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幕間:ある侍女の境遇


 勇者が二人同時に存在するようになったという異例中の異例が発生した日の翌日に、その勇者のうち一人が城から姿を消した。


 しかしその事実は、大きな騒ぎも起こることなく受け入れられた。


 なぜならば――ほとんどの人間にとって、彼はもう要らなくなったと判断されたからだった。



                 ●



 最初に彼が居なくなったことに気が付いたのは、彼の世話係である私だった。


 彼が城を出ることになったことは、昨夜のうちに他でもない彼自身の口から聞いていたし、朝にも上役から正式に連絡があったので把握していた。


 だから、準備もあるだろうと少し時間を置いて、昼前くらいに彼の部屋を訪れて扉を叩いた。


 しかし、いくら待っても何も反応がなかった。


「……?」


 彼の状況や見知った性格を考えると、今日という日にこの時間になるまで寝ている可能性は低いとは思ったものの、まぁ一度では反応がないことはままあることかなとも思ったから、もう一度叩いてみた。


 今度は少し大きな音を立てるように強く、だ。


 ただ、それでも反応はなかった。


 ……おかしい。


 流石に不審に思い、扉を開くか否か迷った一瞬迷ったものの――客人とは言え、部屋の主の許可なく部屋に入ることは許されない――思い切って扉を開くことにした。


 普段の自分だったら絶対にこんなことはしなかっただろう。


 それでもこの行動を実践できたのは、迷った瞬間に、昨夜この部屋の前を辞するときに彼からもらった労いの言葉が頭を過ぎったからだった。


 ――よくよく考えれば変なんだ。


 だってあの言葉は、あの時に言う必要はなかったはずだからだ。


 彼は今日、この城を去る前に金銭を受け取る話になっていたのだ。

 彼の性格を考えれば、受け取らないという選択肢はないはずで。そう考えれば、城を去るその時か、私が部屋を訪れた今日この時に口にしても良かったはずだった。


 だというのに、まるでもう言う機会がないからというように、昨日言わなければならなかった理由は何なのか――ただの気紛れだったのかもしれないし、深く考えるようなことでもないのかもしれなかったけれど。


 今の状況を考えると、きっとこの扉が向こうから開かれることはないのだろうと感じてしまったから、普段なら決してしないことを決心できたのだろうと、そう思う。


「…………」


 もう一度だけと再度ノックをしてみたけれど、少し待ってみてもやっぱり反応はなかった。


 気持ちを整理するために深く息を吸い、吐いた後で、扉を開いた。


「――――」


 果たして扉を開いた先に広がっていた光景は、予想していた通りのものだった。


 まず目に入ったのは、開かれたまま揺れている窓だった。


 次に部屋の中を見回せば、シーツが剥がれた寝台と、その上に置かれた一冊の本が目に留まった。


 ――そして、それ以外には何も無かった。


 彼の姿は、確認できなかった。


 もしかしたら、彼は城のどこかにいったん移動しただけかもしれないという考えが頭に浮かんだものの、一笑に付して却下した。


 もしそうであれば、寝台のシーツが無くなっているなんてことはないだろうし、他の者を通してそのことが私に伝わっていなければおかしいだろう。


 私は今日、彼を王の下に案内するという仕事のためにこの部屋に来ているのだから。


 それに、もっと部屋の様子を観察すればあるべき荷物が無くなっていることもわかった。

 そこに加えて、寝台の上にこれ見よがしに置かれた書置きらしきものもあった。


 ――ここまで状況が揃っていれば、流石に推論を否定することはできなかった。


 彼は昨夜、誰にも言わず、誰にも気付かれることなくここを立ち去ったのだろう。


 なぜそんなことをしたのかはわからないが、彼がこの城にもう居ないということには間違いなかった。


「…………」


 寝台に近づき、本の下敷きになっている布きれを手に取った。


 いかにも雑に破きましたと言わんばかりのそれには、赤黒く、かすれた跡が残っていた。

 その跡はかろうじて読める程度の拙い、崩れた文字だったが、なんとか意味は読み取れた。


『勇者が二人居る事に疑問を持て』


 ただ、わかるのは文字が持つ意味だけだった。


 彼がどうしてこんな言葉を残したのか、その意図はわからなかった。


 ……こんな言葉で、何かがわかるはずもない。


 しばらく彼が残した文字を見つめた後で、溜息を吐いてから視線を外した。


 少しだけ彼の意図について考えてみたものの、答えらしきものは何も思い浮かばなかったからだ。


 思い浮かぶのは疑問だけだった。


 なぜ彼はこの言葉を残したのか。

 この言葉を受け取った人間に何をして欲しいのか。

 金銭を受け取る機会を捨ててまでこの城から出ることを優先した理由は何なのか――わからないことが積み重なっていくばかりなのだから、溜息も出ようというものだった。


「……本当に、雑なやり方」


 布を落とさぬように懐にしまい、開きっぱなしの窓を閉めた。


 部屋を片付けるかどうかは迷ったけれど、まずは報告が先だろうと判断して部屋を出ることにした。



                 ●



 彼が居なくなった部屋を出て足を向けた先は、王の居室だった。


 報告内容が報告内容だけに足取りは自然と重くなったものの、報告しないわけにも行かないのだからと、なんとか足を止めないように努めて歩き続けた。


 ――そうやって逃げ出したい衝動と戦いながら足を進めていると、すぐに王の部屋が見えてきた。


 まぁ実際に見えるのは、その扉の前に立つ番兵の姿なのだけれど。


 ……結局は同じことよね。


 番兵の視線がちらりとこちらを向いた。


 番兵も私が今日ここに来ることと、その用向きを聞いているはずだった。

 だからこそ、こちらの姿を見て、珍しくその表情に疑問符を浮かべていたのだろう。

 その表情を崩さないままに、こう聞いてきた。


「元勇者の姿が見えないが。何があった?」

「そのことも含めて報告に来たの。……とても気が重いのだけどね」


 私がそう応じると、番兵たちは報告の内容を察したようだった。

 なるほどと頷くような仕草を見せた後で、それ以上は何も言わずに扉の前から体をどけて、視線でどうぞと扉を示してきた。


 ……同情するような様子が見えれば蹴ってやろうと思っていたけれど。


 そうならなくて良かったような悪かったような、なんとも言えない気持ちを抱えつつ扉に向き直る。


「……よし」


 そして二三度深呼吸をした後で、扉を叩いた。


 少し待っていると、入れという言葉が扉の向こうから聞こえてきた。

 だから、意を決して、失礼しますと返してから部屋に入った。


「…………」


 王が普段の執務で使用しているこの部屋は、客人に宛がわれる部屋よりも狭い上に物も少なかった。


 作業部屋だからと、家具なども最低限しか用意していないためだった。


 誰かと面会する時のために、ある程度豪奢な部屋を別に用意してまでこの部屋で作業をするのは、単純に王自身が贅沢をあまり好まない性質だからだという話らしい。


 王曰く、物が多いと落ち着かないとのことだった。


 とは言え、庶民派な王だというのは確かなことかもしれないが、だからといって気安く接することができる相手ではなかった。


 ……どんな環境を好もうとも、王は王だ。


 己のために、国のために、決断するべきを決断し、為すべきを為すことができる方だった。そこを勘違いした態度や言動を迂闊にすればどうなるか――想像するだに恐ろしい。


 王はこの部屋の入り口から見て正面にある位置で、執務机に向かって作業をしていたようだった。


 扉が開く音を聞いた後で作業に区切りがついたのか、王の視線が机からこちらに移ってきた。


 そうやって私の姿を認めた後で、隣にあるべき姿がないことに対して、王は眉をひそめてこう言った。


「彼の姿が見えないが」


 王の視線と言葉を受けて、緊張で思わず息を吞んだ。


 数秒の間を置いて、自然と止まった息を、気持ちを落ち着けるために再開したけれど――胸のあたりが圧迫されたような違和感が湧いてくるのは止められなかった。


 段々と気持ち悪くなってくる感じがあった。

 だから、正直もう叫んで逃げ出したい衝動に身を任せてしまいたくなったけれども。そうするわけにもいかなかった。


 ……そうするくらいならきちんと報告する方が状況的にはまだマシだもの。


 覚悟を決めて、事実を口にする。


「彼は既に城から出て行ったものと思われます」

「……そう判断した根拠は何だ?」


 王の声音が一段低くなっていた。

 その事実に口から悲鳴が出掛かったが、なんとか飲み込んでから応じる。


「部屋にあった彼の私物がいくつか無くなっていたことと、寝台の上にこのような書置きが残されていたことから判断しました」


 王の問いにそう返してから、彼が残していた布きれを取り出した。


「…………」


 王はこちらが取り出した布を怪訝そうに眺めた後で、視線で持って来いと伝えてきた。


 その意図に従い、王の座る机の前まで近寄った。

 続く動きで、王がきちんと文字を読めるように布の方向に気をつけながら机の上に布を置き、一歩下がった。


 王は置かれた布を手にすると、そこに書かれた文字を黙って眺め始めた。


 ――沈黙が落ちる。


 私は王の反応を黙って待つしかないのだけれど、この沈黙は、心になかなかくるものがあった。


 王が視線を落とすあの布に書かれた文字は、簡潔な一文だけしかなかった。


 あれを見て、王はいったい何を考えているのだろうか。

 彼の意図だろうか、それとも、目の前に立つ彼の逃亡を防げなかった役立たずの処遇なのだろうか。


 わかりはしないが、私としては後者でなければいいなと願うことしか出来なかった。



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