立っていた。


「お主は…………」

 カナビコが声を震わせる。

「久方ぶりですね、翁カナビコ」

「アラナギ、貴様何故ここにおる」


 その男を見た途端、カナビコが刀を抜く。私はこの時初めて、彼が戦いで刀を抜いた姿を目の当たりにした。……故に感じるは、アラナギと呼ばれる男への恐怖心。


「嫌ですね。その目、そんなので私を見ないで頂きたい」

「貴様! 我が君への忠誠を失くしたのか!?」


 ――――大神への忠誠? まてまて、こいつ天津神か?

 そうして空中に舞い上がる男。腰には一振りの太刀。その佇まいからして、相当の使い手であることは明白だが、先ほどから感じる異常な気配は、こいつの物ではない。


「いえ、天陽様への忠は未だ健在ですよ」

「…………ならばなぜ八百年前、中つ国の平定に向かったきり戻ってこなかったのだ」


 八百年前の平定? 中つ国の平定が始まったのは三十年前じゃ?


「私も色々とありましてね。仕える主を変えただけですよ」


 吹き荒れる波風をものともせず、男は空中で直立不動を保ったまま、上品な笑みを浮かべる。

 髪色は明るく、かき上げたような長い髪は、男とは思えない妖艶さを感じさせる。そして確かに、その男は天つ神としての神々しい神霊を放っていた。


「何だと」

「しかし、太陽への忠があることは真の事。太陽が無ければ、月は輝きませんからね」


 その言葉を聞いた時、目に見えてわかるくらい、カナビコの表情から血の気が引いた。


「…………月じゃと」

「いくら太陽が輝けど、夜の闇は照らせぬのですよ」

「アラナギ、お主」


 沈黙が続く。しかしそれを破ったのは他の誰でもない、突如甲板上に現れた、もう一人の()()()()だった。


「おい()()()()。いつまで趣味の悪い事をしているつもりだ」


 宙に浮いている男とは違い、漆黒の袴に身を包むもう一人の男。二人とも兜をかぶっていないため、その素顔は露わになっているが、驚くことに、二人とも全く見分けがつかない程の相似っぷりだ。


「だってさ兄貴ぃ、こいつ全然気づかねえんだもん」 


 先ほどの気品はどこへ行ったのか、先ほどまでカナビコが話していた男は、大きく表情を変えて声高らかに笑う。


「カナビコ殿、長年共に苦渋を舐めたというのに、まさか気付かぬとは、残念で仕方ありません」

「どういうことじゃ。何故アラナギが二柱もおるのだ」

()()()()は弟ですよ。けれど、我ら同じ光から生まれし双神。顔も神霊も似ているので、見分けがつかぬのは自然な事です」


 先ほどから悠長に話してはいるが、カナビコ以外の全員は気が気ではなかった。呼吸を忘れる程の異常な空気。

 けれどそれが、この二柱から伝わるものならどれだけよかったか。


 ――――そう、確実にもう一つ気配がある。いや、二つか三つかも分からない。一体どれだけの気配がここにある?


「失礼、ご紹介しましょう、こちらの方は我らの巫女。その御心を神に捧げるべく参った、誠貴きお方です」


 異質な雰囲気を纏う巫女装束の少女。その表情は虚無だが、しかし目には涙が浮かんでいる。

 そしてアラナギは、彼女の背後から両肩に手を置き、ニンマリと、目の笑わない笑顔を作った。


「兄貴ぃ、別にソイツの紹介はいらんだろ」

「馬鹿者。彼女はさるお方の巫女です。故に我らも敬意をもって接さねばならぬ」


 依然として空中に佇む弟のアラナミは、へらへらと顔の筋肉が無いかのような表情。それに対し、兄アラナギは常に上品さを纏っている。


「へいへい。……んじゃあそろそろ、長い前置きも置いといてさぁ、やっちゃっていい?」


 ――――その言葉の意味は、皆殺しだ。


「カナビコ殿! 神通力で子供たちを西ノ宮へ送ってください!」

「…………しかし、ワシが風に変えられるのは一人までじゃ」


 ユキメが叫ぶ。しかしカナビコの額には汗。その思考は、連続する意外によって鈍っているように見える。


「――――構いませんアラナミ。ただし、カナビコと大神の神使は殺さないでください」


 呼吸が早まる。「殺す」と言う言葉を、私は初めて本来の意味で捉えることが出来たのだ。怖い、怖い?


「あいよ、三女神はどうする?」

「雑魚だ。我らの脅威にはならぬ。好きにしてください」

「あいあい!」


 その言葉を境に、空中にいたはずのアラナミが、煙のようにその姿をくらます。


「カナビコ殿、早く――――ッ!」


 ユキメの怒号が飛び――――。彼女の腕が飛ぶ。真っ赤な血を、その断面から噴き出しながら、円を描くようにクルクルと。


「っユキメぇッ!!!!!」

「…………………………ソウっ」


 彼女は斬られた腕を庇うことなく、私をカナビコの方へと突き飛ばす。


「あれ? おっかしいなぁ、確かに首を狙ったはずなんだがなぁ」

「アァッ、クソがァッ! よくもユキメを! お、お前ッ、絶対ぶっ殺してやるッ!」


 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す殺す、殺す、殺す、殺す、殺すッ!


「おいおい、血の気の多いガキだなぁ。っはっははは!」


 アラナミは刀に付着した、その燃ゆるように朱い液体を眺めて笑う。液体は血だ、ユキメの血が、アイツの刀を伝っているんだ。


「カナビコ殿ッ! ソウ様を! 大神の御神使をッ」

「不覚ッ! ユキメ殿、援護は頼んだぞ」


 ――――カナビコが私を抱きかかえる。

 違う、そうじゃない。ユキメを助けなきゃッ!


「龍脚ッ、龍椀ッ」

「――――蒼陽姫ッ!」


 還りを使い、私は彼の腕から逃れる。

 駄目だ、私はユキメと居なければならない。産まれた時も一緒だった。今日までずっと、一緒だったんだ。


「カナビコ、先ずは他の皆から!」

「ソウ…………!」

 ほんの数秒渋ったが、カナビコはすぐさまヒスイを抱え、何か言いたげな彼女と共に風に変わった。


「おお? なんだガキぃ、お前龍人かぁ、悪くねえな」

 刀の峰で肩を叩くアラナミ。その余裕たる表情を浮かべ、嘲笑。


「ユキメ、今すぐ龍昇で逃げろ。ここは私が引き付ける」

「なりませぬ。…………ソウ様は、私の後ろに」

「誓いを忘れたかッ? 退け!」


 左手に血刀を構え、右腕断面からは流血。もはや彼女は、戦える状態ではない。だから早く、この場から退けないと。


「…………龍頭、龍尾、龍脚」

「ユキメッ! 言う事を聞いて、お願いだから!」


 しかしユキメは、驚くことに三か所を同時に還らせる。頭には松の如し角。腰からは尾が生え、鎧のような鱗で覆われている。


「おお? いいね、いいねぇ。龍人らしいぜ、化け物どもォッ」

「――――居合、閃光」


 刹那の斬撃。目にも留まらぬ速さで、ユキメがアラナミに斬りかかる。だが、虚しくも、その斬撃は受け止められる。


「おおこわ、流石に見えなかったぜ。やっぱツイてるわ俺様は」

「天叢雲斬、抜刀ッ、山卸!」


 殺ッた、龍脚による最高速度の山卸。

 しかしそれすらも、兄アラナギに邪魔をされ、アラナミの神体に届くことはなかった。


「気を抜かないでください、アラナミ」

「おい兄貴! 邪魔すんなよ、俺だけでやれたって!」

「馬鹿を言え、俺がこうして来なかったら、お前は絶対遊んでただろ?」

「あああ? それは分かってねぇ。全く持って分かってねえよ俺様を」


 ぺらぺらと喋る兄弟。視線も、集中も、お互いの会話に集中しているように見えるが、彼らは私たちの剣撃を悔しいほど鮮やかに受けている。


「弐舞・乱斬りッ!」

「一刀桜花」


 これまで如何なる者も青ざめてきた二振りの乱舞。しかしその一切までもが、アラナギたった一柱によって止められている。


 さらに乱斬りを受ける兄アラナギの隙を突き、そこにユキメが一刀を入れるも、今度は弟が出てきて止める。――――全く敵う気がしない。


「ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ!」

 祝詞が聞こえた。私じゃない、これはユハンだ。

「…………縁切り、離心ッ!」


 その瞬間、アラナギが手にしていた刀が、まるで意思を持っているかのように、彼の手から弾け飛んだ。


「ふむ。縁切りの御利益か。面白い神使ですね」

 ――――これでアラナギは丸腰! チャンス!

「弐舞・飾り斬りッ!」


 叢雲と羽羽斬が十文字の斬撃を繰り出す。甲板を削り、木片をまき散らしながら斬り上げる…………が、それすら弟アラナミが刀で受ける。


「おいおい! 戦の最中になに刀放り投げてるんだよ!」

「馬鹿者、刀との縁を切られたのです。我が刀はもう使い物にならない」

「なんだそりゃ、ざまあねえな。まあそういう事なら、俺様が貰ってやるよ」


 届かない。どれだけ隙があっても、どんだけ斬撃を加えても、兄弟でカバーし合うこいつらには、全く隙が無い。私の一太刀がまるで届かない。ユキメも出血しすぎだ。これでは、負ける。


「術が解ければ、また握れますよ」

「――――ユハン逃げて!」

「…………ふぇっ」


 アラナギがユハンに向かう。阻止したいが、しかしこの距離では、私の二振りは間に合わない。不味い。


「龍尖ッ!」


 瞬間、ユキメの尻尾から青白い熱線が放たれ、それは耳を塞ぎたくなるほどの風切り音を放ちながら、支柱をつんざき、アラナギに向かう。

 この技は、還った龍人の体内に溜まる熱を圧縮し、それを鞭のようにしなる尾から撃つ技。山すら断つ程の大技だ。


 ――――だが、尾の先から放たれる熱尖は、電源が切れたかのように途切れ、尻尾の切断面から末広がりに空へ放射される。


「…………ッぐ」


 床に転がる龍尾。それはアラナミによって切断された、ユキメの尻尾。

 もう嫌だ、もう止めて。


「ひえぇ。やっぱ尻尾は真っ先に斬るべきだな」

「助かりましたアラナミ」


 龍尖は、龍人の切り札にして、最終奥義。速度も火力も最高を誇るが、体内に溜まる熱を逃がすため、行動制限が生まれてしまう。


「ハッハッハ。やっぱ何度見ても面白いなぁ、それ」


 龍尖による体温の上昇を抑えるため、ユキメの口からは大量の唾液が溢れ出る。これが収まるまで、彼女は動けない。


「そう言えば、今は動けないんだっけか?」

 ――――ヤバイ!

「弐舞ッ・二枚卸ッ!」


 二振りの刀が、逆方向から同時に払い斬る。――――だが、アラナミの姿は既にそこに在らず。


「角、頂きぃ」

 ユキメの双角が断たれる。

「高く売れるんだよなぁ、これ」

「――――アラナミ! 何してる、さっさと殺せ!」


 最早ユキメは、血を流しすぎた。もう立てない程、彼女の顔は真っ青だ。……駄目だよユキメ。早く立って。


「龍は…………」

「あ?」

「その滴る一滴までも、無駄にはしない」


 いつもの透き通るような声が、唾液と血反吐で擦れている。聞きたくない。お願いだから、もうここから逃げて。


「なんだ、負け惜しみかぁ?」

「早く殺せアラナミ! 床はもう、龍の血で溢れているぞ!」

「は?」


 木材で仕上がった優しい色合いの甲板は、気付けばユキメの血によって、燃ゆるような赤で埋め尽くされていた。


「神楽・神舞」


 ――――瞬間、血の海から幾百もの槍が生成され、その鉾先は、全てがアラナミへと向けられる。


「…………やべ」


 アラナミに初めて焦燥が生まれる。しかし時すでに遅く、龍血槍は一本残らず彼に向かって牙をむく。そしてその嵐の如き猛攻は、アラナミの身体を貫いた。


「ひょぉぉ。あっぶねえぇぇ」

「馬鹿が! だから早く逃げろと言ったんです!」


 ――――いつの間にッ?

 串刺しになったと思っていたのは、アラナミの甲冑だけで、その本体はアラナギによって既に移動していた。


「疾風ッ!」

 ここで突如、船を揺らす程の風の斬撃が、二柱の兄弟目掛け放たれる。

「カナビコっ」

「遅れてすまぬ。ここから陸地まで、どうしても時間が掛かってしまう」


 髭も髪も、汗でぐっしょりと萎びている。相当飛ばしたのか、その呼吸ももはや呼吸とは言えぬほど荒れている。


「カ、カナビコ殿、ソウ様を早く…………」

「駄目じゃ、今ここで奴らを殺す」

「子供たちが狙われます!」

「このまま運んでいても、ユキメ殿が殺されるだけじゃ」

「構いませんッ、ソウ様と子供たちを」


 しかし話し合う時間すら、兄弟は与えてくれなかった。

 兄アラナギは変わらずユハンを狙い、凄まじいスピードで距離を詰める。


「こんな幼気な少女を狙うとは、お主も変わったなアラナギ」


 だがユハンの前にはカナビコが立ちはだかった。そして先ほどからウヅキの気配がない。もし隠れ笠で隠れているのなら、今守るべきは、ユハンだけだ。


「――――翁カナビコ。貴殿も、随分と老いている様だ」

「なにを言うか、まだまだ健在じゃ」


 これでアラナギはカナビコと対峙する。あとは私がアラナミを殺して、ユキメを早く治療しなければ…………。


 しかしここで、総毛立つような、全身の血が逆流するような悍ましさが私を包む。しかしその気配には、どこか懐かしい感じもした。

 そうして、糸を手繰り寄せるようにその先触れを追っていくと、そこには彼ら兄弟が連れてきた巫女が、悲痛な涙をこぼしながら合掌をして立っていた。


「不味い! 蒼陽姫ッ、あの巫女を断たれよッ!」

「クソ、血一矢ッ!」


 カナビコからの突然の怒号。少し焦ったが、私は咄嗟に血矢を作り、これまでにないくらいの最高速度で打ち放った。

 だがやはりそれさえも、いつの間にか現れたアラナミによって打ち砕かれてしまう。


「なんだよお前はッ!」


 ――――そうして巫女が、その身に真っ赤な日暮れを受け、血に染まった床から神を降ろす。


「月・黄金こがね・神憑き」

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