弐章 三
却説、どうしたものか。突き進むのは構わない、だがその後は?根源を絶って彼等が、農夫が又た正気になる保証も無い。抑々このまゝ進んで彼等は追わないのか。……おや。
「ねえ、ヤタさん。何だか鳥が騒がしくないかい?」
「んん、そうかな」
遠くに見える鴎は跳ねる餌に飛び付きもせず、唯上から眺める。様子を窺っているのか、腹が膨れているのか、はたまた。とにかく己の下に広がる海には決して飛び込もうとはしなかった。之が「腹が減ったぞ、魚だ魚だ」と騒いでいるだけならば私は少しも気にならなかった。然しやけに気になったのだ。嵐の前の静けさ等と云うが、地震の前には鯰が騒ぐ、津波の前には鴎が騒ぐ。そう
先ず上がったは一つの大波、農夫を一人巻き込むと其の儘海の底へと沈んで行った。其れを皮切りに、数秒前まで穏やかに見守っていた海原は牙を剥き、その場に居る全員を沈めてやろうと云わんばかりに荒れ狂う。海の恐さを知っているか。昔そう聞かれた事がある。幼い私には何のことやらと面白可笑しく聞いていたが、今は事情が違うのだ。
「おぉ、凄い波だね」
「云ってる場合じゃないよ、何処か陸は無いの、早く避難しよう」
八咫烏の方は、あまり気にしていないみたいだ。服が濡れたら何やらと、その程度。仮にも烏なのだから、少しは水を嫌ってほしいものだが。一方の白兎神は、私と同じ、かなり焦った様子を見せている。然し其の焦りは何も自分へのものではない。
「ど、どうしよう。此の儘じゃ皆連れてかれるよ」
成程どうやら彼は目の前に居る農夫達を気にしているようだ。人の身を案じるという何とも慈悲深い心の持ち主か、其れ共。何れにせよ彼がどうにか助けようとはしているようで、今にもあの群に飛び掛りそうであった。全く面倒ではあるが彼も知り合いの一柱である以上、何とかする外無いのだろう。
「ほら、早く退くよ。……何やってるの」
「あの人達も、助けられないかな、頼むよ困るんだよボク」
「そんなこと云われても──わぷっ」
あゝだこうだと話している間にも、水を被ってしまった。あの軍勢もどきに飛び込む勇気も出ないのか此方へしがみついて縋っている白兎神の手は震えている。
「無理だよ、僕でもあの人数一気には。然も君が云うには傷付けるなだなんてね。あと僕は、あー、泳げない。落ちたくないの」
飛行が可能ならばあまり関係の無い話だろうが、成程水の力は偉大である。掴めぬこその恐怖、豪然たる強さに凡百生き物は喩え瞬間だろうと平伏す事を余儀なくされる。私は泳ぎの一通り出来る心算ではいるが、却説之の荒波の中抗えるかどうか。──成る可く落とさないで頂きたいものだ──等という私の願いは波の音に消え。いゝや私は落ちなかった。八咫烏が落ちたのだ。潮の流れは極めて不規則に緩急を繰り返し、何者かの手に回されているかと疑る程に私達を付け狙う。「うわっ」と一瞬の油断を潜り目に掛かった海水を拭おうと八咫烏は袖を寄せる。其の瞬間を逃しはしまいとうねりを打ち石臼が如く腹へ突貫し其の儘八咫烏の身体を吹き飛ばした。弛んだ身体に打ち込まれる一撃はさぞ痛いことだろう、圧迫された内臓から空気を吐き出しなるだけの衝撃は逃がした心算でも重い。大丈夫だろうか。──
どうやら彼の心配をしている余裕も私には無さそうだ。此処は平和な地面の上ではない、彼が無事でなくなった以上こいつの均衡を保つことは難しい。案の定だ。生憎私は暴れ牛に乗る趣味は無いもので、呆気なく落される事は目に見えていた。