あなた、私と手を組まない?
「あなた、私と手を組まない?」
私の声は、震えてはいないだろうか。
逃げ出したくなる身体を叱咤して、彼の綺麗な目を見据える。
学園一の遊び人と噂される彼、ユリウスは僅かに驚いたように目を見開いた。
彼の美しい瞳が、ゆらゆらと揺れる。
ユリウスが学園一の遊び人だなんて、噂というものは本当にあてにならない。
かくいう私の噂も、一体誰なんだそいつはと突っ込みたくなるほど根も葉もないものばかりで。
噂の中の私は、いつだって誰かを蔑んで、いつだって誰かを貶めて、いつだってほしいものは必ず手に入れる。
目の前に佇むこの男に、指一本触れることすらできない私をまるで嘲笑うかのように、噂は根も葉もないままどこまでも転がって。
もしも、ほしいものが手に入るのなら。
私がほしいものなんて、たったひとつしかありはしないのに。
「あなた、あの子がほしいのでしょう?」
私の言葉にユリウスの眉が寄る。
私がほしいものは、たったひとつ。
けして、手に入ることはないけれど。
「私とあなたが手を組んで、あなたはエリーゼを手に入れ、私はテオ様を手に入れる。最高のシナリオでしょう?」
ユリウスが、幸せになってくれればいい。
この優しい男が、どうか、どうか。
エリーゼなら、きっとユリウスを幸せにしてくれる。
だって、だって、私はユリウスのあんなに幸福そうな顔を初めて見たの。
エリーゼの隣にいるときの彼は、まるで花がほころぶように笑って。
何年も彼を遠くから見ていたのに、あんな顔を私は初めて見たもの。
目の前のユリウスはいつものように、偽物の微笑みを貼り付けている。
目の奥には、どこまでも深い絶望の色。
「あいにくだけど、僕はテオのことも大切に思っていてね。あの二人が幸せになるならそれに越したことはないと思っているよ。テオにご執心のきみには悪いけどね」
彼らがエリーゼと出会ってから、テオがエリーゼに好意を抱くまでは、彼はこんな目をしなかった。
こんな筆舌尽くしがたい暗闇のような色を、瞳にのせることはなかった。
大切なテオと、大切なエリーゼに挟まれて、彼は身動きがとれなくなってしまったのだ。
けれど。
けれどそれなら、私が全部ぶち壊せばいい。
恨まれても、軽蔑されても。
私がすべてを、ぶち壊せばいい。
幼いあなたがあの日伸ばしてくれた小さく、けれど力強い手を私は、いつまでも忘れることができないから。
「あなたがエリーゼから手を引いたと知ったとき、傷付くのはテオ様じゃないかしら。自分のために、親友が自分の気持ちを押し殺した、なんて。テオ様が知れば、どうなるかしらね?」
ユリウスの口元が微かにこわばる。
「脅し?」
「私は事実を述べているだけよ。テオ様のためだなんてフリをしてあなた、本当は怖じ気づいているだけでしょう?あなたが逃げるための口実にテオ様の名前を出さないで。不愉快よ」
私の言葉に、ユリウスの目が冷ややかな色を帯びる。
「まるで、テオのことを本当に愛しているかのような言い方をするんだね。自分以外の人間を道具としてしか見ていないくせに」
ユリウスが美しく微笑んだ。
私の心がキシキシと音をたてる。
だめだ。
泣くな。
笑え。
私は強い。
大丈夫。
私は傷付いたって、大丈夫。
「エリーゼがテオ様を愛することはないわ」
頬に力を込めて無理矢理、微笑む。
エリーゼの視線はいつも私の視線と同じ方向を向いている。
いつだって熱を持った瞳がユリウスを追っていた。
こんなこと、気が付かなければよかった。
気が付かなければ、よかったのに。
「なにそれ。またお得意の裏工作でもしたの?エリーゼに脅しでもかけたのかな?」
どこかでまた、キシキシと音が鳴ったような気がしたけれどそんなのもう構わなかった。
「そんなことどうでもいいわ。あなたに選択肢なんてない。わかるでしょう?」
にっこりと微笑むと、ユリウスは僅かに悔しそうに唇を噛んだ。
「まずあなた、エリーゼの前で遊び人ぶるのをやめなさい」
私の言葉に、ユリウスはきょとんとした顔でこちらを見つめる。
「嘘なんでしょう?噂。それなのに、エリーゼの前でむやみやたらと女性に声をかけたりして、見ていて痛々しいわ」
じわじわとユリウスの目がまんまるに見開かれ、わなわなと唇が揺れる。
「な、んで……」
「あなたのことは社交パーティーで見かけることがあるけれど、パーティーの外で女性といるところを見たことがないもの。むしろあまり女性を好きではなさそうだわ、あなた」
ユリウスはバツが悪そうに顔を歪めた。
ユリウスの艶やかな微笑みは拒絶そのものなのだと、幼いユリウスは言っていた。
彼はテオ以外には、なかなか心を開かない。
いつも微笑みを貼りつけて、それ以上踏み込まれるのを拒絶する。
「まいった……大した観察眼だね」
両手を降参するように挙げ、眉を下げて困ったように笑う。
「エリーゼは誠実な人が好きだからね。テオはぴったりなんだ。今更僕がアピールしたところで勝ち目なんかないんだよ」
それでもエリーゼはユリウスに惹かれ始めている。
「僕が手を引くまでもない。きみはエリーゼがテオを選ぶことはないと言ったけど、エリーゼは権力や脅しやお金には屈しない。選ばれないのは僕のほうだ」
自嘲するように紡がれた彼の言葉に、私の心はまたキシキシと軋んだけれど、それよりも私の心の奥底からフツフツと湧き上がるなにかがあった。
「あなたが誠実かどうか、決めるのはあなたじゃないわ」
彼の瞳が戸惑うように揺れる。
「あなたは誠実だと、私は思うわ」
ユリウスがひゅっと息を飲み、一瞬迷子のような顔で私を見た。
「きみのことが、わからないな」
困ったような顔で私をまっすぐに見て、そんなこと、言わないでほしい。
悲しさと虚しさと喜びで、心がかき混ぜられてしまうから。
今までほとんど交流のなかったユリウスと、たびたび顔を合わせるようになって随分と時が経った。
「きみ、今度は魔王を滅ぼしたって噂がたってるよ」
ユリウスが子どものように無邪気に笑う。
学園内で彼とすれ違えば自然と目が合う。
私と目が合うと彼の表情が微かにやわらぐ。
そんな些細なことでも私の身体は喜びに震えて。
こんなの馬鹿みたいだと自分を嘲笑った。
彼に関われば関わるほど離れがたくなる、なんて、そんなこと最初からわかっていたのに。
「それで?お前はこれでよかったのか」
遠ざかるエリーゼとユリウスの背中を眺めながら、テオはため息を吐いた。
「俺をあの二人から遠ざけて、あの二人を二人っきりにさせて、よかったのか。こんなこと続けてたら本当にくっついちまうぞ、あの二人」
まるで私の気持ちを見透かすような目に思わず肩が揺れる。
「……私がテオ様と二人っきりになりたかったのです」
私の言葉にテオはもう一度ため息を吐いて首をふる。
「お前が惚れてるのは俺じゃなくユリウスだろ。ユリウスはバカだから昔出逢った少女がお前だと気がついてないだろうが、俺は覚えている。あの時の泣き虫が、血も涙もない冷血な女だなんて、噂ってのはあてにならないよな本当に」
テオのどこまでも冷静な声に、なんだか無性に泣きたくなった。
誤魔化すように、笑う。
「テオ様こそ、エリーゼを行かせてよかったのですか?」
私の言葉にテオは鼻で笑ってみせた。
「噂なんてあてにならないと言っただろう。確かにエリーゼみたいな素直な人間は貴重だよ。エリーゼはいつだって本心しか言葉にしない。そんなエリーゼに救われることもあるだろうよ。しかし、だからといって恋慕に繋げるのは浅はかすぎるだろう」
テオの目は冷静に二人の背中を見ていた。
建前が必須とも言えるこの世の中で、エリーゼのように本音をさらけ出せる人間は、珍しく、それゆえに眩しい。
暗闇に差す一筋の光のように、私たちの心を突き刺すのだ。
それが私は、羨ましくて。
時折、彼女のようになりたいと思うことがある。
「お前みたいに、心にもないことを言うことが、必要な時もある」
テオが、微笑む。
今まで見たことのないような優しい顔で。
「いざというときが来たら、泣き言ぐらい聞いてやるよ」
テオのあたたかな掌が私の肩を優しく叩いた。
じわりと鼻の奥が熱を持ち、きゅっと眉を寄せる。
「なんで……テオ様ってモテないのかしら」
泣いたりしない。
私が選んだことだから。
テオは私の気持ちを見透かすようにカラカラと笑って、ゆったりと私の頭を撫でた。
「お前とエリーゼぐらいだよ、俺になびかないやつは」
それもそうかと一寸思ってから、思わず笑う。
「自分で言って恥ずかしくない?それ」
テオはしばらく動きを止めたあと、僅かに頬を赤らめて、うるせえよ、と呟いた。
「うまくやってるみたいだね、テオと」
ユリウスが微笑む。
テオがなにか言ってくれたのだろうか。
私は返事を返さずに微笑むだけにとどめて、ゆるりと首を傾げた。
「あなたは、エリーゼと順調?」
ユリウスの唇がキュッと噛まれ、そしてやんわりともとに戻る。
「順調……かな。明日二人で会うことになってる」
「そう、うまくいったのね」
よかった、という言葉はどうしても喉の奥で止まってしまった。
あなたが、幸せになったらいい。
どうしようもなく痛む心には、蓋をした。
彼の背中が遠ざかる。
行かないで、と言えたならどんなによかっただろう。
でも、でもね、あなたが幸せになればそれでいいと思ったのも本当なの。
「どうか、幸せに……」
呟いて、絶望する。
本当は、あの子のように、なりたかった。
あの子のように。
「あなたの、光に……っ」
ただ、なりたかった。