第十話 箒星が舞う前に F
自室に戻った紗菜。身体は海水浴を終えた後にしっかりと洗っていたので、あとは軽くシャワーで流してから歯磨き等を終えれば就寝するだけ。しかしこの時の紗菜は思うところあって縦長で全身が写る鏡の前に立っていた。
「今日着た水着が一番いいと思ってたけど……」
その場で着替えはじめる紗菜。服はもちろん下着まで脱いで。自室に己一人なので、厚手のカーテンさえしっかり閉じていれば、何はばかる必要もないのだ。
「ここをこうして……と」
着替えたのは左右で紅白になっているのホルターネック・ビキニ。ホルターネック・ビキニとは、紐を首の後ろで結んだりひっかけたりして固定するビキニである。実は日中に皆に披露したワンピース水着だけでなく、ビキニタイプにも気に入ったものがあったので購入していたのだ。
「これで……、いいかな」
鏡を見ながらくるくると身体を回す紗菜。このビキニはワンピースタイプは言うまでも無く、彼女が普段着ている下着よりも布面積が狭い。特に今まで他人には入浴以外で見せたことが無い肩やウエスト、胸元まで大胆に他者に見せることになる。
「でも、これぐらいのは他の人も結構着てたから、悪目立ちしないよね……」
紗菜は悪目立ちを気にしていたが、実際にこの格好で出てきていれば同性からさえ大胆素敵と良い意味でその場にいた全員の注目を集めていたことには疑いなかった。
「うん。次はこれ着よう」
正直なところこれを人前で着るのは恥ずかしく思うが、聖子はこれぐらいの水着でも似合うだろうと言ってくれていたので、次回はこれを着ることにした。
「あれ?」
しかし、改めて自身の身体を見た紗菜はあることに気が付いてしまう。
「私の体つき、やっぱり……」
自身の体つきの変化に驚きを隠せない紗菜。食事や環境が変わったからといって彼女の肉付きに大きな変動があったわけではない。転校してからも身体に染み込んでいた基礎トレーニングは決して欠かさず、身体能力そのものには全く衰えはなかった。
しかし彼女の視線はその内腿に。乗馬をしない、できなくなってからは、トレーニングせずとも無意識に鍛えられていた内腿の筋肉が明らかに落ちていた事に愕然としてしまったのだ。
「コメット……」
思わず愛馬の姿を思い出してしまう紗菜。乗らないばかりか顔を見なくなって半年近く。馬上槍はもちろん乗馬に関わらない事が転校の絶対条件だっただけに、転校以来は馬そのものを見ていない、見ないようにし続けていたが、ここでふいに今までのことを思い出してしまったのだ。
「もう乗れないから仕方ないけどやっぱり……」
思わず髀肉の嘆をかこってしまう紗菜。本来の諺とは違い、今の彼女は新天地で周囲に大いに認められ、さらに遺憾なく発揮できる場に出る機会まで与えられていたが、乗馬できずに内腿の筋肉が落ちてしまった事はまた別の話だった。
「やっぱりお風呂に入ろう」
浴室に入った紗菜は浴槽に栓をすると水着を脱いでシャワーからお湯ではなく冷水を出して頭から浴び始めた。
「じゅげむじゅげむ ごこうのすりきれ……」
さらに目を瞑って胸元で智拳印を結んで寿限無を詠唱し始めた。紗菜は考えが惑った時にはこうやって心身を滅却して落ち着けるのだ。
(忘れなきゃ……、忘れなきゃ……)
寿限無の詠唱を何度も繰り返し、頭から被る冷水は浴槽を着実に満たしていく。だが打たれた水が浴槽に溜まれば溜まるほど、ここに来る前の思い出がまざまざと湧き出して彼女の心を締め付けていく。
「!?」
不自然な音と水の流れの変化に気付いて目を見開くと、水が浴槽から溢れ始めていた。紗菜は慌ててシャワーを止めて、今度は肩までしっかり浸かってから智拳印を結びなおして寿限無の詠唱を再開する。身体は表層は冷めていたが、今度はその反作用からか、内側から激しく熱くなってくる。
(コメット……、お母さん……)
ぐるぐると頭をかき回すのは楽しかった思い出の象徴としての愛馬と、逃げ出すほど追い込んでしまった苦しみの象徴としての今の母親、宗家の姿。
(昔はあんなこと無かったのに……)
紗菜の記憶にある母親は常に恐怖の対象だったわけではない。幼少期の母は宗家として馬上槍に精進する一方で、たまの休日には家族そろって行楽に出かけ、楽しい思い出も沢山あったのだ。
(でも……)
そんな母が一変したのは、父が急死してからのこと。内外共に母を支えていた父の没後、全てを背負わねばならなくなった彼女は母親としての役目を捨て、完全に遮那王流宗家として振舞うようになっていた。そんな母に対して辰星の激しい気性を受け継いでいた姉の聖良は度々衝突。出奔寸前まで事態がこじれたが、紗菜の取り成しで落ち着き、現在は自分が流派を継承するための修行と実績を作るために欧州に留学に出ていた。
「流派は私が継ぐんだから、紗菜は好きなことを思い切りやっていいんだからな!」
そう言って豪快な笑顔を見せて旅立った聖良だが、母は厳しい指導を止めないどころか、彼女が離れたことでより一層苛烈に指導を行うようになり、とうとう耐え切れずに紗菜はここに逃れ出てきたのだ。
「宗家は紗菜さまこそが継承者に相応しいとお考えなのです」
それは辰星家で事実上の中間を務める五十代の男性、飯倉が紗菜に語ったこと。姉が留学に出てから指導が一層厳しくなって打ちひしがれてしまった際に打ち明けられたのだ。
「継承なんて私には耐えられないよ……」
馬術は好きなことに変わりは無いが、宗家からの重圧に耐えきれなくなって“普通に過ごしたい”と転校を、馬上槍から離れることを訴えた紗菜。その宗家は顔色一つ変えに一言。
「逃げ出した先に楽園など無く、あるのは常に戦場」
そう言って馬術に関わらない事を条件に転校して家から離れるのを許可してくれたのだった。




