12問目:白 / 黒 Ⅱ ②
部室の中へと足を踏み入れ、後ろ手に入口の扉を閉める。
見渡す限り荷物は彼女の鞄しか見当たらないが――。
「今のところは私だけですよ、先輩」
「そうか。君はどれくらい前からここに?」
「三十分ほど前でしょうか。かくいう私も今から描き始めようとしていたところで」
そう言いながら彼女は真っ白なカンバスを俺に見せる。
どうやら今から描き始めるところだったようだが、もしかしたらインスピレーションを湧かせようと集中していたところだったのかもしれない。
もしそうならタイミングが悪かったのか。
「それで先輩。先ほどのお返事はいつ聞かせて頂けるのでしょうか」
だがまぁ、この調子であれば何も問題はないのだろう。
崩れることのない穏やかな表情の彼女の様子に俺は杞憂だったことを感じ取る。
「悪いな。残念だが君の気持ちには応えることが出来ない」
「そうですか。それは残念です」
告白を断られたにも関わらずさらっと会話の流れを断ち切る彼女は、そのまま何事もなかったかのように元の席へと戻りイーゼルに向き合い始める。
相変わらずの変わらなさぶりに、俺はいっそ安堵感を抱いてしまう。
「頼むから他の部員たちの前で今みたいなことはしてくれるなよ」
「あら、乙女の告白に対して無情にも断りを入れておきながらその言い分ですか」
「本気の告白だというのならもう少し考えるさ」
「そうですか。きっと私の本気は伝わらないんですね」
ああ言えばこう言う、そんなところは昔から変わらない。
年の割には大人びていて、その本心を誰にも悟られないように上手く立ち回る様はいつ見ても感心してしまう。
「そうだ先生。少しアドバイスを頂きたいのですが」
そして、いつも気が付けば彼女にペースに巻き込まれてしまう。
彼女が上手なのか、それとも俺のコミュニケーション能力が低いのか。
「その呼び方はやめてくれ。もう俺は君の先生ではないのだから」
彼女と出会ったからの四年間。
一体いつからこんな関係性を築いてしまったのだろうか。
『悪いんだけどさ。妹に勉強を教えてやってよ』
俺――黒崎祐一が彼女と出会ったのは中学二年生の夏。
当時小学六年生だった彼女――柏木愛花の家庭教師を引き受けたことにより話は動き出す。
『え? だってどうせ暇でしょ。受験勉強? 大丈夫でしょ。あんたなら』
事の発端は彼女の姉に面倒を見て欲しいと頼みごとをされたことだ。
いや、頼み事というにはあまりにも一方的な会話にも等しかったのだが。
『そうね、分かった。もしあんたが困るようなことになったらあたしが何とかしてやるわよ。だからそれまでお願い! ね、この通り!』
ただ、あの頃の俺は彼女のお願いを断ることなど出来るわけもなく、表面では渋る表情を見せながらも心の中では既に了承の意を決めていた。
ある意味での反抗期みたいなものだったのかもしれない。
ともあれそうして俺は柏木愛花の家庭教師を務めることとなった。
『……そうも、柏木愛花、です。よろしく、お願いします』
初対面の印象はお互いに決して良いものとはいえなかった。
他人に何かを教えることなど考えたこともなかった俺と、良く知りもしない相手に急に家庭教師だと宣言されて戸惑う愛花。
いま考えてもお互い気まずい雰囲気で挨拶を交わしたことは今でもよく覚えている。
その原因の半分は俺にあって、残りの半分は勝手に話を進めた愛花の姉にあるだろう。
『あぁいいのいいの。妹は人見知りだからね。少し強引なくらいでちょうどいいわよ』
いや、ほとんど彼女のせいだと訂正しておくとしよう。
そんな彼女に振り回されながら始まった愛花の家庭教師生活は、少しずつではあるものの俺と彼女の距離を縮めていくこととなった。
『……あの、先生。ここを教えて欲しいんだけど』
『ねぇ先生。この問題解いてみたんだけど合ってるかな?』
『聞いてよ先生。この前のテストが良く出来てね』
週に二日程度のペースで愛花の家に通っては、気が付けば勉強よりも彼女との会話時間の方が長くなっていた。
特にお金をもらっているわけでもなく、全国模試何位以上にして欲しいなどと要望があったわけでもない。
名目上の家庭教師から、彼女と少し親しい友人へと変わっていくまでにそれほど長い時間を要することはなかった。
「ねぇ、先生。私の話を聞いてますか?」
「――あぁ、すまない。少し考え事をしていた。それより先生はやめてくれと」
ふと昔を思い出していた矢先、現実の彼女に声を掛けられる。
どうやら最初の一筆をどう描き入れようか悩んでいるらしい。
俺の言葉に反省の色を見せることもなく一点にイーゼルを見つめたまま口を開き始める。
「なんていうかおおまかなイメージは出来ているんです。ただどう手を入れていいのかが難しくて」
右手に黒のパステルを持ち上げカンバスに手を伸ばしてはそのまま固まる。
そんな動きを先ほどから繰り返していたのだろう。ついには腕を下ろしたまま頭の中で考えを整理し始めてしまったようだ。
「そうだな。俺だったら気にせず描き始めてしまえというところだが。それはアドバイスになっているか?」
「相変わらずどうでもいいことには大雑把な人ですね」
「悪いが元々俺は風景画というのが苦手でな」
「知ってます。先輩は肖像画をよく描かれてるんですよね」
絵画作品というものにはいくつかの種類がある。
静止して動かない人工物や自然物を対象に描く静物画、動物や植物を描く博物画。自然の風景を描く風景画に、特定の人物を描く肖像画。他にも宗教画や風俗画などというものもある。
その中で我が美術部で扱うのは風景画、静物画、博物画、そして肖像画の四つが主となっている。
「自慢じゃないが入部したころからほとんど肖像画しか描いてこなかったからな」
「えぇ、本当に自慢にもなりませんね」
一応あまり堅苦しい部活動というわけでもなく、ある程度は部員たちの自由に描いても良いという風習はあるのだが、ただ一つ一定周期ごとに作品を発表するという決まりごとがある。
コンクールに出品でもいいし顧問に提出という形でも構わない。自由に過ごしても良いが何らかの結果を形にしろというのが昔からの習わしとして部のルールと定められている。
ただし受験生である三年生はそれらに縛られないというのが暗黙のルールとはなっているのだが――。
「まぁいいです。アドバイスにはならなくても誰かの意見が聞きたい気分なので。少しお時間を頂けますか?」
そう言いながら椅子から立ち上がった彼女は部屋に置いてあるスケッチブックを手に取り、近くにある机の上に広げて線を描き始める。
「私のイメージを見せるので感想を頂けますか」
俺の返事など聞きもせず手を動かし始める彼女の姿に、俺はいつかの彼女の姉の姿を想い重ねる。
なんてことはない。やはり彼女たちはしっかりと姉妹だったということだ。
「分かった。だがあまり期待してくれるなよ」
そんな俺の言葉に振り返り、彼女は微笑を浮かべる。
「それでは早速ですが、まずはここを見てください――」




