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第十話 箒星が舞う前に G

 この家の根幹を成す馬術を辞めたいという訴えを、宗家が拍子抜けするほど即座に許可したのは、決して紗菜を見放したからではない。実は姉はその事を見越してアドバイスしていたのだ。


「いいな紗菜、中途半端じゃなくて腹括って言うんだ。覚悟示せば宗家は認める!」


「……」


「なぁに。宗家だって学生の頃に父ちゃんと駆け落ちして逃げてんだぞ!アタシだって何度か出ただろ?辰星の女はな、当主に反発して飛び出して一人前なんだよ!」


「う、うん……」


 姉が言うように、現宗家である辰星亜利亜は十八の秋に大スランプに陥った際に、遠縁にして婿候補の末席にいた青年、司が様子を見かねて辰星家から亜利亜を連れ出奔。十日後に亜利亜は自身の意思で自宅に戻ると、その時の宗家だった曾祖母に対峙して、司と結婚すると宣言し直後に控えていた年末の全国大会をスランプを脱して制し、高校卒業と同時に入籍。さらに逃避行の際に授かっていた長女聖良を大学を休学して出産し、その後は育児を夫に大半を任せながら、馬上槍に邁進。次代の宗家に恥じぬ実績を示していたのだ。


 かくして紗菜は約束通り馬術と一切無縁の雁の巣航空高校に転校してきたのだ。


「“普通の学校生活”過ごせたらいいなって思って出てきて、今はきっと普通じゃないんだろうけど」


 そんな彼女を待ち受けていたのは、憧れ、望んでいた普通の学校生活とは明らかに程遠い日々。しかしそれは次から次に想像外の事が起き、かつ普通に過ごしてきたはずの誰もが、心の底から楽しいと太鼓判を押し、彼女もワクワクが止まらないもの。


「飛行機って本当に楽しい……」


 その仕掛け人は言わずもがな、岩橋隼人という少年。隼人は結果的に紗菜が泥の底から水面の明かりが見えるところまで浮上できたところを、一気に水面どころか大空に引っ張り上げてくれたのだ。


 その言葉が出た直後に、彼女の目に母親、いや宗家の姿が浮かぶ。


「いつか呼び戻されるのかな……」


 宗家は直接口にしていなかったが、紗菜の転校を彼女が許したのは、いずれ馬術の、遮那王流に紗菜が思い改めて帰ってくると思ってのことだと見抜いていた。

 それだけに実家で何かあったときは呼び戻されるのではないかと、その時は思わぬタイミングで突如来るであろうことを本能で理解していた。そしてきっと航空戦競技を楽しんでいる皆にとても迷惑が掛かるタイミングで。


「隼人くん……」


 すぐに隼人の顔が浮かぶのは、彼が部長と言うだけではない。本当に自分に何かが起きた時、隼人はきっと手助けしてくれようとするだろう。これまでに周囲から様々聞かされた隼人の人助けの数々と、何より鹿児島での肝練りの際に“手が届く範囲の事は全部救う”という言葉を何ら躊躇無く実践したことは鮮明に瞼に焼き付いていたからだ。


「だけど……」


 それだけに怖かった。紗菜が唯一絶対的に恐れているのは彼女の母親、宗家の介入。もしそうなった時、きっと隼人は宗家に対して激怒して紗菜のために奔走してくれるのだろう。


 だが、それで騒ぎが大きくなるだけでなく、みんなにも、隼人にも多大な、それこそ人生さえ滅茶苦茶にしてしまうほどの迷惑を掛けてしまうのではないか。そんな考えが脳裏によぎると同時に様々な感情が噴き出し、渦を巻いて体中を巻き込んでいく感覚に包まれてしまう。


(考えちゃダメ!!)


 今まで我が身に起こってきた嫌な出来事の記憶が一斉に彼女を責め立ててくる。逃れようと洗面器で何度も頭から水を被るが治まりが効かず勢いを増すばかり。


「やぁぁっ!いやぁぁっ!!」


 体育座りのしせいで両腿を両手でしっかり掴んで浮かび出た膝に目元をこすりつけるようにして呻き始めた紗菜。外部への音漏れがしないような作りになっていたので外部には漏れていないが、意図的に隣部屋の防音は緩めに作られていたので、浴室の中の声が隣部屋でも聞こえてしまうほど。救いは両隣はおろか、この階の住民は皆、自宅に帰省していて不在だったので聞こえた者は皆無だということ。


「うわあぁぁっ!うわあぁぁぁん!!」


 紗菜は浴槽で膝を抱えて座り込んだまま、その衝動が治まるまで幼子のように大声で泣き叫び続けたのだった。


「あ……」


 ようやく火照りと衝動が治まって気持ちが落ちつくと、すでに入浴してからかなりの時間が経過していたことに気が付く。


「水が温まってる」


 入れたときは冷水だったはずだが、彼女の体温と衝動を吸収したからか、夏の気温の影響、はたまた彼女の身体が冷え切ってしまったからか。いずれにせよ浴槽の水は温く感じられるほどになっていた。


「もう寝なきゃ……」


 浴室の中で何をして渦巻き暴れる感情を発散させたのか、記憶があやふやになって覚えてはいなかったが、とにかくエネルギーを放出しきったことだけは間違いなく、今は喉の渇きと、暖と睡眠を求めることしか考えきれなくなっていた。


「お水……」


 身体をバスタオルで拭きながら貪るように水を飲み干すと、かなり荒く髪をドライヤーで乾かしながらパジャマに袖を通す。おおよそ乾いたと判断したところでベッドに入ると、今日一日の疲れが本格的に吹き出してきたからか、余計なこと考えることもなく、一気に泥のように眠りに落ちていく。


 夢は散々見たからか、この夜は夢を見ることは無かった。


「あれ……?」


 体調の異変を自覚したのは起床直後のこと。


「身体が……おかしい……」


 頭は鐘の中に入れられたまま何度も突かれたように響くように痛み、身体は内側から激しく熱を発して、足取りさえおぼつかない。


 しかし今まで殆ど体調を崩したことが無かった紗菜は、自室には傷や肌の薬以外の常備薬を備えていなかった。


「でも練習に行かなきゃ……」


 こうして学校に出てきた直後に倒れてしまい、病院に担ぎ込まれてしまったのだ。

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