弐章 四
「君、君。白兎神。彼の事を頼めるかい」
一先ずは自分と彼の安全を確保することが先決である。八咫烏が飛ばされてしまった今、私には何をすることも出来ない。口惜しいことに、人とはそうなのだ。
「彼って、あの烏さんのこと?無理だよボクには出来ないよぅ」
「なら私だけでも運び給えよ、悠長にしている時間は無いんだから。いゝから早く彼処のヤタさんを、……」
私は彼の吹き飛んだ方を指差した心算だ。けれど
「……居ないね」
まさか既に海に落ちてしまったとでも云うのだろうか、或いは帰って来たか、それにしても何も無い。彼なら一言掛けるだろう。こんな時に冗談をするような彼では──あるか。嗚呼落ちるついでに彼の姿でも捜してやろうか! 兎に角私はもう膝をついているのもやっとであった。
「仕方がない、君だけでもさっさと行け」
「待ってよ、それならせめて一人だけでも──」
不意に、白兎神の声が消える。どうしたと顔を上げてみれば、彼はもう私を置いて逃げたとでもいうのか。これっぽっちも見当たらない。何と云っていたか、「一人くらいは」なんて向かったわけでもなさそうだ。
「何だ、裏切ったか」
私の呼ぶ声も虚しく消え、全くこうも旅というものは呆気なく終わるものかと、噫、いったいあの八咫烏の馬鹿みたいな意気込みは何だったのか。噫、之ならあの砂場で何処かに消えてしまえと断ってしまえば善かった。足を踏み外す刹那私は後悔に塗れて。
こんなことならば、あの時に彼を。
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「嗚呼、間に合ったようで。平気かしら」
気の抜けた私は、咄嗟にこの状況を呑み込めず声の掛けられた方を見上げる。陽の光を返す髪は晴れた日の積雪のようで。視界の怪しい伏せられた瞼から覗くは見事な三日月であった。目の下の縁に沿い塗られた藤色が一層それを引き立たせる。大人しい子供が抱く綿入りの人形のように易々と私を抱き上げた彼(現に飛行をしているから男なのだろう)は一目散に陸へ向かい。
「君、何をしているんだい」
「話は後です、いゝからわたくしに連れられてくださいまし」
何だかやけに女性らしい言葉の紡ぎ方をするものだが、それが彼なのだろう。兎にも角にも、今は一人でどうにか出来るものではない、此の儘彼に落とされても困る。云われた通り、彼に従おう。