弐章 二
「もっとよく、前を見た方がいいよ? ねえ、おいぬさん」
一度閉ざした瞼の隙から細く光を眼に入れて行く。身体に痛みは無い、視線ごと顔を下に向ける、流れ出るであろう色は無い。代わりに有った物と言えば──手だ。小さな、否丁度私の掌と同じくらいの大きさの。
「僕が君を死なせるわけないじゃない」
ね。と、彼はけた/\笑い前へ向き直す。
「君、これは」
「其れ、何か有った時の為にって。付けておいたのさ。いやァ役に立って善かった」
成程、それは。確かに役に立ったとはいえ、一体彼が何時私の周りなんぞに彷徨かせていたのか。まるきり判りはしなかったが事実私は助かっている。何かを聞くのは止す事だ。そうだろう。
「えゝと。先ずは有難う」
「どういたしまして」
彼のお蔭で私は一命を取り留めた。然しそう易々と何度も防ぐ事が可能だろうか。矢張り一度戻った方が善いのではないか、私の頭で大きくなるはそんな口に出す事も無いような、所謂「人」とやらが考えれば十中八九取るだろう選択肢、警鐘。
「ねぇ、帰ろうよぅ。やだよボク無闇に乱暴したくないもの」
嗚呼そうか、そういえば彼も居たのだったか。失念していた。
「別に僕は行っても善いのだけどね。あの人達は君の住民なんだろう? えゝと、あー、」「白兎神」「そう、白兎神。其れに、あれだよ。今帰っても何の解決にも成らないだろ?君、どうにか出来るの。善いよ僕は彼等全員を冥土に送ってやっても」
「貴方本当に心無い方だな! とにかく辞めよう、一旦帰ろう?」
「いゝかい」
白兎神の声を遮ってまで出す八咫烏の声はやけに私の耳に残った。私も揃えて帰ることを勧めようとした言葉の詰まる程に。
「そりゃあ君の云う通り帰っても善いんだ、でもね、今帰れば次は無い。そういうやつだ。今こんなに手薄だっていうのに行かないやつが何処に居る?」
手底から足を離し白兎神と鼻の合わさる距離まで一気に寄れば依然吊り上がった口を開き捲し立てる。何が彼をそんなにも焦らせるのだろう。彼はもっと、話があるならば円滑に進めていたはずだが。はて──
否、今他の事を考えるのは止して彼を止めようか。見ろあの小動物を、もう堰を切って泣きそうではないか。
「えぇと、ヤタさん」
「判ったよ!」
またしても遮られた言葉に行場を失くした手を私はそうと下ろしながら行く末を見守る。どうやら次に詰まらせた主は白兎神のようで、睨み上げるように更に顔を詰め、其の目に薄く泪を浮かべて、負けじと声を張り上げて話し出す。
「そんなに行きたいなら行けば善いじゃない、けれどあの人達に何か酷いことしてみろ、ボクが赦さないからな! 君には関係ない人かもしれないけど、ボクにとっては大事な信者なの、減ったら困るんだよ!」
「……」
堰を切ったのは泪でなく言葉で意表を衝かれたのか豆鉄砲を喰らったような顔をして数秒。何を返すわけでもなく私と居た場所まで黙って帰れば又た振り返り彼と顔を合わせ「判った」と
「僕も別に鬼じゃあない、彼等には何もしないさ。けれど参ったな、これじゃ護身ばかりだ」
頭を掻き試行錯誤するも人である我が身を護りかつ十を超える敵に触れることなく突き進む案が易々と出るわけも無く。彼から出るのは「どうしようか」の言葉のみ。
「どうしようったってね。でも今は君、これでどうにかなってるじゃないか」
そう言って私が指すのは彼の用意していた小さな(普段使っているよりもだが)手の一つで、之で護れば善いだろうと。……勿論私自身護り切れるとは思っていない、寧ろ辞めておけと未だ警告が来る。然し之も一つの方法だと提案してみるとこれまた彼は目を丸くさせた。其の表情に私はくずおれて頭を抱える。
「まさか君、何も考えてなかったなんてことは」
「いやァ、途中から面倒になってしまって。はゝゝ」
私は開いた口が塞がらなかった。何処まで天邪鬼に見せれば気が済むのだろうか。其れで食いつく者と言えば一児の母ぐらいだろう。そう伝えれば彼は怒るだろうか。誰が赤子だと。否。
「まァ、案は浮かんだのさ。其れで行こうか」
呆れる私の様子を毛ほども気にせず、自分は治るが当りたくないと屈んで前進せよと指示を向ける。其れ一つでは怖かろうと私の前に塞がるその手を大きく/\変えさせて。




