11問目:勝利 / 敗北 Ⅲ ③
階段を下り二階に降りた俺はフロア全体を見渡し、三番と六番卓が空席となっていることを確認する。
マサさんと話をしていた十数分の間にお客が店を離れたのだろうか。
「なんだ宮原、もういいのか?」
席を片付けていた黒崎先輩が俺に気が付いたようだ。
一番卓のお客たちが大声で談笑している姿を視界に入れつつ、黒崎先輩の元へと足を運ぶ。
「今日は特にすることはないってことなんで降りてきました。手伝いますよ」
「そうか。それでは済まないがここの席を頼む。俺はあっちを」
そう言いながらまだ他の片付けの出来ていない席に目を配り、俺たちはそれぞれの役割を分担し作業を始める。
皿やグラスを下げテーブルを拭き、ついでに翌日に向けて備品を裏方に下げて置く。
メニュー表や灰皿、箸入れなどを綺麗にまとめて置き翌日当番の担当に分かるようにしておくこと。
黒崎先輩から締め作業として教えられた仕事の一つだ。
「宮原、それが終わったら上がっていいぞ。あとは一番卓のお客さんだけだからな」
同じく備品を下げに来た黒崎先輩から声を掛けられる。
「分かりました。なんかいつも最後任せちゃってすみません」
「気にすることはない。いずれは宮原も同じような状況を任される日が来るさ」
「……なんか実感が湧かないっすね。俺が先輩とか」
「そのうち分かる。それよりほら。あまり待たせすぎるのは良くないぞ」
一切の疲れを見せず丁寧な仕事をこなす黒崎先輩は、もう一席のお客に目を配る。
知らぬ間に注文をしていたようで、そこにでは見知った女が一人静かに食事をしていた。
騒々しい居酒屋とは縁の無さそうな儚さを醸し出す存在感。
少し浮いてしまっているとも言っていいだろうその空気に、しかし当の本人は何も気にした様子はない。
「いや待たせてるってか、俺は別に待ち合わせなんて――」
どうにも言い返す言葉が上手く見つからずつい歯切れが悪くなってしまう。
そんな心内を知ってか知らずか、黒崎先輩は微笑を浮かべながら俺の肩を叩く。
「いいさ。そういうことにしておこう」
「――先輩、分かってて楽しんでないっすか?」
「さぁ、どうだろうな」
そんな軽口でのやり取りをしながらも残りの仕事を進め、俺は黒崎先輩の話通りに仕事を切り上げる。
黒崎先輩に挨拶をし、マサさんへの仕事報告と帰り支度をするために階段を上る俺は、ふと後ろを振り返る。
「……………………」
こちらを見ることなくゆっくりと食事を進める氷室先輩。
そんな先輩の姿を少しの間眺めてから、俺は再び階段を上り始めた。
「お疲れ様。今日は、もう終わり?」
「こんな時間だしな。今日はもう上がりだ」
閉店まで残り二十分といった時間に、俺は氷室先輩と向かい合って席に座っていた。
手元には黒崎先輩が運んでくれた水の入ったグラスが一つ。
対する氷室先輩の前にも、同じように飲み物の入ったグラスだけが置かれていた。
「今日は何を食べてたんだよ」
「おすすめされた、お刺身。美味しかったよ」
「……あれ、刺身なんて残ってたっけか」
途中からメニューが無くなり始めていた中、刺身もほとんど残っていなかったような気がするが。
「メニューにね、載ってない注文だって、教えてもらった。残り物、だって」
「……良いように使われてるじゃねぇか。ちなみにいくらだ」
「二百円」
「そりゃあ随分安いこったな」
どんなサービスだと一人働く店員に目を向ければ、こちらに気が付いたようで爽やかな笑みを返される。
「ただのイケメンかよ」
「どうしたの?」
「いや、何でもねぇ」
俺のつぶやきが耳に届いたのか小首をかしげる氷室先輩。
顎に手を当てながら、俺はそんな彼女の目をじっと眺める。
対し、氷室先輩もグラスを持ち上げちびちびとのどを潤しながらも、俺の目から視線を外すことなく見つめ合う。
「……どうしたの? 珍しい」
「……いや、何でもねぇ」
「……そう。なんか、照れる」
「……それは悪かったな」
言葉ほど照れた様子を見せない氷室先輩。
相も変わらずの無表情さに心な中で苦笑いを浮かべつつ、そろそろ閉店の時間だと彼女に伝える。
一番卓のお客も帰り支度を始めており、いよいよ今日の仕事が終わりを迎えようとしている。
「そういえば会計は?」
「先に、済ませてある」
「そうか」
当然黒崎先輩もそんな状況を把握しており、進めていた閉店作業の手を止め会計の準備を始める。
「俺たちも出るか」
「いいの? いつもみたいに、少し手伝うって、言うのかと思った」
氷室先輩の言うように、これまでは閉店後も手伝おうかと残っていたこともある。
「あぁ、いいんだよ。今日は帰ろうぜ」
だけどそれは、少し考え方が違うのではないかと最近考えている。
手伝いたいってのは俺の個人的な感情であって、合理的に考えてそれは『仕事』ではないのだと、そんな風に黒崎先輩に教えられたような気がする。
だらだらと働くのではなく働く時間の中で上手く立ち回る術を、俺はあの先輩の背中から学び取ることを言外に伝えられている――のかもしれないのだと、なんとなしにそう思うようになったのだ。
「……なぁ先輩。働くのって難しいのな」
「……私は、働いたことないから、分からないかも」
空のグラスに手を当て氷室先輩はどこか遠くを見るように視線を外す。
俺はそんな彼女の姿に目を配り、一度目を閉じてから席を立つ。
そんな俺の姿に気が付いた黒崎先輩と、お客も残っている手前俺は軽く手を上げて無言の挨拶を交わす。
今日はお疲れ様でしたとお辞儀だけで感謝を伝え、店を後にする。
こうして今日一日、忙しかった俺の仕事は終わりを迎えた。
「宮原くん、今日はもう、帰るの?」
「あぁ。時間も時間だしな。帰るさ」
俺と氷室先輩は隣に並びながら帰路に就く。
元々二人ともが口数の多いタイプではないため、基本的には無言で歩き進むような状況である。
時折どちらかが話題を提供しそれに答える。
そんなやり取りを繰り返す俺たちの姿を、見る人にとってはどのような関係性だと感じ取るのだろうか。
特に待ち合わせをしているわけでもなく、それでもこんな夜遅くに二人で道歩く俺たちの関係性を、彼女はどのように思っているのだろうか。
まったくもって、実にらしくねぇ考えだと、自分でもそう感じていた。
「なぁ先輩。あの店そんなに気に入ったのか。いつも来てるじゃねぇか」
「そうだね。料理は、美味しいし、私は、好きかも」
「そうか。そりゃあ良かった」
「……もしかして、迷惑? 働きにくい?」
「ん? あぁちげぇよ。――ただ何となく聞いてみたかっただけだ」
「……そう」
「……あぁ、それだけだ」
実に意味のない問い掛けだ。
そう答えることくらい分かっているのに。
「……そういえば、俺飯食ってないんだよな。コンビニ寄ってくんだけど先輩はどうするよ」
「帰っても、することないし。付き合う」
特に急ぐでもなく、俺たちは歩幅を合わせて歩き続ける。
少し遠回りのコンビニへと行き先を変え、そのうちに今度は先輩の近況について話を聞く。
何でもない会話をだらだらと、俺たちはその歩みを止めまでゆっくりと話を続ける。
そんな俺たちの夜は、あと少しだけ続いていくようである。
――俺と氷室先輩の関係は、こうして今日も変わることはなかった。
《了》




