9問目:勝利 / 敗北 Ⅱ ①
「……くそっ、こりゃダメだな」
「私の、勝ち。ありがとう、ございました」
結果の決まった勝負に「もしも」なんてのは持ち出さねぇのがマナーってやつだが、この先輩との一局はどうしても考えちまう。
あの手を差したらどう動いてたのか、あの局面はこうすべきだったんじゃねぇか。
別に分析するなんて高尚な考えなんてのはなく、ただ次は勝ちてぇと、同じやり方じゃ負けたくねぇとそんな負けず嫌いな感情が自然と俺を突き動かすわけで。
「強く、なった。宮原くん」
「……ちっ、んなこと言ったって先輩の方がまだ強いじゃねぇか」
「うん、そう、かも。でも、たまに、負ける時も、あるよ」
この図書室で初めて出会ってから、一体何度この先輩とチェスの対局を繰り返してきたのだろうか。
最初は一度勝てれば満足だと勝負を挑み、負けが重なれば今度は勝ち越してやろうと今に至る。
俺も暇ってわけじゃねぇがどうにも気になるというか、理由はよく分からねぇがムキになっちまうんだよな。
「次は、どうする? まだ、出来る?」
あまり感情を覗かせない顔で首をかしげながら質問をぶつけてくる先輩――氷室桜先輩は、しかし問いの内容とは異なり既に盤に駒を並べ始めている。
まぁ想像通り俺も特に用事はねぇし全然構わねぇわけだが。
「……って、先輩。また間違えてるじゃねぇか。ほらナイトとルーク」
「……間違え、た。ありがと、宮原くん」
そんな先輩だが、三回に一回くらいの割合で駒の並びを間違える悪癖みてぇのがたまに見られる。
普通はないと思うが、どうにもナイトとルークの配置を忘れる……のか? よく分からねぇがそんなミスを対局前に確認するのが俺の仕事ってな感じになってる――のだが、普通そんなことあんのか?
「うん、出来た、よ」
だがまぁ、そんなことはどうだっていい。
重要なのはこの先輩が俺よりも強いってことで、何としても勝ちてぇってだけの話だ。
だからこそ、俺は今ここにいる。
「……それじゃあ、よろしく、お願いします」
「あぁ、よろしくお願いします」
コト、コトっと駒を動かす音が静かに聞こえる。
場所が場所だけに音楽なんて流れるわけもねぇが、「無音」というのもまた心地いい。
「……………………」
「……………………」
こうしてチェス盤を覗き込む時間は、どうしたって昔を思い出す。
まだ小さい俺が、今の何十倍もチェス盤の大局を見据えることの出来ていた頃。
まだ小さい俺が、今の何十倍も世界の広さを知らなかった頃。
ただの大人ぶっただけのクソガキが、世界で自分が最強なのだと他者を見下していた頃。
そんなくだらねぇ時代を脳裏を駆け巡り、いつものように俺を苛立たせ始める。
「……………………」
「…………………ちっ」
音も匂いも味も、盤面を動かすため以外の感覚なんざ一つもいらねぇ。
必要最低限の五感を感じるようなら、それは集中力が足りねぇ証拠だ。
深く、深く、深く、潜る。息を忘れるくらいでちょどいい。
俺はあの頃、そうやって世界を駆けあがっていたのだから。
☆☆☆☆☆☆☆☆
「あ? もうこんな時間かよ」
図書室の壁掛け時計に目を向けた俺は、考えていた以上に時間が経過していたという事実に驚いた。
外を見ればまだそれほど暗くもなっていないのだが、気が付けば下校時間をとうに過ぎており、さらには周囲に人の気配がないことに気が付く。
「夏は暗くなるのが遅いからねー。ちゃんと時間を気にしないと駄目だよー」
やぁ、と肩を叩かれふと振り向けばいつもの見知った顔が見えた。
明石友奈、毎度のことながら図書委員を務める賑やかな先輩だ。
「一応気にしちゃいたんだが、最後の一局が思いのほか長引いたんじゃないっすかね」
「うん、最後の一局、危なかった」
いつの間にやら片付けを終えていた氷室先輩がいつものように気配もなく背後に立っていた。
慣れたっちゃ慣れたが、しっかしこの人恐ろしいまでに存在感がねぇな。
「よし、じゃあ今日も帰ろうか! 宮原くん、桜ちゃんことよろしくねー」
「はいはい、分かってますよ」
毎週決まった曜日に決まって日時で俺たちはチェスを指す。
特に用事がなければだいたいは下校時間まで対局し、終わったら明石先輩と三人で帰宅する。
そこまでが一セットみたいになっているわけだが、実は俺と氷室先輩の帰り道は同じ道のりである時間が存外長いことが分かっている。
家が近いってわけじゃあなさそうだが方向がだいたい同じらしい。
だからこその明石先輩からの「よろしく」だ。
別に家まで送り届けるってわけじゃねぇ。いわく途中まで送ってあげてねって意味らしい。
「桜ちゃんも、ぼーっとしちゃあ駄目だぞ」
「うん、分かってる」
相も変わらず何を考えてるんだか分からない表情で氷室先輩はこくりと頷く。
「それじゃあ、帰ろう。今日も、楽しかった」
「そっかー。良かったねー」
そんな二人を見て、なんだか姉妹みてぇだなと思った。
妹を気に掛ける姉と落ち着き過ぎている妹。水戸なんかが好きそうな関係だな。
――仲の良い姉妹……か。
「ん? どしたの、宮原くん? なんか難しい顔してるねー」
「ん、いやなんでもねぇっすよ。先輩らが仲良さそうだなって見てただけっす」
「えへへ、そうでしょー。ねぇ? 桜ちゃん」
「……そうでしょー」
満面の笑みを浮かべる明石先輩と無表情極まってる氷室先輩の対照的な雰囲気かつ同ポーズ。
両頬に人差し指を当てて首をかしげる姿は可愛い……のか、よく分かんねぇ。
ただ一つ言えるのは――。
「先輩……なんかそれ古くないっすか」
「え”?」
☆☆☆☆☆☆☆☆
「んじゃあねー。また明日ー」
手を振り交差点を左に曲がる明石先輩と別れ、俺と氷室先輩は再び帰路を進む。
特に会話があるわけもなくただただ歩くこの関係性を、俺は不思議と悪くは思っていなかった。
ふと隣を見れば小柄な先輩がとことこと歩いている。
まだ空が明るく、その表情はよく見える。一年生の間でもその名前が挙がるくらいには人気の女子生徒で、間違いなくその中には好意を抱く声も聞こている。
どこか猫を思わせる雰囲気も男子受けがいいのだろう。なんなら今この状況を羨む男子どもがいるのかもしれない。
「……? どうしたの? 私の顔、じっと、見てる」
「……いや、なんでもねぇよ」
なんか柄にもなく変なことを考えちまった。
らしくねぇな、本当に最近の俺はよ。
「…………………ん?」
思い耽っていたその時、ポケットに入れていたスマホが震えていることに気が付いた。
「わりぃ先輩。電話だ」
こくりと頷く先輩に軽く頭を下げつつ、俺は電話に出る。
「あぁ、もしもし。なんか用事か? ……あぁ、分かった。いや気にしないでくれ。大丈夫だ。……あぁ、分かってるよ。本当に大丈夫だから」
時間にして一分にも満たないやり取り。
ただ事務的なやり取りを終えた俺は、不思議そうに見つめる先輩と目を合わせる。
「おふくろだ。今日は家に帰らないから好きに食って来いってさ」
「おふくろ……お母さん?」
「あぁ、そうだな」
お母さん、か。そんな風に最後に呼んだのはいつの話だろうか。
気が付けば「おふくろ」と呼んでいる自分がいて、きっかけなんて覚えちゃいねぇ。
「好きに、食べてって、どうするの?」
「さぁな、まだ決めてねぇ。なんか買って帰っても良いし、食ってくのも悪くねぇ。ま、歩きながら考えるさ」
出費は出来るだけ抑えてぇんだが、家に何があったのかは把握はしてねぇんだよな。
一応自炊も出来るが今日のために材料を買って帰るのはかえってコスパが悪かったりする。
ならあまりものをと家に帰った時、もし食材がなかったらそれはそれでショックな出来事だ。
「……さて、どうしたもんか」
地味ながら重要な問題に頭を悩ませる俺は、その実はたから見れば実に格好悪い男に見えるかもしれねぇ。
だが、こうした小さな積み立てが独り立ちにいち早く近づけさせることを俺は知っている。
小さな贅沢はせず、出来るだけ簡素に。その分金銭を気にしないところで楽しめばいいってのが俺のモットーだ。
っと、そんな考えを脳裏に浮かべていた俺は、ふと先輩が足を止めていることに気が付いた。
少し後ろに立っている彼女に声をかけようと振り返り、そして――。
「あのね、私の家で、ご飯、食べない?」
「…………………あ?」
それ以上の言葉を発することが出来なかった。