10問目:友情 / 恋愛 Ⅱ ③
「こんばんは。少しよろしいでしょうか」
聞き覚えのない声が耳に届く。
昔のことをぼーっと思い返していたわたしは、ふと右手を空にまっすぐ伸ばし続けていたことに気が付く。
あまり人に見せられぬような格好に顔が赤くなるのを自覚しながら、予期せぬ来訪者を前に慌てつつも居住まいを正すことにする。
「こ、こほん。お見苦しい姿を見せてしまい申し訳ありません」
小綺麗な身なりをした初老の男性でした。
グレーのコートに身を包み杖を突き立つその姿は、一見すればどこにでもいるご老体にも見受けられました。
整えられた白いお髭がなんだか可愛らしい、人の好さそうなお爺ちゃん。
それがわたしが目の前の人物に抱いた第一印象でした。
「あぁ、そのままで構いません。少し気になったもので、ついお声を掛けてしまいました」
高さを合わせようかと悩んだのは一瞬のこと。
ご老体からの言葉をそのままにベンチから腰を上げることなく、しかし姿勢をきちんと正しながら返事を返します。
顔を見て、次いで眼を合わせながら話を進めることとし、わたしは気になっていることを彼に問い掛ける。
「――失礼ですがわたしと面識がおありでしょうか」
出会って数分も立たない時間の中で記憶を掘り起こしてみるも、彼の姿を思い出すことは出来なかった。
これでもわたしは記憶力には自信がある。
特に目の前のご老体のようにどこか気品の漂う雰囲気を纏う人物であれば、パーティ会場で一目見ただけだとしても決して忘れることのないでしょう。
「いえ、私はあなたとお会いしたことはありません。それにきっと道端ですれ違ったことなどもないでしょう」
「あら、どうしてそう言い切れるのですか」
「ほっほっほ。これでも記憶力には自信がありましてな。それにこんな綺麗なお嬢さんを見かけたら忘れることなんて出来ないでしょうに」
見た目通りに好々爺のようです。
柔和な笑みを浮かべるご老体の姿に、つい僅かに抱いていた警戒心を解いてしまいます。
おそらくは、そういったことに長けた方なのでしょう。
「こちらこそ、素敵なおじさまにお褒め頂き光栄です」
ですが、彼の雰囲気やペースに乗せられていることについては決して悪い気などしませんでした。
相手を騙すような意地の悪い感じではなく、相緊張をほぐしながら自然体のままに話を進めさせるような思いやりの心を感じさせる話し方。
彼という人物の一端が垣間見える気遣いの話術。あるいは善意。
「それで、おじさまはわたしに何か御用だったのでしょうか」
自然な笑みを浮かべるわたしに、ご老体は何か得心した様子で小さくうなずき、杖を持たない左手で白髭を触りながらほっほっほと声に出して笑う。
「そうですな。実はさきほどまであそこにいたのですが、寒空に一人腰掛ける女性を見かけたものですから」
「あそこと申しますと、駅でしょうか」
ご老体の示す先は駅の入り口でした。
距離にしておよそ五十メートル程度でしょうか。
確かに目が届かない距離というわけではなく、さらには暗い夜空の中で街灯に照らされた公園のベンチは嫌でも目立つというものです。
注意深く観察しようとせずとも、自然と視界に入ってしまうのは致し方ないことでしょう。
「――少し不用心でしたでしょうか」
「かもしれませんな。貴女のように可愛らしいお嬢さんであればなおのこと身の安全に気を付けた方がよろしいでしょう」
変わらずの笑みを浮かべながら、ご老体はわたしの身を案じてくれます。
怒るでもなく諭すように慣れたような話し方で、しかししっかりと相手の心に落とし込むように。
「そうですね。おじさまの仰る通りです」
ベンチから腰を上げ、感謝を伝えるべく頭を下げる。
また一つ学びを得ることが出来たのだ。
しっかりと感謝の気持ちを伝えなければ失礼に当たるというものでしょう。
「ほっほっほ。そんなかしこまらなくて構いませんよ。ただの爺のおせっかいと受け取ってもらえればよろしいかと」
「いえ、それでもわたしにとっては貴重なお話でした。誰かに自分の知らない気付き与えて頂けるのはとてもありがたいことだと、わたしはそう考えております」
「そうですか。――それではそのお気持ちを頂くこととしましょう」
優しい声色のご老体は、少ししてから身体を得息の方へと向ける。
「実は電車が遅れているようでしてな。それを貴女にお伝えしようと思ったのです」
「それは、ありがとうございます」
電車の遅延情報など知らなかった。
そもそもあまり乗車する機会もないものだから、時間通りに到着しないという考え自体が頭からすっぽりと抜けていた。
そういう世間からずれている部分が未だ数知れずあるのだろうとわたしはなんだか恥ずかしくなってしまった。
「それで、どれくらい遅れが出ているのでしょうか」
「駅員さんの話では二十分ほどの遅延だと」
ありがとうございますと感謝の言葉を伝え、わたしは鞄からスマートフォンを取り出す。
時刻を確認し、あと十分ほどで到着するのだと分かった途端に、今度は身体が熱くなってくるのを感じる。
いよいよ。
いよいよだ。
ついにわたしは「彼」と再会することが出来るのだ。
「それではお嬢さん。わたしはこれで――」
話は終えたとばかりに、ご老体から一言の挨拶を頂く。
「あら、おじさまは電車を待たれていたのではないのですか」
「ええ。その予定ではありましたが、少し事情が変わりましてな。電車を待たずして帰ろうとしていたところだったのですよ」
ほっほっほと、ご老体は笑いながらわたしの方に身体を向ける。
「今日はよく冷えます。お風邪を召されないようお互いに気を付けましょう」
「はい。おじさま、親切にお話頂きありがとうございました」
改めて頭をさげるわたしに、ご老体は「それでは」と言葉を残し帰路へと着く。
老いを感じさせないほどに足取りは軽く、その一歩一歩が彼の人生を表しているかのように見える気がする。
振り替えることなく進む彼の背中に、私はもう一度頭を下げる。
彼の意図を組み、そのうえでお礼をしっかりと伝えたくて、届くことない声でわたしは感謝の気持ちを伝える。
「ありがとうございました、おじさま。またお会いいたしましょう」
私はこれから、一つの答えを求めます。
ずっと気になっていた考えを。気持ちを。そして心を。
それはすぐには分からないかもしれません。
時間をかけて考え続けて。
納得できるまで迷い続けて。
答えが出るまで自問自答を繰り返す。
そんな日々が始まろうとしているのかもしれません。
でもそれは、わたしたちが望んだ道のりで、スタート地点でもあります。
彼と彼女とわたしが望んだ未来への足掛かり。
出会ってしまえば、後には引き返すことは出来ません。
それは決め事であり、大切な約束でもある故に。
ふと耳をすませば電車が近づく音がします。
ガタンゴトンと、確かに耳に届く彼の足跡に、わたしは歩み始めるための気持ちを作り始めます。
ついに訪れる時を前にして、震え始める手を空へと伸ばす。
星々が明るく照らす夜空に届かぬことを知りながら、それでも大きく手を伸ばし言葉を届ける。
それは最初に伝えたい一言で、決して忘れることなど出来はしない魔法の言葉。
その始まりの一言を、わたしは最初に彼に送ろうと決めていた。
その言葉を以ってして、わたしは一歩を踏み出すのです――。
「あなたは、冬が好きですか?」
《了》