2問目:勝利 / 敗北 《後編》
「それであなたはコテンパンに負かされたというわけね。なんて恥ずかしいモノローグ」
朝の朝礼が終わって間もなく、俺は目の前の女にボロクソとけなされていた。
その理由としては、もちろん例の一件に他ならない。
「……うっせえ。んなことはどうだっていいんだよ」
結論から言って、俺は勝負に負けた。
それもほとんど勝ち筋の見えない形でだ。
「……くっそ、今思い出しても腹が立つぜ」
多少のブランクはあるが、それでも一応の経験者である自負がある。
それほど下手を打っていたわけではない、と俺自身はそう思っている。
だが、俺は負けた。
なぜ負けたかも理解できないほどの試合運びに、俺はあの日自分が負けたと認めるまでに時間お要したほどだった。
「それで、なぜそんな話を私に聞かせてくれたのかしら。笑い話の提供ならありがとうございます」
「相変わらず性格がひん曲がってんなおめぇは! ――ちげぇよ。お前に聞きたいことがあるんだよ」
この他人をおちょくることに一切の躊躇をしない女の名前は柊詩乃。
俺の腐れ縁かつ悪友みたいなやつだが、何故かこいつに関しては割と良い評判が流れているらしい。
割と高い学力もこいつが『優等生』と呼ばれる所以の一つだが、どちらかと言えば生意気にもその優れた容姿を褒め散らかすような評価が多いと聞く。
やれ『可愛い』だの『人形みたい』だの。行きつくところでは既に複数の上級生に告白までされたとまで話に聞いている。
コミュニティに属さない俺がここまで聞いているってことは他にもいろいろとあるんだろうが、まぁ御大層なことである。
「そう。それで要件は何かしら?」
「あぁ、実はよ――」
まぁ、そんな気に食わねぇ女だが、俺としては柊のことを結構気に入ってはいる。『将来一緒に馬鹿をやりたい友人』の一人に数えているくらいには、だ。
口も性格も人一倍悪いやつではあるが、それでも根は良いやつである。口喧嘩ばっかりの俺たちだが、関係性が俺は嫌いではない。
「そう。宮原くんってもしかしてアホなのかしら」
いや、まぁ、本当に口はわりぃんだが。
多分あれだ、容姿が良い分差し引きで性格が悪くなってる感じだな。
「あ? ならてめぇは知ってんのかよ」
「私はその場にいなかったのだから知るわけないでしょ」
そんな柊に対して俺が聞いてるのは例の女について。
あの後調べてみたもののその正体が分からず、また遭遇することも出来ずにいた。
今度はリベンジしてやろうと図書館に足を運ぶも姿は見えず、例のテーブルにはあの日の面影すら見えなかった。
「遊んだ相手の名前も知らないあたり実に宮原くんらしいと思うわ」
「……それについては何も言い返せねぇよ」
せめて名前だけでも聞いて置くべきだったと後悔したのは家に帰ってからのことだった。
――名前を知らない、か。
「そもそもの話、その女子生徒って私たちと同い年なのかしら」
まずは情報を整理しようと柊が話を切り出す。
「背丈は柊よりも少しちっこいくらいだったが」
「容姿はあてにならないでしょ。それは宮原くんがよく分かっていることだと思っていたのだけれど」
「まぁ、そりゃ確かにな」
実に正論を並べる目の前の女に俺は思わず感心する。
学力とは別の、頭が良いというのはこういうやつのことを言うのかもしれない。
「ちなみにリボンの色を覚えているかしら」
「リボン?」
「あなた本当に他人に興味がないのね。ほらここ、女子はみんなリボンを付けているのよ」
そう言いながら柊は胸元に見えるリボンを指差す。
「……リボンの色、ねぇ」
あの女の外観を確認してはいたものの、言ってしまえばリボンの付けていたかさえ覚えてはいない。
あの特徴的な長い髪と顔はしっかりと覚えてはいるんだが――。
「……いや、まったく記憶にねぇ。それでそのリボンがどうした」
「女子はね、リボンが学年ごとに色分けされているのよ」
再び柊の胸元に視線を落とす。
リボンの色は赤だ。
「二年生が青、三年生が紺色。まぁ着用が義務付けられているわけでもないしファッションの一環で他学年の知り合いと交換している人もいるみたいだからあくまで参考程度だけど」
ほら、と柊が指差す先へと視線を向ければ、廊下を歩く女子生徒の姿が目に映る。
「青色ってことは二年生か」
「おそらくね」
思い返そうとするも、やはり記憶にはない。
それで言えばあの時図書室にいた受付の図書委員の方が――。
「――そうか、あの受付の女か」
あの図書委員。そういえばリボンを付けていたような気がする。
記憶が曖昧だが、赤ではなかったはず。てことは多分同級生じゃねぇ。
それで探すとなれば――。
「ちっ、結局あそこに行くのかよ」
現時点で唯一の手掛かりとなるのはあの女だ。
チェスを指している姿に動揺していなかった気がするし、おそらく何か知っているに違いない。
あとは図書委員だって分かっている分探しやすいのがでかい。
「……わりぃな柊。あてが出来たわ」
「そう。それは良かったわね」
とりあえず昼休み、図書室に行ってみるか。
いなきゃいないで構わねぇ。今いる図書委員にでも話を聞けばいいだけの話だ。
「待ってろよ。絶対に捕まえてやるからな」
昼休みが待ち遠しいなどと感じたのは初めてかもしれない。
俺は授業中も頭の片隅からチェス盤の記憶が離れることはなかった。
「で、なんで柊がここにいるんだよ」
ようやく待ちに待った昼休み。
授業中に早弁を決め込んだ俺を縛るものは何もない。
チャイムが鳴ると同時にと図書室へと向かうべく教室から離れた俺は、いつの間にか隣を歩いている柊に声をかける。
「話を聞かせるだけ聞かせておいてその物言い。酷いわ」
「そうか。本音は?」
「面白そうなことを独り占めするなんて許せない」
影が薄いなんてことは微塵もねぇが、こいつは気が付くと近くにいることがある。
気配を消すのが上手いのか行動が読めないだけなのか。
さすがに驚き過ぎて慣れたもんだが、その行動の読めなさは相も変わらずといったところ。
もしもこいつと気が合うやつがいるとすれば、多分そいつも変人に違いねぇな。
「てか、お前昼食はどうしたんだよ。まさか食わねぇってことはないだろ」
「食べたわ」
「は? いつだよ」
「あなたと同じよ」
「おま、まさか――」
予期せぬ返答に、俺は思わず足を止めてしまう。
は? 俺と同じってことは――。
「いや、とんでもねぇ女だなお前は! 早弁なんてキャラじゃねぇだろうが」
「初めての経験だったわ。高校生活の綺麗な思い出ね」
「そ、そうか」
「ちなみに感想もあるわ」
「言ってみろよ」
「お腹すいていない時間に食べたせいで少し気持ち悪いわ。吐きそう」
いつもの無表情と変わりはないが、若干顔色が青くも見える。
人のことを散々にアホ呼ばわりしておきながらこの痴態。
実はこいつはただの阿呆なのではないだろうか。
「気持ち悪りぃならちゃんと教室に帰れよ。誰も困らねぇぞ」
「誰にものを言ってるのかしら。迷惑をかけるのなら最小限に人数にとどめるわ」
「そうか。今すぐ帰れ」
お腹を擦り、いつもの調子で返事をする柊に俺は心からの言葉を投げかける。
――今更過ぎるが一番仲の良いやつがこいつって大丈夫なのか、俺。
そんな調子を狂わされるトラブルはあったものの、しかし物事は俺が想像していた以上の成果を上げた。
「あれ、君はこの前の」
昼休みの図書室。受付に立っていたのはあの時の図書委員だった。
「こんにちは友奈先輩。お久しぶりですね」
「あれ、詩乃ちゃん。この時間に珍しいね」
強いてあげれば柊の知り合いだったってのが気になるところではあるのだが。
「俺は一年の宮原。この前俺とチェスで勝負していたやつを探してるんっすけど」
「わたしは二年生の明石友奈。よろしくね」
どうやら先輩は俺のことを覚えてくれていたらしい。
自分で言うのもあれだが目立つ容姿だから当然なのかもしれないが、何はともあれ話が早くて助かるぜ。
「友奈先輩。実は彼がある女子生徒に熱を上げているようでして。その、忘れられないと」
「てめぇ、柊! 言い方ってものに気を付けろや」
「こらこら、ここは図書室だぞ! 大声出しちゃ駄目でしょ!」
つい声を荒げてしまった俺は、明石先輩に注意を受ける。
――いやでも、この人の声も結構デカかった気が……。
「それで、君が聞きたいのは彼女のことでしょ」
余裕を見せた態度で先輩が話の流れを戻してくれる。
こちらとしても時間をかける気はねぇ。さっさと話を済ませたいところだ。
「先輩はあいつのこと知ってるんですか」
「知ってるって言うか親友だしね。というか『あいつ』なんて呼んじゃ駄目だよ。ちゃんとした君の先輩なんだからさ」
「上級生、ってことは先輩と同じ二年生」
「そうだよ。わたしの同級生だ」
なるほど、柊の推測通り同級生ではなかったってわけか。
「そうよ宮原くん。生意気よ」
「少し黙ってろ」
柊を無視しながら俺は自分の中で情報を整理する。
一つ年上で俺を知っていて、小柄な女子――。
「……先輩、名前はなんて言うんですか」
「え? 明石だけど」
「じゃなくて、あの先輩の」
「あぁ、――氷室桜ちゃんだよ」
ひむろ、さくら――。
「ねぇ、あの子に会いたい?」
少しの間をおき、俺は先輩から話を切り出される。
「そうっすね。この前の借りを返さないと気が済まないっていうか」
「あの時相当悔しそうだったもんね。リベンジ、したいでしょ?」
「……やっぱりあの時見てたんだな」
「もちのろんだよ」
ぐっと親指を立てていい笑顔を浮かべる先輩。
いっそ清々しいまでの気持ちの良さに、俺は思わず毒気を抜かれてしまう。
なんというか、実にノリの良いことだ。
「で、俺はどうすればいいんっすか」
「図書室に通ってくれればそのうち会えると思うけど、せっかくだから連絡先を交換しない?」
「いつ会えるのかを教えてくれるってことっすか」
「というよりも桜ちゃんと直接やり取りすれば早いかなーって」
それから俺は先輩の話を聞く羽目になるわけだが、正直何を言ってるのかよく分からなかった。
機械音痴、なんて表現が正しいのかは分からねぇがそういったことが苦手な俺はほぼ使用していないスマートフォンを先輩に手渡し、勝手に設定を進めてもらうことにした。
曰くこれで連絡が取れるだの、グループがどうたらと言っていたが全くと言っていいほど理解は出来ていない。
「……柊、あとで教えてくれ」
「いいわよ。その代わり今度は私のお願いを聞いてね」
これで問題は解決しそうだという事実に、俺は十分に満足していた。
柊に余計な貸しを一つ作ることになりそうだがそれは仕方のないことだと甘んじて受け入れよう。
何はともあれ、これであいつとの再戦に臨めるってもんだ。
「あっ、ところで詩乃ちゃん。そろそろ部活は決めたの? まだ決めてないのなら一緒にテニスとかどうよ」
「お誘いは嬉しいのですが、実は一つ候補が――」
話を始めた二人を傍目に見つつ、用が済んだ俺は図書室を後にする。
やることは一つ。数年以来、久々にチェスの勉強だ――。
「よぉ、先輩。待たせちまったか?」
「……私も、今来たところ。大丈夫」
あれから数日後、俺は氷室先輩とついに再会を果たすこととなった。
出会ってからちょうど1週間後の放課後、ついに俺はこの人に借りを返す機会を得られたってわけだ。
「……連絡、ありがとね」
「別に大した話もしてねぇだろ」
「……それでも、ありがとう」
先輩が話にあげているのは例の連絡グループでの会話のことだ。
明石先輩と連絡先を交換したその日の夜から件のやり取りが始まるわけだが、俺としてはほとんど会話に参加した記憶がねぇ。
『ねぇねぇ! 聞いてよ! 今日現国の教師にさ――』
だいたいは明石先輩が発端で会話が始まり、柊と氷室先輩がその話に乗っかっていくようなやり取りがほぼ毎日行われていた。
俺からすればわざわざ話をするような内容なのかと首を傾げたくなるようなものばかりだったが、少なくとも先輩たちにとっては楽しいやりとりだったのだろう。正直俺にとっちゃ場違い感しかなかったが。
『ところで宮原くん、既読ってシステムご存知ですか?』
また腹が立つことに学校では柊にいじられる羽目になった。
何でも既読とかいうシステムのせいで俺がやり取りを眺めていることは全員に伝わっているらしい。
説明を受けてもよく分からなかったが、出来ればそういうことは先に教えて欲しかった。
「……それじゃあ、宮原くん」
「あぁ、よろしく頼むぜ。先輩」
ともあれ結果として今日この場でリベンジの場を得られたことには感謝のほかない。
場所は図書室で図書委員担当が明石先輩だという、まさにあの時とほぼ同じ状況。
――強いてあげれば一つ違うのはやつの存在。
「それでは公平を期してわたしが審判を務めましょう。両者立ち合いたまへ」
「おいてめぇ柊。なんでここにてめぇがいるんだよ」
柊詩乃、こいつはなぜここにいるのか。
「あら、審判に抗議かしら。そんなあなたにはイエローカードよ」
「二枚目もプレゼントするから退場してくれ」
いつものくだらないやり取りを繰り広げる俺たちを他所に、先輩は淡々と準備を進めていく。
テーブルに用意されたチェス盤に駒を並べていく様を眺めつつ、俺は横に立つ柊に視線を向ける。
相も変わらず人をからかうことが好きな奴だが、とりあえず今は邪魔でしかねぇ。
「わりぃが柊、今日の俺はマジなんだ。いくらお前でも邪魔するのは許さねぇぞ」
駒をもうすぐ並び終えるかという頃、いよいよもって柊をどかすことに決める。
別にいてもいなくてもとは思うが、万に一つも気を散らせたくないというのが本音だ。
俺でなくても場合によっては先輩が集中出来なくなるなんて可能性もあるだろう。
――だが、こいつがすんなりと引き下がるものだろうか。
「心外ね。それくらい理解してるわ」
「……そうか」
予想外にも素直な回答が返ってきた。マジか、あの柊がこんな簡単に。
「その代わり一つ教えて欲しいのだけれど」
案の定何か取引を始めようとする柊。
こいつに素直なんて言葉を使った自分を殴ってやりたくなるぜ。
「質問にもよるが、答えたらさっさとどっかに行けよ」
「えぇ、もちろん」
そう言葉を告げた柊は一度言葉を区切り、少し間をおいてから改めて口を開く。
「宮原くんはなぜそんなに本気なの?」
「あ? どういう意味だよ」
「意味深い質問をしたつもりはないわ。言葉の通りよ」
この女、なんか唐突にめんどくせぇことを言いだしやがった。
なんで本気なのか? 意味が分からねぇ。
「あの先輩に負けたままなのが気に気わねぇってだけじゃ駄目なのか?」
「それは、本心かしら」
柊の返答に俺は思わず言葉が詰まってしまう。
理由だとかよく分からねぇが、それ以外にないだろ。
こいつは俺の何が知りてぇんだ。
「……ごめんなさい。何でもないわ。少し気になっただけよ」
柊がどんな意図をもって質問してきたかは分からねぇが、少なくとも俺の回答はお気に召さなかったらしい。
「気になることがあるなら言ってみろ。会話の切り方が気持ちわりぃんだよ」
「本当に気にしないで頂戴。それにほらそろそろ準備が終わる頃よ」
柊が指差す先、丁寧に駒を並べたチェス盤が対局を待ち望んでいるかのように準備されていた。
「……宮原くん、お待たせ」
氷室先輩が席に着き、俺に声を掛ける。
「さぁ宮原くん。待ち望んでいた時間でしょ」
「……ちっ、言われるまでもねぇよ」
さらりと視線を受け流す柊に、俺は悪態をつきながら席に着く。
気持ちを落ち着けるため、目の前のテーブルを眺める。
あの日と同じ光景を、頭にしっかりと焼き付ける。
「なぁ先輩。手加減とかは無しだぜ」
「……それは私の話? それともあなたの話?」
「俺も先輩もだ。負けたときの言い訳なんて見苦しいだろ?」
「……勝てると、思うんだ」
涼しい顔していい挑発をかましてくるじゃねぇか。
あるいはその自覚がないのかもしれねぇが、おかげさまで存分に集中できそうだぜ。
「始めようぜ先輩」
「……うん。分かった」
前回とは違い今度の俺は正真正銘、最初から勝ちにいくつもりで盤面に向き合う。
油断などあるはずもない。相手は確実に格上の相手だ。
なんの憂いもなく集中できるこの状況で、果たしてどんなゲームに臨めるのか、俺自身楽しみで仕方がねぇ。
「……よろしくお願いします」
「あぁ、よろしくお願いします」
先輩が最初の一手を動かす。
ここからだ。もうすでに勝負は始まっている。
思考を読み、先を予測し、そして柔軟に対応する。
ただの一つも後れを取るわけにはいかない。そのために今日まで研究してきた。
負けたくねぇと、その一心で俺はいまこの場所にいる。
――こいつに勝ちたいと、その目的の為だけに俺は一手を示す。
「……絶対に負けねぇ」
俺自身にさえ聞こえなかったそのつぶやきは、ただ一人の耳に届いたのかもしれない。
僅かばかりに表情が変わったように見えたのは、おそらく俺の気のせいだろう――。
「桜ちゃん。楽しそうだな~」
静かな図書室で思わず口に出してしまい、わたし――明石友奈はうるさくなかったかと辺りを見渡す。
今いるのは桜ちゃんと宮本君、詩乃ちゃんに――その他あと四人くらい?
反応している人はいないから、多分大丈夫。
もし聞こえていたとしても聞き流してくれたのだろう。
その事実を確認しほっと胸をなでおろしつつ、改めてチェス盤を挟む二人へと視線を向ける。
片一方に座る少女、氷室桜ちゃんは私の大切な友人だ。親友と呼んでも差し支えない仲である。
「あの桜ちゃんが男の子と遊んでる姿なんて初めて見たかも」
誰かと積極的に関わろうとせず、自分の時間を何よりも大切にしている女の子。
その性格もさることながら周囲から浮きがちになる彼女は、わたしのほかあまり親しい友人がいる様子はない。
嫌われているわけではないのだが、事情が事情だけに仕方ないともいえる。
だが、そんな彼女が誰かと過ごす時間を待ち望んでいる姿を、わたしはこの前初めて目撃した。
『ったくなんなんだよ!』
あの日、聞こえてくる喧噪に騒がしいなと目を向ければ、そこでは桜ちゃんがガラの悪そうな男の子に話しかけていた。しかも頬まで突っついてである。
最初は頭の処理が追い付かなかった。
あの桜ちゃんが男の子と話をしている。しかもなにやら揉め事っぽい雰囲気で。これはもう、なんとも言葉にしがたい異常事態だった。
ある種、奇跡としか言いようがない大問題だとすら思えたし、それくらい本当に驚かされた光景だった。
しかし、桜ちゃんの想定外の行動はそれだけには留まらなかった。
『――なるほどね。それじゃあその宮原君が会いたいって言ってきたら、わたしはどうすればいいかな』
『その時は、私のことを、教えてもいい』
『うん、分かったよ』
『ありがとう。――ねぇ、友奈ちゃん』
『うん? どうしたの』
『もしも、できたら、なんだけど』
『うん?』
『――連絡先、聞いてみて、もらえるかな』
おいおい可愛すぎかよ。
万が一にも失敗などあり得ないっ! そんな思いを胸に抱きながら会話をスクショで確保しつつ、わたしは件の宮原くんからどのようにして連絡先を聞き出すのかを考え始めていた。
――せっかくの桜ちゃんの勇気、決して無駄にはすまい。
「しかしあの不良っぽい男の子が桜ちゃんの、ねぇ。――ふふっ」
そんなつい先日の記憶から先、現在に目を戻し改めて桜ちゃんの方へと視線を向ける。
ここからではよく見えないが、そこには確かに二人だけにしか見えない世界があって、彼と彼女は互いに向き合っていた。
「本当は早めの戸締りを頼まれてたんだけど、まぁ仕方ないよね?」
先生に頼まれていたお願いごとだが、お客さんが帰らないのだから仕方がない。
満足して帰ってもらえるまで付き合うってのが仕事ってもんだ。
「――良かったね、桜ちゃん」
正直、それが桜ちゃんの『恋』なのかわたしには分からなかったが、もしそうであれば全力で応援してあげようと改めて決意する。
恋をしたことのないわたしだけど、それはきっと素晴らしいことなのだろうと思うから。
未だ始まりの季節。
これから先の時間の中でずっと二人を見守っていけたらとわたしは彼女らを見届ける。
願わくば、わたしの友人に幸せなひと時を――。
《了》