プロローグ
とある森の奥深くに一軒の大きな洋館が人目を避けるようにひっそりと立っていた。昔ある貴族が愛人を囲うために建てさせた、またある組織の実験施設として建てられたなどと言われていたその洋館はあるときから「悪魔の館」と呼ばれ、人々から恐れられるようになっていた。
数十年前の新月の夜、三人の旅人が月明かりもない真っ暗な森の中をひとつのランタンの明かりを頼りにさまよっていた。彼らはこの森にしか生息していない幻と言われているあるものを探すために森の奥深くまで足を踏み入れていた。しかし、彼らの予想以上に背の高い草木に視界を遮られ、気がつくと自分たちがどの方向から来たのかさえわからなくなっていた。とにかく森を抜けようとひたすら歩いたが出口が見つからないまま日は沈み、夜の暗闇が彼らの足を止めた。今夜は諦めてどこかで野宿しようと再び歩き出したとき突然白い霧が彼らを包み込こんだ。周りの木々が不自然にざわめき、辺りは不気味な雰囲気に包まれた。
チリーン
先頭を歩いていた男が膝から崩れ落ちるように倒れ込んだ。後ろの二人が慌てて駆け寄り抱き起こす。どうしたのかと問いかけるも返事はない。まさか死んでいるのではないかと最悪の事態を想像して顔を見合わせる。
チリーン
顔を見合わせた二人のあいだを黒い影が横切った。次の瞬間、片方がどさっと地面に倒れ込んだ。残された一人は湧き上がる恐怖の中で自分の心臓の鼓動が早まっていく音を耳にした。このままここに居るのは危険だと本能が告げる。最初に倒れた男のそばに転がっていたランタンを手に取ると無我夢中で走り出した。とにかくその場を離れること。その時の彼にとってどちらへいけば森を抜けられるかなどはもはや些細な問題だった。
『あれ』から逃げなくては。
うっそうと覆い茂る木々をかき分け、ただ前へ、前へと進んでゆく。一体どれだけ走ったのだろうか。実際、彼が走っていた時間はわずか五分という短い時間だった。しかし、恐怖に飲み込まれた彼にはその時間が三十分にも一時間にも感じられた。
突如視界を覆っていた木々が消え広大な庭園が姿を現した。そしてその先には窓に明かりがともった大きな洋館がそびえ立っていた。明かりが見えたことで彼の顔には自然に安堵の表情が浮かんでいた。だが次の瞬間、その顔は再び恐怖に染まることとなる。
チリーン
日が昇り、木々の隙間から光が差し込む。森の近くにある井戸で水を汲むためにやってきた数人の村人が森の出入口付近に人が倒れているのを見つけた。近づいてみるとそれは二日前の朝、森に入ると言って宿を出発した姿を最後に行方がわからなくなっていた旅人たちだった。
村の宿へと運び込まれた彼らが目を覚ましたのはそれから三日後のことだった。不思議なことに行方不明だった二日間何があったのか誰も明確に覚えているものはいなかった。そんな状態でただ一つ彼ら全員がうっすらとだが覚えていると口にしたことがある。
『霧の中で妖しく光る二つの瞳』そして『森の中に響き渡る奇妙な音』
彼らが体験した出来事は瞬く間に村中に広まり、それは不思議な森の噂となって世界中に広がっていった。やがてその噂を耳にした名のある冒険家や研究者、ある国の調査隊など様々な人がその村に足を運んだ。また森に入るとはいかなくとも一目みようと大勢の観光客が押し寄せ村は今までにないほど賑わい、活気にあふれていた。しかしその森に入った半数以上の人は森の中ほどまでいったところで気分の悪くなるものや突然寒気に襲われるものが出たため、これ以上進むのは危険だと引き返すことを決断した。しかし中にはそんな危険を冒してまで奥に進んだ者もいた。そんな彼らは数日後三人の旅人が倒れていた場所で発見され、あの旅人たちと同じように口を揃えて証言をしたのだ。
「突然霧が発生した。」
「赤い目と目があった。」
「奇妙な音を聞いた。」
「「あの森の奥には絶対に入ってはいけない。」」
そう言った彼らの首筋には二本のキバのようなもので噛み付かれたような跡がうっすらと残っていた。
今ではその森を訪れるものは誰もいない。村には以前の静けさだけが残されている。