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第三話 イカロスの子ら E

「……。お姉ちゃんは話を聞いてからすぐに連絡してくれました。“遮那王流は自分が継ぐんだから、私は無理せず馬術を辞めて好きにしていい、いっそ全然関係ない場所に行け!”って言ってくれました……」


 母の圧力で妹が潰された事を知らされた姉の聖良は、すぐに母に電話で妹の環境を変えるよう説得。思うところあったからか、馬術系と無縁な学校へ、何か現地で事情があっても馬術には絶対に関わらない事や辰星の家の名に傷をつけるような事をしないことなどを条件に、転校を許可してくれたのだ。


「それでここを選んだのね」


「はい。ここなら馬は関係ないし、環境が全然違うと思ったので……」


 紗菜の実家は阿蘇カルデラの内側で、今までの学校も同様に自然豊かな場所の立地だった。


 しかしこの雁の巣航空高校は九州最大の都市である福岡市にあって、学校の周囲は住宅地もあれば大規模な遊園地と水族館もある。何より公共交通機関を使えばすぐに九州最大の繁華街天神地区にも出向けるという、今までとは全く違う環境だった。


「実家にはこの部活、飛行機の事は?」


「はい。すぐに報告しましたけど、今のところ何も言われてません。多分、馬と全然関係無いからだと思います……」


「そうか……」


 様々な想いが入り混じった沈黙がしばらく続いたが、隼人がそれをゆっくりと破った。


「うちのお袋は良く言ってたんだ“人の命は地球の未来”って」


「……」


「そうね。ノブちゃんは私と野試合していた時でも、発作で倒れている人見つけたときは、いきなり勝負打ち切ってたものね……」


 紀代美も隼人の言葉を裏書した。


「お母さん、自分の部屋にトロフィーたくさん飾ってたけど、一番大事そうに飾ってたのは感謝状だったもんね」


 その部屋を純も鉄也も良く知っていたので静かに頷いていた。


「聞いての通り、オレは自分の信念通すために雁の巣に来て、この部を立ち上げたんだ」


「……」


「だからもし、また似たような事が起きたとしても、オレは絶対に誰も責めない。見て見ぬ振りする方が許せないし、あっちゃいけない。例えそれが全国大会の場だろうと人助けで失格にされたんなら、胸を張って帰るだけだ」


「……」


 俯いて小さく震えている紗菜。


「だから紗菜はオレの、オレたち同志だよ。当然大歓迎だから、これからも気兼ねなく部活に来てくれ」


「は、はい……」


 それを聞くと紗菜は嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流して机に伏してしまった。


「よしよ~し……」


 そんな彼女を紀代美が優しく抱き宥める。それは父親が存命だった時までは母が行ってくれた暖かい抱擁。夫を失ってからの亜紗美が行わなくなってしまった行為でもあった。


 食事を終えた五人は食事代を精算することに。男二人はしっかり食べていたのだが、紀代美は男二人は昼食のランチと同額で、女三人は一人当たり自販機のペットボトル一本分で良いと言ったので誰の懐も痛まなかった。


「本当にいいんですか?」


「ええ。きちんと雁の巣の空戦部を試合に出られるようにしてくれたらそれでいいからね」


『おごちそうさまでした!』


 こうして夕食を済ませて帰宅の徒に。純と鉄也はバス停で別れ、岩橋兄妹は電車の駅に向う。紗菜は兄妹二人を見送りに駅までついてきていた。


「お兄ちゃん、私は少しコンビニと本屋に寄るから!」


「ああ。わかった」


 隼人は紗菜を下宿先まで送る事に。


「あの、隼人くん」


「?」


 道中でふいに紗菜が口を開いた。


「隼人くんは強いんだね。自分のやりたい事を実現する為に転校までして部を立ち上げちゃうんだから……」


「ん~。強い弱いって言うより、やりたい事に正直に生きてるだけだからな。あと周りがみんな理解してくれてるからな。自覚してるけど恵まれてるんだよ」


「……。私は逃げ出すだけの弱虫だから」


 目を落として歩く紗菜。しかし隼人は力強く断言した。


「幾らなんでも卑下しすぎだ。紗菜は強いよ。間違いなく」


 彼女にとって意外すぎる言葉をもらって動転してしまう。


「強いわけなんかないよ……。耐え切れなくて逃げてきたんだよ。どう見たって弱虫だよ」


 隼人は紗菜の右肩を軽く叩くと自身の方に視線を向けさせた。路地の街頭に照らされたその顔は真剣そのものだった。


「紗菜が背負っていたのは何百年って続いてきた伝統、流派の継承候補の宿命だろ?」


「うん……」


「オレはそこまで重たい宿命なんて背負っちゃいない。飛行機はお袋が好きで始めた事だし、親父は家業の事も無理強いはしなかったし飛行機も学業も好きにさせてくれてるんだ」


「……」


「オレの師匠が言ってたんだ。宿命っていうのは受け入れるにしろ拒むにしろ強くなければ、覚悟が必要なんだって」


「本当に紗菜が弱かったら、今も何も言わずに元の学校で宗家の言われるままに続けているよ。いや、それ以前に川に落ちた子を積極的に助けになんて行ってるはずがない」


 その言葉を聞いて、紗菜は小刻みに震えながら大きく首を振って強く否定した。


「そんな!私は弱いんです!弱いから逃げ出したんです!強いなんてそんな!」


 だが隼人はそんな紗菜に告げた。


「自分の意思で逃げるって決めたんだろ?そして実行してここに来たんだろ?」


「!」


 当時の事を思い出す紗菜。確かに母親、宗家は紗菜の判断を手厳しく叱責したが、不適格だから馬術を辞めろとまでは言っていないのを思い出したのだ。馬術についての制限の話は、紗菜が転校を言い出したので条件としたことだった。


「自分は拒絶するって決めて家から、何百年も続く流派から離れたんだ。胆力がないとできることじゃない。だから紗菜は強いよ。間違いなく」


 必死に声を殺していた。閑静な住宅街の道で大声をあげて泣く訳にはいかなかったから。しかし押し殺せたのは声だけで、体の動揺はとても抑えきれず、全身の震えを止めることはとても叶わなかった。


 紗菜が落ち着いたのは自室のベッドの上だった。明かりが点いたままの天井。時刻は日付を跨いだ一時過ぎ。


 思わず目元を拭うが、涙はすでに乾いた後。ようやく明かりを消さねばと思い至り、照明を落として改めて床に入る。


「私は……」


 泣き崩れてしまった紗菜をまるで兄であるかのように宥めた隼人。そのまま玄関まで送ってもらうと、部屋に入って逃げ込むように床に飛び込んで、そのまま泣き疲れて眠ってしまったのだ。


 再度床に入って目を閉じて寝返りを打つ。今度は送ってくれた時に、隼人から言われた言葉を思い出していた。


「紗菜、いいか?これからもし“面倒”が起きたら、すぐにオレに伝えてくれ」


「え?」


 驚く紗菜に真顔で隼人は告げる。


「オレは絶対に仲間を見殺しにはしない。相手が誰だろうと必ず助ける」


「は、はい……」


 隼人は紗菜が自分の家庭の事情を聞いたことで、紗菜の母親が脅威になるかもしれないと判断していた。そしてその上で、何かあったら紗菜に救いの手を差し伸べると宣言したのだ。


 紗菜も隼人が生半可な覚悟でその言葉を口にしたわけでは無い事を理解できていた。だから反射的に返事するしかなかったのだ。


(この学校を選んで本当に良かった……)


 今まで過ごして来た環境、特に中学以降は辰星という家の威光もあってか、出会う誰もが何かしら畏れ距離を取っているように感じられていた。


 しかし、今の学校では誰も紗菜が辰星だからと畏れはしないし、入部した空戦部の面々は全てを承知で居場所を作ってくれていた。こんなに居心地が良い場所をこれまで彼女は知らなかった。


(でも……)


 自分を追い詰めた時の母の顔が恐怖と共に脳裏に過ぎる。それは彼女の心に刻まれてしまった絶対的な存在だった。


 もし母が介入すれば、自分を取り巻く何もかもが滅茶苦茶にされてしまう。紗菜はそれを確信していた。そしてそれをここで再現するわけにはいかない、とも。


(みんなを巻き込むわけには……)


 そこに自分の通信端末にメッセージの着信を知らせる電子音が。確認してみると、それは姉からの近況確認だった。


“元気にやってるか?今は楽しいか?”


 あまりに簡潔で、それだけに姉の顔がありありと浮かんでくる一文。紗菜は思わず笑ってしまうと、すぐに返事した。


“私は大丈夫。すごく楽しい!”


 返事を送信すると、何かの線が切れてしまった紗菜はゆっくりと目を閉じた。姉の留学先の欧州はともかく今が深夜だということも忘れて。お陰ですぐに来た返信で、かえって心配されてしまったのだが、それも何故か紗菜には嬉しくてたまらなかった。


 皆で一緒に機体を動かして離陸するまでの共同作業の楽しさ、大空に舞い上がる瞬間の高揚感。眼下の景色の美しさ、丁々発止で切り結ぶ苛烈で華麗な空中戦、そして着陸して地面に立った時の安心感。そのどれもが心を心地よく弾ませてくれた。


(とにかく明日も頑張らなきゃ)


 こうして心に滲み出た不安を脇に押しやって、紗菜は眠りの底に沈んでいった。

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