弐章 十二
ちょうど間の悪く入ったのは、矢張り大蛇であった。出た時と同じ様子で、何も持たず入る。成程今は出来上がりを待っていて、私達の様子を見に来たのだなと、そう考えていた。然しそうではないと、私は直ぐに知らされる。開けた扉から、全く同じ見目をした者が、一柱、又た一柱と、何食わぬ顔で食事を運んで来たからだ。私は驚いて
「君、兄弟が居たのか」
と訊ねた。すると
「いいえ? 之は皆、わたくしですよ。ひょっとして言ってなかったかしら」
と返すものだから、之が大蛇の持つ能力だと理解するのに少し時間が掛かってしまった。「何かと便利ですのよ」と云いながら、大蛇は持っていた皿を卓上に置く。
「わぁ、美味しそうだね」
許しが出るのを待っているのか、白兎神はちら/\と大蛇の方を見ている。其れに気付いたのか「どうぞ」と一言告げてくれた。喜んだ様子で真っ先に飛びついたのは無論白兎神。いかにも幸せそうな顔で盛られてあった野菜を齧る。さっきも思ったが、全体あの小さな身体の何処に収められているのだろうか。暫くは、謎になりそうだ。
「おいぬさんも食べなよ、美味しいよ」
いつの間に食べていたのか、八咫烏がそう声を掛けてくれた。しかし、手に持った皿の分を渡す心算は無いらしい。寧ろ運ばれた皿を其の儘持っているのではないか。
「まあ、うん、頂くよ。……大蛇だったか、君は食べないのかい」
「わたくしは、先に頂きましたので。お気になさらず全てお召し上がりくださいね」
「ふーん」
気を遣わずとも構わないというのに。元来神なんてものはぶっ飛んだ者が多いが、何とも彼は其れを感じさせない。不図横の二柱を見れば、各々の好物を我が物顔で食べている。少しは見倣う姿勢を見せてほしいが、之が神なのだ。私は多少諦めつゝ何方も手を付けていない鰤照りを頂いた。
「ふう、おなかいっぱい!」
本当に遠慮なく食べきった。小さな頃、神同士ではケンカが絶えぬと聞いたことがあるが、此処まで共に行動をして漸く実感した。
それから私達は、何から何まで大蛇に案内してもらった。私には広すぎるほどの風呂場から少し多い寝室まで。私は誰と寝ようと構わない心算であったが、八咫烏が別にしようと云うので寝室は分けられた。部屋に入る前四柱で「おやすみ」と声を掛け合った。
私は一人寝室に入れば早速、二柱は優に眠れるであろう寝台へと寝転がった。柔らかい羽毛布団と花の香りがふわりと私の身を包む。──
八咫烏は何故今頃、私を探して来たのだろう。一切の力を消された私には、何も出来ぬ。否、出来てはならぬというのに。死んでも尚、私を苦しめるというか。私はそんな自責の念に駆られながらも久々に動いた反動か直ぐに眠くなり、考えるのは又た明日にしようと、瞼を下ろした。──
「うわあああああ!!」
邸に響き渡る悲鳴。この声は、白兎神か。冗談には聞こえない叫びに私は目を覚まし、寝床から飛び起きた。すぐさま扉を開ければ、右の向こうから大蛇がぱた/\と走って来た。
「何だか大きな声が聞こえましたけれど」
「気の所為ではないな」
あちらから何も知らずに走ってきたとすると、あの声は、逆の方からしたようだ。ひょっとすると、知らぬ振りをしていたかもしれないが、其れは又た後にすればいゝと、左へ足を向けた。真っ直ぐ走って、突き当たりを右へ。その内側の壁に白兎神は居た。
「君、大丈夫か!」
私の声に気付いた彼は腰を抜かした様子で視線のみを向けた。顔すらも動かせぬ理由が、そこにはあった。首許に突き付けられた剣が、銀色に光る。その持ち主を、私は切っ先から辿った。白い手袋に、黒の燕尾服が開いた窓から吹き込む風に揺れる。嫌と言うほどに凛とした立ち姿であった。
「貴様、何を」
そこまで私が言ったところで、奴が此方を向く。……言葉を失った。暗闇に溶け込む前下がりの髪に、覗く真紅の瞳。私は、否、此処に居る誰もが、奴を知っている。
「……八咫烏」
何をしているのかと一歩踏み出す。と、素早く剣を納めれば其の儘窓から飛び去ってしまい、聞くことも叶わなかった。後に残ったのは、呆然と立ち尽くす私達と、それを照らす月明かりだけだった。