壱章 四
白兎神の土地から少し北東に離れた、水の多い地に私達は足を下ろす。海、というわけでもないが湖でもない。湿地帯と云うのが正しいのだろうか。全体神亀は何を好んでこんな所に居るのか、私には些か理解し難いが。彼は好きなのだろう。屹度そういうことだ。
「おぉい、神亀やァい」
足をつくなり八咫烏は声を上げる。まるでその名を知っていたかのように。
「さっきまで名前も忘れていたじゃないか。それに君、彼と話したことなんてないだろう。何をそんなに」
「いいだろう? 思い出せれば何も問題なんてないのさ」
私の言葉を最後までは聞かずに続ける。本当に、彼は、こういう事に関してだけはせっかちなのだ。
「なんだ、なんだ。誰かね。儂の名を騒々しく呼ぶものは。落ち着いて眠れやしない」
「わァ、いかにもなのが出てきたじゃあないか。ねぇ、おいぬさん」
小さな池のような水辺から顔を覗かせたのは、苔のような色をした髪を短く切り、前髪は横一文字に揃えられた──子供、と言うとそう見えるかもしれない。しかしその見た目から発せられた声は低く皺枯ていて。目付きだって子供のそれではない。
「君、仮にも話を聞きに行くものなのだからもう少し礼儀を善くしたらどうだい」
「否。いゝ、いゝ。お前らのことはウサ坊から偶に聞いていた。畏まるな」
「はぁ」
想像よりは物腰柔らかなようで、私達の訪れを特に咎めはしなかった。むしろ機嫌が善いような気もするが、おそらくは気の所為なのだろう。
「なら遠慮なく聞かせてもらおうじゃないか。ね? 話は外でもない。君の云う、えー、ウサ坊──白兎神のことなのだけれどね」
彼のことだと分かるなり神亀は、ほう。と言葉を零して水辺から上がり近くの岩場へ腰掛けた。ふむ、成程。髪の色と同じように苔色をした着物、おそらく上布だろう。寒くないのだろうか。腰には山吹色の帯、着物の裾からは何か尾のような長い毛が束になって地に伸びてあった。
「彼がね、数年前までは見かけていたのだけれど。突然居なくなってしまったのさ。丁度蜃気楼のように。君、何か知ってるんじゃないかと思って」
「成程。……お前、儂の所に来れば何かしら得られるだろう、と思って来たのか。ならその期待には、とても応えられそうもない。何せ何も知らないのだから」
残念だと思っているのだろう、神亀は焦茶色の目を伏せて首を振る。彼も知らないのならば打つ手がないと私と八咫烏は顔を合わせて溜息をつく。しかし、仕方ない、と私が言うより先に神亀が口を開き
「たゞ」
と。
「何、何かあるのかい」
「いやなに、実はだね、少し前にウサ坊は妙なことを云っていたのさ。『素敵な方を見つけた』とね」
神亀の言葉を聞くなり、八咫烏は嬉々とした表情で身を乗り出した。
「何だって、それが誰か判らないのかい」
「それは──」
そこまでを口にすると神亀は口を閉じて考え込む。何か思い出そうとしているのか、その逆か──そうして考えた後にまた彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ほれ、そちらの、黒い君なら知っているだろう。ここ数十年、北のもの達がこの場所に来ていること。それらが干渉してるのではと考えている」
「──何だってそれ、最初に教えてくれなかったんだい」
情報を聞くなり、八咫烏は少し間を空けて口を挟む。彼は何でも聴きたがるのだ、出会った頃は私の住所やら何やら、色々と聞き出されていた。結局、彼は一度も自分から家には来なかったが。
「憶測でしかないのさ、当たり前だろう」
北のもの、と云うと北欧の柱達だろうか。しかし北欧であってもこちらとは同工異曲だろう。何をまた敬うようなそれがあるのか。
私が首を捻っていると、八咫烏は振り返り声を掛ける。
「北かァ……成程。じゃあ早速向かってみようじゃないか。ねぇ?」
「向かうって、どこにだい」
「そりゃ白兎神が行ってた『教会』とやらにだよ。なんだい、君、聞いてなかったの」
考えているうちに彼は何かを話していたようで、私はその言葉を逃してしまった。
「もう一度、教えてはくれまいか」
「何。ここから北に向かって海に出る。更に進めば小さな島がある、そこだよ」
「わざ/\ありがとうねぇ。──あと」
じ、と興味深そうに八咫烏は神亀を見つめる。はて何かあっただろうかと神亀が自身の格好を確認していると、彼は尋ねる。
「その服、寒くないのかい」
「──着てみるかね?」
「……はゝゝ。遠慮しておこう」