弐章 十
「貴様、云わせておけば」
彼の言動に、決して、腹を立てた訳ではないが。とにかく一発殴ってやりたいと思い、そんなことを言いながら席を立つ私を見て察した八咫烏は合わせて立ち上がる。加勢の為でなく宥める為に。
「まァ、ほら、そんなに怒らなくても善いじゃない」
「私は怒ってない。君だって少なからず苛立ってるんじゃないのか?」
「殴るのは効率が悪いと言っているんだ。それに君は、そんなに愚かじゃないだろう」
「……」
彼の言葉にはっとして思い返せば、慥かにそうだ。加えて此処は彼等の領地である。
土地神とは、土地を失くせば直ちに神としての力が消滅する。其の根源は土地に有り、大きさは広さに比例する。つまり「土地さえ有れば」幾らでも力を保有する事が可能になるのだ。私達が白兎神の調査をした際不思議に思ったのも、そのためだった。
現在、奴等がどれだけの領地を我が物としているか把握出来ない以上、無闇に手出しをすると返って消されてしまう可能性が有る。あまりに人として永かったもので、つい失念していた。そう、つい。忘れていたのだ。
私は一度深呼吸をすると、一瞬向かいの猫神に睨みを利かせて再び席へと着いた。
「そうカッカするなよ。あんまり怒ってちゃ長生きできないぞ?」
又た手を出しそうになったことは、言わないでおこう。全体誰の所為だと思っているのかとも、この際は。屹度見通されていたのだろう、「怖いねぇ」と猫神は小さく呟いた。
「けゝゝ……もう夜も遅い。どうするかなんかは明日話そうじゃにゃーか。ほれ、腹も減ったろ?飯でも食おう」
「え、ご飯?やったぁ! 何があるの? 野菜なんかあったら嬉しいんだけど」
「君、散々菓子を食ってたじゃないか」
「お菓子とご飯は別腹って知らないの?」
食べ物の種類によって胃の場所が変わってたまるかと思いつゝ壁掛け時計へと目をやる。それほど時間が経っていたのかと。──
「猫神とやら」
「何だい?」
「未だ人定に入ったばかりだが」
「飯を食うには丁度善い時間だろ?……嗚呼、何も云わなくていゝ。キミは何をのんびりしてるのかと云いたいんだろ。こんな時だからこそ、落ち着いてやるのが善いのさ」
落ち着くにもほどがあるのではなかろうか。然しこちらの空腹を気遣ってのことか、だとするならば少し有難い。何せ私は八咫烏のおかげで、ろくに食べられてないのだから。
「あら、貴方そんなこと云って、この前買ったゲームで遊びたいだけでしょう?」
「は?」
「……さ、腹一杯食わしてやれよ!」
私が次に一言も挟まないうちに、奴は扉を開けて行ってしまった。次に敷地外で出会った際には、一発御見舞いしてやろう。
「すみませんねぇ、昔はあゝじゃなかったのに」
軽く頬に手をあて溜息をつくと、猫神の出て行った方を向きながら申し訳なさそうに大蛇は云う。すると「気にするな」と八咫烏はけらり笑った。
「別に構わないし、僕はどっちでもいゝからさ。それより、ご飯は?」
夕餉を催促されたことで気を取り直したのか又た柔和な笑みで「こちらへ」と丁寧に扉を開ける。招かれる儘に歩く中、大蛇がそういえばと口を開いた。
「何を食べたい気分ですか? わたくし、こう見えて料理は得意なんですのよ」
其れを聞くや否や白兎神が元気に答える。続いて八咫烏までも己の希望を述べた。
「はい! ボク野菜が善い!」
「野菜を食べるならお肉も食べようよ。僕は唐揚げが欲しいな」
彼等には、遠慮云々よりも警戒心は無いのだろうか。否、私が慎重すぎるのかもしれない。空腹を満たすため、私は自らに言い聞かせた。
「そちらの方は?」
「……まぁ、其れが冷凍でないのなら何でも構わないさ」
念の為、彼等が食べてから手を付けよう。