ざまぁに対する納得
久しぶりに筆を取りました。
先日、ネットで気になる記事を発見した。
別件を調べている最中にたまたま見つけたのだが、簡単に言えば「怒り」に関する心理学のコラムのようだった。
なんとなしに読んでいたのだが、そこで一番印象に残った文章がある。それは以下のようなものだ。
『自分を傷つけた相手が、自らの行為を間違いだったと気付くか、罰を受けるか、あるいは悔い改めていると知ったとき、人は強い満足感を得られる。こうした条件が揃うと自業自得、因果応報だと思って復讐が愉快に感じる』
私がこれを読んで最初に思い付いたのは、「小説家になろうにおける『ざまぁ』」だ。
ざまぁとは正式なジャンルではないが、一種の流行のようなものだ。まず最初に主人公が今いる立場から追放されてしまう、理不尽な扱いを受ける、などのいわゆるひどい目に遭う。その後、主人公をひどい目に遭わせた加害者、見て見ぬ振りをした傍観者などが、主人公を粗末に扱ったことにより自分達もろくな目に遭わなくなってしまうというものだ。それを見て『ざまぁ』見ろ、となる訳だ。
前述の心理学の記事はまさしくこれに該当するのではなかろうか。
読者は小説の主人公に多かれ少なかれ感情移入する。全く共感できないのであれば、物語の主人公としては少々不適格と言えるだろう。故に読んでる間は、主人公は自身の分身になっているとも言える。
つまり、ざまぁとは『主人公』=『自分』を傷つけた相手が罰を受ける様を表現したもの、だから読む側は満足感を得られるのだと考えられる。ランキングにも追放ざまぁが根強く残っているのは、この点が魅力的だからだと感じた。
念のために言っておくと、このエッセイはランキングに対する評価や批判ではない。私も『追放』や『もう遅い』を読むし、面白さやスカッとした爽快感を感じることもある。
今回筆を取ったのは、なぜ『ざまぁ』を面白いと思うのか、自覚していなかった点が明らかになった気がして、それを整理しておくためというのが理由だ。
私は理系に属する人間であり、論理的、理知的な物に惹かれる傾向があると自己分析している。私自身が論理的かという点には全く断言できないが。
意図せずして論理的な納得を得られたので、ここに記させてもらった。
まぁ、少しだけランキングについて言及すると、追放ものが多くあるからといってそんなに心配しなくてもいいと思う。
タピオカが人気の時に皆が流行に乗ってタピオカの店を出したとしても、結局良い店だけが数年または数十年と残るようなものだ。