Lv.1-3 風紀委員会
「着ていいよ。目立つからね」
「えっ、いや……ありがとうございます……」
彼は遠慮しようとしたが、自分の恰好を見て考えを改めたようだ。彼がジャージを着たので、僕は「行こう」と促した。頷いて歩き出す。歩き始めてから三十秒ほどしたとき、彼は急に立ち止まった。そして数歩先に進んでから振り返った僕を見つめて頭を下げた。
「助けてくれてありがとうございました」
「いや……。君が無事でよかったよ」
ちなみに彼はネクタイの色が臙脂色なので僕と同じ学年。二年生だ。僕はそれが分かるけれど、彼は体操着姿の僕が何年生なのか分からないから敬語を使うのだろう。
なぜか彼は一瞬不思議そうな顔をして、自分の名前を名乗った。日滝楓というそうだ。可愛らしい外見に可愛らしい名前がよく合っていると思う。
「僕は赤司。同い年だよ」
こんなときに立ち話も何なので、僕はまた前を向いて足を動かした。
「僕、三組なんだ。赤司くんは?」
「五組だよ」
「五組……」
何かを考えているような微妙な沈黙。やや俯き気味だった日滝は、また顔を上げて違う話題を提供してくれた。
「赤司くんは綺麗な赤毛をしてるんだね」
「そうかなあ? 髪が赤いから赤司っていうんだ」
「あはは、覚えやすいね」
日滝は艶のある黒い髪をしている。肌は日を浴びたこともないように白く、やや厚めの唇は真っ赤に熟れた林檎のようだ。星空の瞳は黒々としながらも美しく輝いている。白雪姫の男性版といった感じか。女子よりも可愛いけれど、手の形や靴のサイズを見るとやはり男だ。それでも靴は小さい方なので、女装したら分からないだろうが。
「僕よりは君の方がずっと綺麗だけどね。髪だけじゃなくて、何か色々」
「えっ……あ、ありがとう」
顔を赤くして右手で口元を隠す日滝。想像していた反応と違った。彼は少女と見紛うほどの美少年。「可愛い」や「綺麗」という、男にとってはあまり褒め言葉ではない表現にも慣れていると思っていたのだが。
「でも、そんなことないよ。赤司くんは勇気があるし……」
「勇気と無謀は違うと思うけどなぁ。僕のは無謀だけど、日滝が僕を見たときに首を振って逃げろって伝えたのは勇気じゃないかな」
日滝があの小さな隙間から一瞬だけ見た僕は、背が低いか高いかなんて分からなかっただろう。日滝にとって、扉の向こうにいるのは体格のいい運動部かもしれないし、はたまた教師かもしれなかった。それでも、僕が僕であった可能性も考えて、あの馬鹿二人に気付かれないように拒絶した。僕には分かるはずもない大きな恐怖の中で。
「それはとてもすごいことだよ」
横は見なかったから表情は分からないけれど、日滝は口を閉ざした。
そうやって話をしているうちに、風紀委員会と書かれた部屋の前にたどり着いた。第三棟の最上階だ。腕時計を見ると、今は十二時半だった。五十分から五時間目が始まる。恐らく走れば間に合うだろう。初日から遅刻はいかがなものかと思う。
「着いたね」
「うん……」
「ジャージを脱いで見せたら信じないわけにはいかないと思うよ。じゃあ、僕は行くね」
「あ、ま、待って!」
踵を返したところで右の手首を掴まれる。振り返ると、日滝は俯いて握る手の力を強めた。
「あの……」
「うん?」
「一緒に、来てほしいんだ」
「いや……いいよ僕は」
風紀委員会はこれから僕に沢山注意をしなければならない人たちだ。彼らにとって僕はただでさえ問題児だろうから、なるべく接点は少なくありたいのだ。
「お願い……」
しかし紅顔の美少年に手を両手で握られ、涙で潤んだ瞳で縋るように訴えられると、その手を冷たく振り払うことはできなかった。足元にすり寄ってくる子猫を蹴とばすようなものだ。そんなの人間じゃない。
「分かったよ」
困りながらも日滝を安心させるために笑みを浮かべる。すると彼は心の底から安堵したかのようにほっと息を吐いた。一人では行きたくなかったのかもしれない。警察に申告する強姦被害者は少ないということと同じだろうか。
日滝は僕の手を握ったままドアをノックした。中から「入れ」という声がかけられる。日滝はドアを開けて「失礼します」と言ってから足を踏み入れた。
風紀委員会には人が三人ほどいた。六人掛けの机を二つ並べて、向かい合って十二人が座れるようにした机がある。その一番奥にさらにデスクを置いて、入り口を正面に捉えることができる十三人目のお誕生日席に一人。右側には三人掛けのソファが二つ向かい合って配置されており、そこのソファに一人ずつ座っている。これで合計三人だ。
「日滝?」
「日滝さんだ」
ソファに座っている人たちは一年生と三年生。この学園の高等部は全学年四百五十人ほど。高校にしては少ないかもしれないが、それでも日滝は他の学年の人にまで顔を知られているのか。
「有名人なの?」
日滝の顔を覗き込んで聞くと、彼はぶんぶんと首を振って否定した。
「ち、違うよ! 初等部から一緒の人が多いから、大体みんな分かるだけで……」
「そうなんだ。いいね」
友達が多いのはいいことだ。十八歳未満の非力な子どもにとって、友達との縁はかけがえのない防衛手段であるし、十八歳を超えたとしても、それは効力をなくすどころか良い家族と並ぶほど大きなセーフティネットになる。
ソファにいた二人が立ち上がった。
「まあ座れよ。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「あ、じゃあ紅茶で……。ありがとうございます」
「隣のお前は?」
「紅茶がいいです」
仕方なく笑って答えた。水でいいのだが、それだと僕をいじめているみたいで彼らが嫌だろうし、ならば日滝のついでに淹れられる紅茶がいい。
日滝に手を引かれてソファに向かい、隣に座らされる。彼はいつまで僕の別に手を握っているつもりだろう。安心感を得るためなら全く無償で貸し出してもいいけれど、逃げないように掴んでいるのなら杞憂だ。
二人が給湯室のような場所から戻ってくると、お誕生日席にいた三年生もこちらにやってきた。お誕生日席の三年生は僕たちの向かいに座り、あとの二人はカップを置いたら長机の椅子に座った。三対二で威圧感を与えないためだろうか。もしくは興味がないとか。まあどちらでもいい。興味がないのは僕の方だ。
「どうした、日滝」
その三年生は黒髪に鋭い黒の瞳をしている。それに鼻梁の高い精悍な顔立ち。百八十センチ後半だろう高い背丈と、服の上からでも分かる、運動部のように無駄な贅肉のそぎ落とされた体つきをしている。存在感のある美形――いや、来と同じで美形よりも男前という言葉の方が似合うか。動物に例えたら黒いライオンだ。明らかに人間的強者。もし僕が二年分歳を取っても、絶対にこんな威圧感は身につかない。これでお金持ちだというのだから、世の中はつくづく不公平だ。しかしやはり風貌でいうのなら、彼よりも僕の弟の方がかっこいいと思う。
「委員長、あの……」
日滝は視線を彷徨わせている。風紀委員会室にいる委員長、つまり風紀委員長。朝、木崎先生が言っていた。来の兄だと。なるほど、確かに雰囲気を含めて色々と似ている。二人とも迫力があるため、並んで立つ姿は壮観だろう。
「あの、ついさっき…………襲われてしまって」
蚊の鳴くような声で言った日滝。ジャージを脱いだ下に現れたボロボロのシャツに、委員長は眉を顰めた。
「南原はどうした」
「……僕が油断して、一人で出てきてしまいました」
「そうか。相手の名前は分かるか?」
「いえ……ネクタイもしてなかったし、顔もぼんやりとしか……」
「森、タブレットに全員の顔を出せ」
「了解」
長机の椅子に座る三年生が、机の真ん中にあるタブレットに手を伸ばした。
「よくここまで来たな。お前のおかげで未来の被害者が救われる」
委員長はまっすぐ日滝を見て言った。真摯な瞳だ。日滝を肯定してくれているかのような安心感がある。この人はいい人だ。日滝は少し泣きそうな顔をして頷いたが、ちらりと僕を見て顔を引き締めた。何だろう、この場面に僕の介入する隙はないのだが。
「委員長にお願いがあって来ました」
「何だ」
「赤司くんを守ってほしいです」
「……ええ?」
全然意味の分からない展開に呆れた。「大丈夫です」と言い逃げしようと立ち上がったが、それ以上は動けなかった。日滝の手が僕の手をしっかり握って離さないからだ。振り払えないほどではないと思うが、日滝はもう僕の名前を出してしまったし、どうしたものか。
委員会室に入ってきたときから、委員長は話があるのは日滝だと分かっていたのだろう。時折僕の方に視線を送りつつも、その目は基本的には日滝を捉えていた。しかし今、委員長は日滝の言葉を受けてじっと僕を見つめた。冷汗が浮かぶ。僕には庇護などもったいないし必要ない。
「赤司か。初めて見る顔だな」
委員長の顔には敵意もなければ善意もない。しかしその言葉には、「お前は誰だ」という誰何が込められている。それもそうだろう。日滝の言うように初等部から一緒なら、一度も見覚えのない生徒などあまりいないはずだ。それも僕のように、目立つ赤毛の生徒ならなおさらのこと。
「赤司くんが僕を助けてくれたんです。もしかしたら復讐みたいな感じで、次は赤司くんが危ないかも……!」
なるほど、そういう考えだったのか。ありがたいが、大丈夫だから手を放して逃げさせてほしい。僕の焦りを煽るように予鈴が鳴った。
僕はどうしようかと思考を巡らせる。あのタブレットで表示できる情報が、名前と顔写真だけとは考えにくい。恐らく学年やクラスくらいまでは表示されるだろう。もしかしたら同室者や兄弟関係、備考まで。逃げたとしても調べられるし、どうせこのままでは遅刻だ。下手な嘘をついて遅刻するよりは、公の証拠とともに欠席した方が好ましい気もする。
「落ち着け。とにかく座れ」
そう言ってコーヒーを手に取る委員長。日滝は心配そうな顔で僕を見上げている。僕はいくつかの憶測の結果、知らないうちにことが運ぶよりは、少しでも介入して都合のいいようにする方がましだと判断して座った。