壱章 三
稲刈りを終えて土色の広がる田地の道路へと降り立つ。見れば辺りに兎が跳ねていて、じゃれ合ったり雑草を貪り食ったり。成程、確かに変わったようなところは無いみたいだ。彼の姿が見えないことを除いては。
「本当に何も変わってないじゃあないか。全体どうして彼が居なくなったんだい」
「それを今から調べるんだろう?」
移動中に着替えたのであろう、裾が長くその先が羽のように分かれた真っ黒な袴を風に靡かせながら八咫烏はさっさと足を進めて行く。なぜ彼はこういう事に関してだけは行動が早いのか。単に好奇心旺盛なだけなのか、それとも──
「さァ、まずは祠に行こう。場所は判るかい? 僕が案内してあげよう」
自分の知識を見せたいだけなのか。
どちらにせよ、構わない。それで困ったことと言えば小さな頃に花瓶を割って叱られたことぐらいだ。もっとも、もう何一〇〇年と前のことだが。そんなことを考えながら私は急く彼の後を追うようにして歩みを進めた。
祠は普段人や動物には見えない。その土地の土地神が赦しを出してのみ、その姿を確認することが出来る。ので、今の私にはそれを視認することが出来ないのだ。
「ここだよ」
林の中に入り少し歩いた処で立ち止まると八咫烏は振り返りそう云って指を指す。見ればその地には木が無く、丸く縁取られたように開けている。それ以外には、特に見当たらない。これを見ると、私は本当に人に堕ちたのだなと常々実感する。
「今回のようなものは特例みたいでね。特別にその土地神以外でも見せることが出来るようになっているんだ。頼んでくれたら、見せないこともないけれど」
片眉を上げ楽しそうに笑っては八咫烏はそう私に声を掛ける。なるほど。
「ひょっとすると、その言葉が聞きたかっただけかい」
「それ以外に何がある?」
まるでそれが当たり前かのように首を傾げて八咫烏は疑問を疑問で投げ返す。彼は、本当に私に嫌がらせをしたいだけなのだろう。思えば花瓶を割った時だって、いつの間にか彼は居なくなっていた。
私はゆっくりと歩を進めて八咫烏の前に出る。そして膝を折り曲げこれまたゆっくりと頭を下げて行く──斜め三十度。私は其の儘地面を力強く蹴り彼の横っ腹へと突っ込んだ。止める間もなく吹き飛んだ八咫烏の身体はその先に現れた手に吸い込まれ私の背後へと降り立つ。
「君、痛いじゃあないか」
「最初に頼んだのはヤタさんの方だろう、早く見せればいいというのに、君。そんなことをするからだ」
「全く、仕方がないねぇ。目を閉じて」
次に足を出したのは八咫烏。私の前へと移動をすれば身長を合わせるように軽く背を曲げ私の眉間へと人差し指を置く。これは何かしらの権利を譲渡したり、複製したりする際にする行為だ。ここで目を閉じる必要は無いが、おそらく雰囲気だろう。
「ほら、もういいよ」
目を開きまず視界に入ったのは、対に置かれた兎の石像。次に目に入ったのは、崩れた瓦。風化して破れた障子。手入れをしていなかったのだろうかそれとも、彼が失踪して時が経っているのか。どちらにせよ、暫くこの祠への訪れが無かったのだろう。
「本当に、変わってないみたいだね」
「だろう? だから奇怪なのだよ」
今にも崩れ去ってしまいそうな建造物の柱を、八咫烏は割れ物を扱うように軽く指で突きながらまた口を開く。
「僕より頭の善い君なら、こういう時何か判るんじゃないかと思ってね」
「揶揄っているのかい」
「まさか」
確かに、私は頭だけは善い方だ。八咫烏も頭こそ善いものの、忘れっぽい。でもわざ/\自虐してまで言うことではないし、その場で考えるだけなら彼と私は同等だろう。それに、そんな彼が私に煮え湯を飲ませたのは、そういうことではないのか。
「──取り敢えず、この祠を中心にして捜索してみよう。少しでも気になれば調べる。いつもと同じだ。やろうか、ヤタさん」
私の言葉を聞くなり八咫烏は振り返り、緩く口角を上げて笑う。
「そう言ってくれると思ったよ」
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「いやァ、面白い程に何も出ないじゃあないか。君、ちゃんと探しているのかい?」
「君の方こそ、何か隠しているんじゃあないのかい」
あれから数時間、私達は祠の周辺を含め、彼の所有する土地を隅々まで探してみた。が、白兎神の痕跡は何も出ない。彼の羽毛は疎か足跡一つも出なかったのである。
「どうしようか」
丈夫そうな木の枝に座った八咫烏の呼び掛けには応えず、私は脳を回す。彼も私の様子を見れば肘をつき考え始めた。
仮に消滅したとしてその土地に遺品やら痕跡やらは残るのだ。本当に彼は単に失踪をしただけなのだろうか。ここまで来ると、もしや、そうかもしれない。
「「土地は要らなかった」」
二人揃えて口を開けば目を丸くして視線を合わせる。当然何かを合わせた訳でも無いそれは、昔からの仲と云わざるを得ないのだろうか。少しすると八咫烏はどこか不服そうに唇を尖らせる。
「なんだい、僕が先に思いついたというのに。取らないでくれるかな」
「判った、判った」
しかし、いやこれが事実だとして。全体何が目的なのだろうか。皆目見当もつかない。どうしたものかと頭を抱えていると、不図脳裏に浮かぶ。昔の記憶だ。
「そうだ、白兎神の知り合いが居ただろう。彼に話を聞こうじゃないか」
「あァ、そういえば。名前は──はて、何だったかな。忘れてしまったよ」
「神亀だよ。君は、昔から思うが本当に忘れやすいね」
「だって君、覚えにくい名前じゃないか。そうだろう? 僕が君と仲良くしたのも、名前が覚えやすかったからだ」
「へえ、なら君は、私の元の名前を言えるのかい」
揶揄うように笑う八咫烏の耳にそう投げかけると、忽ち彼は黙り込む。そうして暫く視線を飛ばすと、彼はまたケタ/\と笑った。