弐章 八
「本当に、死ぬかと思った」
差し出された水を飢えた獣のように飲み下すと、開口一番に。あれだけ詰めれば喉も渇くだろう。否、彼が自らそうしたわけではないが、先手が何方かは考えなかった。席に座るよう促された私は、椅子の脚が折れないか等と杞憂しながら浅く腰掛ける。「未だ疑ってるのか」と紅茶を出されたが、手を付ける気にはならなかった。
「さて、と」
私と卓を挟んで向かい側。白兎神の隣に深く、然して雑に座り、両の足をみっともなく組んで乗せた彼は早速と話を切り出した。
「オイラ達のこと、未だ何も話してなかったけか。何から聞きたい」
「えゝと……先ずは名前から聞こうか」
思えば私は本当に何一つとして知らなかった。名前すらも。そう思うと、無知の恐ろしさをひし/\と感じる。何でも、頭に入れておくに越したことは無い。知識とは、より良く知ろうとする心である。
首の関節を一度二度と鳴らした眼前の彼は両手の指を組み腹に置く。
「そんじゃら、オイラから言うよ。オイラは猫神。まぁかたっ苦しくしないで、気楽に猫とでも呼んでおくれや」
やけに飄々とした話し方をする。こういう奴ほど引っ掛かる者はない。唯の阿呆か、或いは。何時だって両極端なのだ。
「で、こっちがやーさん」
「やーさん?」
又た彼等特有の呼び方というものか、しっかり名を聞こうとする前に、猫神の後ろでお付の様に立っていたやーさんが「まぁ」と口を挟んだ。
「一寸、其の名前は辞めてくださいって言ってるじゃないですか」
恥じらいか怒りか、手を招く様に振りながら抗議をする声を聞くと「んぁ?」と間抜けな声を出して振り返り、これまた気の抜けた笑いを零して続ける。
「良いじゃないか。なぁ? こいつ、昔はやんちゃしてたんだぜ。俺が一番だなんて大暴れしてさ」
「あんなに大昔の話を掘り出さないでくださいな。貴方もあの時は活気溢れていたのに」
「なんだい、今のオイラは活き/\してないって云うのかい。其れを云やぁキミだって、丸くなったと思えば唯のオカマ野郎になっちまうしさ」
……ひょっとすると彼は抜け作なのか。好き勝手云われる彼を横目に、喉まで出かゝった言葉をゆっくり押し戻した。
「失礼しました。わたくし、八岐大蛇と申します。どうぞお好きな様に、呼んでくださいまし」
そう名乗った彼は白く長い髪を揺らして少し会釈する。妖麗な物腰につられて私も軽く頭を下げた。
「大蛇って、あの大蛇かい? へえ! 大きく成るものだね!」
「なんだい、君、知り合いか」
私の他にも昔から知っている者が居たのか、何気なく零す八咫烏の一言はあまりにも懐古するようで図らずも私の心に引っ掛かり、反射的に訊ねた。すると彼は「え?」と、瞬間素っ頓狂な顔を向けた後直ぐに
「嗚呼いや、違う。知り合いじゃあない。昔何かの書物で見ただけさ」
と何か曖昧な返事をされた。だがそう言及する事でも無いと、そこらで訊くのは辞めにした。然しよく憶えていたな。私は少し、彼の記憶力を甘く見ていたらしい。
丁寧に名乗られた以上、私達も告げなければ失礼か。と私が口を開くよりも先に彼が勢い付けに手を叩いた。
「それじゃ僕らも自己紹介だ。僕は八咫烏。で、こっち(此方を指差して)がおいぬさん。で其れが、……」
「白兎神」
「そう! 白兎神。──ん?」
私は一瞬、耳が可笑しくなったのかと疑った。私も口を挟んではいないし、白兎神は懲りもせず菓子を喰っている。其の名前を教えたのは、私の目の前に居る猫神であった。知り合いなのかと目を向ければ、白兎神は小さく否定する。
「君、僕等のこと知ってるの」
隣で意気揚々と話していた八咫烏も、目を丸くさせて訊ねる。流石の彼も之には驚いたようだ。
「嗚呼! 知っているよ。あっさり捕まっちったキミのことも、もどきのキミのことも。勿論、──法螺吹きなキミのことも」
順番に指を差して、順番に失礼な言葉を残して行く。矢張りこいつは唯の阿呆なのか。と溜息をついて隣を見る。
「……なるほど」
隣に居た彼の、腹を探る様な視線と吊り上がった口許が、やけに目に焼き付いて離れなかった。