Lv.1-2 遭遇・日滝楓
「そろそろ行きましょうか」
「はい」
予鈴が鳴るまでには、何人かの先生が職員室を後にしていた。廊下を歩いていると、木崎先生が「そういえば」と思い出したように口を開いた。
「もう泰良くんとは会われましたか?」
「会ってないです。なるべく会いたくないので、その話は誰もしないでほしいです」
「……仲が悪いんですか?」
「何と言うか……僕がこんな体格なこともあって、弟にはよく心配をかけるので」
「ならなおさら会った方がいいとは思いますが……。分かりました」
木崎先生は不思議そうにしながらも納得してくれた。柔軟な姿勢の先生でよかった。どうせいずれ気付かれるのだから、それまでは会わずにいたい。
泰良とは僕の弟のことだ。弟は去年からこの学園に通っている。僕は弟を騙すような形で――いや、正真正銘騙して入学させた。そして今年、父がしばらく海外に単身赴任するというので、僕も全寮制の有峰学園に入ることにしたのだ。母は一人で大変だろう。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
「みんなの反応が楽しみですね」
学生のように楽しそうな木崎先生は、意外とお茶目なのかもしれない。
しばらく木崎先生と廊下を歩いていたが、僕は困ったことに気付いた。
「木崎先生」
「何ですか?」
「僕、遠回りして行ってもいいですか?」
「なるほど。では一年生の廊下を通って、外の階段を上がりましょうか」
先生はすぐに察して、文句も言わずに道を変えてくれた。いい人だ。顔も来ほどのイケメンではないが、たれ目がちで優しい感じがする。そして実際に優しい。ここが女子高だったらモテモテだ。
教室に向かって急いでいる人たちは、僕たちを見ると目を大きくして少し速度を緩める。彼らはネクタイの色が深緑色だ。僕は臙脂色ので、学年によって色が違うのだろう。なるべく教室の中を見ないように、ずっと前を向いて歩いていた。
外の階段を上って、木崎先生は屋内へのドアの取っ手に手をかける。
「赤司くんはここで待っていてくださいね」
僕に踊り場で待つように言って、木崎先生はドアを開けて入っていった。僕は踊り場から見える豊かな自然を眺めながら、こういうのは普通、教室のドアの前で待つものではないのだろうかと考えた。まあ何となく予想はつく気もする。教室のドアの前に立ったら、多分廊下側にいる生徒は窓から僕の姿が見える。木崎先生はクラスメイトを驚かそうと、僕を姿の見えない外の踊り場で待機させているのだ。残念ながら、僕には面白いことなんてできないのだけれど。
本鈴から二、三分すると、木崎先生がひょこっと顔を出して「赤司くんどうぞ」と呼ばれた。ドアを開けて屋内に入ると、まず廊下側の席の人と目が合う。驚かれる。僕はぐっとこぶしを握って気を引き締める。目立つのはあまり好きではないが、この格好をしている限り仕方のないことだ。それでも僕は自己満足のためにこの姿でいることをやめない。
教室に足を踏み入れると少し空気が揺れた。ざわざわと、小声で雑談してもいいような雰囲気になる。
「では自己紹介をお願いします」
「はい」
視線から逃れるように僕も視線を彷徨わせていると、少し後ろの方に来の姿を見つけた。じっと僕を見ている。見知った顔があると安心感が違う。
「初めまして、赤司です。よろしくお願いします」
無難に終わらせようとすると、横から木崎先生がにこにこしながら「趣味とか教えてください」と言った。転校生の天敵だな。大っぴらに言える趣味はあまりないので、せめて特技を聞いてくれたらよかったのに。
「掃除するのは好きです。記憶力はいい方なので、今日中にこのクラスの人の顔を覚えようと思います」
「好きな食べ物は何ですか?」
先生は続けて質問してくる。
「鶏肉が安くて好きです」
「好きな水泳の泳ぎ方は?」
「泳げないけどクロールです」
「好きな教科を教えてください」
「社会科です」
泳ぎ方とか誰も興味ないと思う。困っていると、生徒が見かねたように声を上げた。
「先生、困ってるよー!」
「ああ、すみません。楽しみにしていたのでつい」
「なあ、何で女の恰好してんの?」
生徒が尋ねてきた。来に言ったような説明をしてもいいのだが、さすがにクラス全員にシスコンと思われるのは気が引ける。
「うーん……僕の家系は男子が病弱なことが多くて。僕もこんなに小柄だから、女装して病気を騙そうっていう魔除けかな」
中世ヨーロッパではそういう風習があったと聞いたことがある。学園の生徒の大半は、跡継ぎとして長男を大切にする文化の中で育った御曹司たちだ。僕はいかにも貧弱であるし、きっと納得してくれるだろう。嘘も方便だ。
「席は向こうの空いているところですね」
真ん中の後ろから二番目。来の斜め前だ。席に座ると教室がとてもよく見えた。このクラスは僕を合わせて三十人しかいない。確か去年見たパンフレットでは、一般的な高校よりも少人数のクラスにすることでいわゆる落ちこぼれを生んでしまうのを防ぐとか、担任の先生の負担が減るので一層生徒に目をかけられるようになるとか、そういうことが書いてあった。
一時間目の授業は数学だったので、始まるまでの時間に何人かのクラスメイトと話をした。移動教室は親切な人が場所を教えてくれた。昼は……。
「えーっと、赤司くん? 俺と学食行かない?」
「……ありがとう。でも友達と約束してるんだ」
何だか軽薄そうな人に声をかけられたので、断って教室を出た。彼は狭山くんだったか。僕を見下した目をしながらも、薄く笑みを浮かべて友好の言葉を投げかけてくる。彼は来の言っていた、この学園の典型的な生徒だろうか。女の恰好をしているのだから軽くやれるだろうみたいな。気づいていながら誘いに乗るほど僕は軽率ではない。自意識過剰だったら恥ずかしすぎて死にたい。
お昼の後だというのに次の授業は体育だ。僕は教室を出る際、体操着と昼食のパンを持ってきた。トイレの個室で着替えてから昇降口へと向かう。グラウンドで遊んでいる人たちでも見ながら食べよう。そう思いながら歩いていたのだが。
「……あれ?」
なぜか謎の花壇へ来てしまった。花壇と言うとお粗末に聞こえるが、小学校みたいにベゴニアばかり植えられているわけではない。大体は緑の葉ばかりだが、隅の方では大輪の華奢な花が咲いている。淡いけれど決して薄くはない桃色のそれは、僕の握りこぶしと同じかそれ以上の大きさを誇っている。
純粋な美しさは、卒業式のアーチに付ける作り物の花の上位互換のようだ。綺麗なものには大抵人の手が加えられている。花壇の横には桜の木があり、向こうには温室がある。こんな施設、地図には載っていなかったが。
とりあえず第四棟にまで戻って、そこに人がいるようなら場所を聞こうと、僕は再び足を動かした。五分ほどかけて第四棟に戻る。ここには授業では使わないような専門的な機械が置いてある研究室もあるが、主に文化系の部活動の部室が置かれている。昼休みということでか、人影はなかった。
通り抜けて反対側から出ようと歩いていると、少し向こう側の教室からガタンと音がした。僕はつい立ち止まったが、それ以上は何も聞こえてこない。第四棟の教室は他と違って窓がないため中の様子は分からない。通り過ぎようとも思ったが何となく嫌な感じの方が勝って、僕はドアをほんの数ミリほど開けて覗いた。
「んんっ、や、やだ……っ」
「嘘つくなよ。もうこんなんなってるのに」
「指入れるぞ」
正直なところ、うわぁ、と思った。一生遭遇したくない場面に、さっそく出会ってしまった。
小柄で可愛い顔をした生徒が、二人の生徒にべたべたと触られている。小柄な生徒の方はほぼ裸で、息を荒げながらも嫌だ嫌だと繰り返している。ふと、その生徒と目が合った。生徒は目を丸くして驚きを表し、そして首を大きく左右に振る。
泣いているじゃないか。それに怯えている。
すっと頭が冴える感じがした。大変なときほど誰も助けてはくれないものだ。それは忙しいからとか、法律的に不可能だとか、もしくは単に面倒臭いとか、気付かなかったとか、こちらの痛みを甘く見ているとか。寂しい気もするけれど、僕はそれが真実だと思っている。そして同時に、人間というものに高い理想を抱いている。
僕は立ち上がって来た道を戻る。壁にあった小さな扉を開けて中から消火器を取り出し、黄色いピンを抜く。そしてヘアゴムを外して腕に通し、ウィッグがずれないように止めていたヘアピンをすべて外すと、無造作にウィッグを鞄へ入れた。ウィッグというものはどうしても蒸れて暑い。僕は熱気を飛ばすように頭を振って、手で髪を整える。
もう一度ドアの前に戻って中を確認する。机や椅子は木製ではなく、スチールか何かで作られた会議用のものだ。小柄な生徒の服は多少散らばっていて危ないが、消火器には強化液消火器と書いてあるから頑張ってもらおう。普通の消化器よりも放射時間が長いと中学校で習った覚えがある。
僕はカーディガンを筒状に丸め、ヘアゴムでそれを固定する。そして鞄からライターを取って、カーディガンに火をつけた。簡単には消えないように数秒の間待つ。炎の熱を感じる。人間は火というものに対して畏敬の念を抱くのではないかと僕は思う。僕はこの熱が恐ろしいし一刻も早く手放したいけれど、人の歴史は火とともにある。決して手放すことはできないのだから、今回のように上手に付き合っていくべきだ。
すうっと息を吸うと、僕はドアを三十センチほど開き、彼らの足元に向けて燃えるカーディガンを投げ入れた。迅速にドアを閉め、少しドアから離れて消火器のグリップを握る。
「うわっ!」
「何だこれ!? 誰だよ!? つーか早く消せ!」
三十秒ほど時間があったことから、彼らは無駄なあがきをしたようだ。身なりを整える時間でもあったのだろうが。荒々しくドアが開いて二人の男子生徒が出てきた。目が合う。彼らは少し固まって、それから眉を吊り上げた。僕は彼らが口を開くのを待たずに、少し笑って彼らの顔面に目がけて消火器の煙を発射した。
「うっ……!」
「いってぇ! 何だ……ごほっごほっ」
彼らが後ずさりしてドアから離れたので、僕はすかさず中に入り込んでドアを閉め、鍵をかけた。締め出された生徒は非難の声を上げながらドアを叩いたり開けようと試みたりしている。ドアに背を預けていたため、僕は背中に振動を感じながら、小柄な生徒と向かい合った。乱れた格好にも関わらず、それを直すこともできず呆然としている。
「人を呼んだよ。あと五分くらいで来てくれるって」
僕はドアにもたれたまま、背後に向かってそう言った。するとドアという障害物を除こうとする動きは一旦止まる。
「覚えてろよてめぇ!」
「クソが!」
蹴りだろうか。より強い衝撃を背中に感じたが、それが最後だった。走り去っていく足音が聞こえた。僕はため息をついて消火器を握り直し、カーディガンに向けて煙を放った。まだじっと僕を見ている小柄な生徒を横目で見て、服はあるか尋ねた。彼ははっとした様子で「う、うん」と返事をし、焦ったように散らばった服をかき集めて身に着けた。
火は無事に消すことができたので、中途半端に燃えたカーディガンと中途半端に使った消火器は、窓から外に投げ捨てておいた。消火器の煙がついている気がして、僕は自分の服やズボンをはたく。それからすっかり着替えて縮こまっている生徒に向かって微笑んだ。
「風紀委員会に行けばいいのかな? それとも職員室? 何もなかったことにしてもいいんだけど」
「あっ……えっと…………行きます。風紀委員会に」
「そっか」
僕は外に出てから「どこだっけ?」と聞いた。行くかどうかを問いながらも、道はまだ覚えていなかったりする。地図自体は覚えているのだが、やはり実際に歩いてみるのとは別だ。おかげでこんな事態に出くわした。
「あっち……」
彼が示したのは第三棟の方向。理科室や音楽室など移動教室のときに使う教室があるところだ。風紀委員会はそんなところにあるのか、もしくは第三棟も通り越すのか。まあついていけば分かることだ。