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11問目:勝利 / 敗北 Ⅲ ①

「御新規二名様ご来店です」

「いらっしゃいませ。こちらお席へご案内いたします」


 まだ日は高く、会社務めのサラリーマンがせっせと仕事に励んでいるような時間でさえ、好き好んで酒を飲みに来る客はいるという事実を、俺はつい最近知ることとなった。

 まぁ考えてみればそうなのだろう。

 社会人だって休暇を取るし、定年を過ぎた爺さんたちが連れ添って飲み歩くような姿を目撃したこともある。

 意識せず、認識していなかった。

 ただそれだけのことである。


「あのお二方は良く来客される常連だ。初めの注文を受ける際に今日のおすすめを聞かれるから答えられるようにしておけ」


 来客に際しておしぼりを運ぼうと準備していた俺の耳に先輩からの助言が届く。

 振り向けば、黒縁眼鏡がトレードマーク、黒いエプロン姿の男性が壁に掛けられたホワイトボードを眺めていた。

 ふと席に着いた客を見てみれば、高齢の夫婦が慣れた様子でメニュー表を開きながら談笑していた。

 なるほど、常連ね。


「『刺身盛り合わせ 七種盛』だそうだ。そういえばマサさんが今朝市場で良い魚が手に入ったと話してたな」

「了解っす。せんぱ……じゃなくて黒崎(くろさき)さん」


 エプロンのポケットからメモ帳を取り出し、聞いた話を書き記しておく。

 人気のある料理の特徴や、カクテルやサワーなどの酒の作り方みたいに何度も見返すような内容ではないが、まだ働き始めの身としては覚えることが些か多いため、メモだけでも取っておかないと必要な時に思い返せないこともある。

 学生の勉強とは少し勝手の違う感覚に、俺は少しでも早く馴染もうと努力を惜しむつもりはない。


「ちょうどお通しの用意も出来ている。運びついでにそのまま注文を取ってこれるか」

「大丈夫です。こいつもようやく慣れてきたんで」


 このハンディとかいう注文を取る機械、こういうのが苦手な俺でも分かりやすくて助かるぜ。

 幸か不幸か最近になって電子機器を扱う機会が増えてきたせいか、少し操作を覚えただけで割と抵抗感がなく扱うことが出来ていた。

 まさかあいつに感謝する日がこようとは夢にも思わなかったな。


「よし。では頼むぞ宮原(みやはら)

「了解。行ってきます」


 お盆におしぼりとお通しを用意し、客の待つ席へと足を運ぶ。

 俺――宮原(みやはら)光輝(こうき)は、こうして勤務五日目の接客を開始することとなった。





「居酒屋で、バイトっすか」

『そうだ。興味あるかと思ってな』


 ソファに座りながらバイトの情報誌を読みふけっていた頃、俺のスマホに一件の連絡が届いた。

 画面を確認してみれば、つい先日交換したばかりの電話番号からの着信。

 要件が分からず、思わず首を傾げる俺だったが、特に無視する理由もなくその声を聴くことにする。

 そしてその第一声こそが、「居酒屋で働いてみないか」などという想像もしていなかった誘いの一言であったというわけである。


『実は俺の知り合いが経営している店なんだが人手が足りないようでな。その相談を受けたときにお前のことを思い出したのだ』

「俺っすか?」

『先日仕事を探しているような話をしていただろう。それを思い出したのだ』


 そういえば、つい先日黒崎先輩と遊びに出かけた際にそんな話をしたような気がする。

 目の前のテーブルに置かれた求人誌に目を配り、話を続けるために口を開く。


「ありがたい話ではあるんですど、俺で大丈夫ですか」

『問題ない。まず未成年でも働ける店だ。実際俺も勤務している職場だからな』

「え、黒崎先輩が居酒屋っすか」


 似合うような、似合わないような……ってかそもそもアルバイトなんてしてたのか。


『意外か?』

「なんていうか、アルバイトをしているような印象がないんで」

『ふむ。まぁよく言われるがそんなことはないぞ。学業に支障が出ない程度ではあるが自分の金くらい自分で稼ぐさ』


 言われてみればそれほどおかしな話ではない。

 高校生でアルバイト経験者は珍しくなく、ましてや黒崎先輩のようにやや大人びた人格は俺の知らない社会で培われてきたものであると言われても、全くもって驚くところはない。

 ただしそれでいて成績が非常に優秀というのは、些か出来過ぎではないかと思うのだが。


『話を戻すが宮原。お前さえよければ明日にでも店に顔を出してほしい。十四時から二十二時までの労働で賄いつき。悪い話ではないと思うのだが』


 その他、簡単にではあるものの仕事について教えてもらった。

 給料が割の良い仕事であること。

 初めの頃は先輩が教育係として補佐についてくれること。

 二十二時まで営業している居酒屋で、営業開始から終わりまでホールを担当して欲しいとのこと。

 事前に俺の写真を見せたところ外見に問題はないと回答を貰っていること。


『あとは店主から話を聞いてもらえばいいのだが。どうだ宮原。働いてはもらえないだろうか』


 電話越しに聞こえる黒崎先輩からの声に、俺は脳内で考えを巡らせる。

 条件は――悪くない。

 給料もそうだが、何よりも外見を気にしなくても良いって部分がでかい。

 接客ってのが気になるが、将来に向けて経験しとくに越したことはない。


「分かりました。その話ありがたく受けさせてもらいます」

『そうか。助かる。店主には俺から連絡を入れておこう。それで時間だが――』


 手元の求人誌の余白に時間や場所、持ち物を記入し、そのまま黒崎先輩との通話を切る。

 学業もある程度軌道に乗り始めてきたこともあり、仕事を探し始めていた時期にいい話を貰ったものだ。

 それにあの黒崎先輩の紹介だ。決して悪い仕事なわけがない。

 多少能力を求められるかもしれないが、あの先輩が無理だと思ったことを他人に押し付けるとも思えない。

 

「なんだよ、幸先良いじゃねぇか」


 バイト探しという目先の問題が解決したことに心から安堵した俺は、腕を伸ばしたまま全身をリラックスさせソファの背もたれに身を預ける。


「電話、終わったの?」


 声のする方を振り向き、全く表情の読めない家主が何か本を読んでいる姿を目に映す。


「あぁ、黒崎先輩からの電話だ。無事仕事が決まりそうだぜ」

「そう、良かったね」


 興味があるのかないのか、覇気を感じない声色で彼女――氷室(ひむろ)(さくら)は返事を返す。

 

「仕事、何をするの?」

「居酒屋だってよ。内容はよく分からねぇが明日説明を聞きに行ってくる」

「そう」


 何に納得をしたのか小さく頷き、先輩は再び手元の本を読み始める。

 そういえば最近このちっこい先輩はこうして本を読む機会が増えたような気がする。


「先輩、それ何の本だよ」


 なんとなく声を掛けてみた後で、もしかしたら読書の邪魔をしてしまったのではないかと気が付いた。

 今更その程度で気に掛ける関係性ではないが、人の楽しみを意図して邪魔するような意地の悪い性格ではないという自負はある。


「これ、小説。四条さんが、おすすめしてくれた。結構、面白いよ」

「小説か、あんまり読んだことねぇな」

「宮原くん、文芸部?」

「……ん? あぁ、そういえばそうだな」


 そういえば、俺は今の今まで自分が文芸部なんて部活に所属していたことをすっかり忘れていた。

 そんなことになった原因である悪友――(ひいらぎ)詩乃(しの)に連れられて時折部室に顔を出すことはあるが、そこで望んで本を手に取ることはない。


「……というか、あの部屋で部活動をしているところなんて見たことねぇんだが」

「そう、なの?」

「あぁ。しっかし、本当なんなんだあの文芸部ってのは」


 たまに白柳(しろやなぎ)先輩がパソコンを開いて何か作業をしてるみたいだが、それも関係あるのかはよく分からない。

 ただまぁ、俺が部室に通ってる日の方が少ないくらいだ。

 いつもは活動しているってこともあるのかもしれない。


「せっかくだし、宮原くんも、読んでみる?」


 そう言いながら指差す先輩の視線を目で追いかけ、小さな本棚に並べられた小説が視界に映る。


「読んでみた中で、面白かった本を、買ってみたの」

「買ってみたって、先輩同じ本を読み返すのか?」

「……もしかしたら、読みたくなるかも、しれないでしょ」


 手に持っていた本をテーブルに置き、本棚まで足を運んだ先輩はじっと何かを探すように目を配る。

 少しの後、小さく頷きながらお目当ての小説に手を伸ばす。


「宮原くんには、これがおすすめ」


 まだ読むなんて返事もしてない俺の目の前に、何故か唐突に置かれる本が一冊。

 元々がこちらの都合などお構いなしの性格だったため、今更気にも留めないが――なんというか相変わらずな先輩だ。

 耳に届かない程度に小さくため息を吐きつつ先輩の話に付き合ってやろうと差し出された本に手を伸ばそうと――。


「……先輩。これは何の小説だ」

「え、恋愛小説。宮原くんにおすすめ」


 なんというか、目の前の本から妙なオーラを感じる。

 形容しがたい感覚ではあるものの、いやなんと言えばいいのだろうか。

 

「先輩。これは本当に俺が読んでも面白ぇのか」

「ぜひ、宮原くんに、読んで欲しい。そして、感想を、聞きたい」

「俺は今面白ぇのかって聞いたんだけどな!?」


 いらないことを口走った五分前の自分を殴ってやりたかった。

 ともあれ、いつもより嬉しそうな先輩を前にして、このまま何もしないで済ませようとするほど空気の読めない男ではないつもりだ。

 時間が時間だけに少し読むくらい付き合ってやることとする。

 

「……全部読めなくても文句言うなよな」

「分かった。楽しみ」


 返事に満足したのか元の位置まで戻り、しかし手元の本には手を伸ばさずにじっとこちらを見つめてくる。

 

「別に監視しなくても読むって」

「分かってる。お気になさらず」


 そう言いつつ姿勢を変えることのない先輩に苦笑いしつつ、観念しながら小説を手に取り――そのまま話を読み始める。

 こちらを見続けていた先輩も、やがては自分の本を手に取り読書を再開した様子。

 

「まぁせっかくの機会だ。こういうのも経験だな」


 小さく呟き、俺はそのまま読書を進める。

 慣れない文字の世界に目を通しながら想像力を働かせて物語の脳内に描き出す。

 現国の授業とは異なり、長い物語を読み進めることとなるこの小説という舞台に、俺は少しずつのめり込み始め――。

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