武鞭3
龍文書―9
【天の山腹】:天界へ繋がる唯一の神宮。ここへ来るための道は下界にいくつもあるが、それらは途中で一本に収束する。誰でも入れるわけではない。
「ソウ様、いかがされましたか?」
門の前で立ちすくむ私を見て、ユキメが不思議そうな表情で私を見る。
「あぁ、ごめんごめん。ちょっと考え事」
こんな所でビビっている姿は見せられない。と、私は自分の頬を叩いて、いざ手水舎の前に立つ。
――――ちなみに手水舎の作法は知っている。
先ず柄杓を使って左手を濯ぐ。次に右手を濯いで、柄杓を持ち換えたら左手で口を漱ぐ。最後は柄杓の持ち手を残った水で洗い流す。完璧だ。
私はドヤ顔でユキメを見る。この年で手水舎の作法を知っているのだ。きっと目ん玉ひん剥いて驚いてるだろうな。
「何をしておられるのですか?」
ユキメは柄杓で水をすくうと、それを自らの頭にぶっかける。
――――いや、お前が何してんの?
「な、何してるのユキメ」
「神の御前に列するのです。手だけではなく、身も清めねばなりません」
あ、そういう事。現代の作法は通用しないのね。
…………というわけで私もユキメを見習い、ひんやりとした手水を頭からかぶった。
「うう。袴が肌に引っ付く」
べたべたして気持ち悪い。だが不思議と寒くはない。しかし、ここまでびしょ濡れだと、かえって神様に失礼な気がする。
「すぐに慣れます。私も初めてここへ来た時、ソウ様と同じ気持ちでしたから」
水も滴るいい女が何か言っている。
濡れた黒髪、唇に残った水滴。水を吸った袴は体に吸い付き、そのボディラインを露わにさせる。
…………エロいぞ。なんだか頭がくらくらする。
「いかがなさいましたか、ソウ様?」
「――――へ? ごめん聞いてなかった。何か言った?」
「いえ、大したことではありませんが、目が虚ろですよ。ご気分でも悪いのですか?」
果たしてこの女は、自分の美しさに気付いているのだろうか? きっとこれまでも、何人もの男を骨抜きにしてきたに違いない。
「大丈夫! ちょっとぼーっとしてただけ」
「そうですか。ならいいのですが」
眉根を吊り上げ、心配そうな表情で私の顔を覗き込むユキメ。この感じは、多分気付いてないな。
「では、参りましょう」
そうして私たちは門をくぐり、拝殿へとたどり着く。だがやはり、拝殿も凄まじく甚大であり、巨大物恐怖症でなくとも鳥肌が立つ。
「あいそづさいしゅじぇにふぁねか」
「えっ?」
突然声を掛けられ心臓が縮みそうになる。
恐る恐る声の方へ顔を向けると、大きな白い獣が、石柱の上から私の事をじっと見つめていた。
「ユキメ…………」
そのおぞましい姿に肩がすくみ上がった私は、条件反射の様にユキメの袖を掴む。
――――何だあれ? 顔怖すぎるだろ。
「狛犬ですね。我々が神獣の言葉を理解することは出来ませんが、彼らに敵意はありません」
ユキメはそう言って、柴犬でも見ているかのような表情で狛犬を見る。しかしどうしても、私はその獣を生理的に受け付けなかった。
平らな顔に大きな鼻。耳まで裂けているかの様な口からは、人間のように平な歯が覗いている。まさしくその姿から連想するのは、狛犬ではなく人面犬だ。
「安心してください。ソウ様には私が付いていますから」
そう言って彼女は私に身体を寄せ、羽織の袖を私に覆いかぶせる。すると、まるで布団の如し抱擁感に、私は絶大なる安心感を得る。
そうして私の肩に手を回したまま、ユキメは拝殿の鈴を力いっぱい打ち鳴らす。しかし、がらんがらんと響く鈴の音は、あまり心地のいい音ではない。
――――しばらく待つと、建物の奥からぎしぎしと音を立てながら、笏を持った一人の男がやってくる。
この人も大きい。二メートル以上はあるぞ。
「よくぞ参った。その方らの名と、所を述べよ」
水色の衣をまとった男は、見えているのか分からないくらい細い目をしている。一見した感じは年若い好青年だ。
「手前は、天千陽に住する龍人が一人、ユキメ・エトと申します」
まるで私に“こう言うのです”と、教えるかのように、ユキメが先陣を切って男の言葉に答える。だから私も彼女の動作を真似る。
「て、手前も、同じく天千陽に住する龍人が一人、ソウ・ヨウと申します」
腰を直角に曲げた深いお辞儀。この最敬礼は神様にのみ行う礼だ。という事は、この男の人も神様の一柱なのだろうか
「ふむ。して、用件は?」
「は。恐れ多くも我らの子が無事、今年で三十を迎えました。しかしながら、これからも道は長く。その無病息災を願い、禊を済ませに参った次第にございまする」
「うむ。汝らの早い行いに、天都の神々も満足しておられる」
ユキメの言葉を聞くと、男は糸目をさらに細めて満足そうに頷く。どうやら歓迎されている様だ。
「しからば、参られよ」
私たちは男に言われるがまま内部へ上がり、亀のようにのんびりと歩く男に付いてゆく。
殿内は壁が少なく、風も素通り出来るほどの造りで、まるで来訪者を手招いているかのように、その口を大きく開けていた。
日差しを通さないので中は程よく明るい。外から入る風も、打ち水の如く涼しく、その風に乗って来た桜の花が、歩く度々蝶のように舞う。
――――その美しい殿内に、心地よさを覚えながらしばらく歩くと、なにやら細い渡り廊下に差し当たった。
「ここから先は、童子のみ。付き人はここで待つように」
男は足を止めて振り返ると、ここから先へは通させまいと言わんばかりに、渡り廊下の中央に立つ。
「ソウ様、案ずることはありませぬ。どうか安らな心で行ってきてくださいませ」
ユキメは優しく微笑むと、私に向かって小さくガッツポーズを見せる。
しかし、今から独りになると思うと、ユキメが遠い存在のように感じてしまう。




