鈴蘭通り
2月28日、東京は晴れでF市も夜明けに冷たい小雨降ったきりだった。多くの人々が後になって思い返すのも難しい程に凡庸にその日を過ごし、またある人々にとってはその日は特別だった。華やかに祝福された人々もいたが、絶望の底の底に墜とされた人々もいた。勿論、凡庸の中にいて、しかしその日を後になっても忘れ得ぬ人々もいた。ある一つの日はその日ばかりではないが為であり、思い、重なり合えばなおの事であった。
塩澤克己はその日の午後、伊藤侑香と下校していた。克典の通うT高校の商業科は偏差値は大したものではなかったが、諸資格の取得と年中行われる職業研修等の単位認定はかなり厳しく、同じT高校の普通科の学生のように放課後部活動に勤しむという事は不可能であり、結果的に研修も補習も、ほぼ拒否できない自主参加講習も予備校も無い日の放課後は部室に顔を出す事もなく、六限を終えるとさっさとバスで直帰するのが常であった。
今月は燻製肉工場での研修があったが、今年で商業科の三年に上がる克己は経験上研修は1日の研修時間を短時間で希望を出すより、制限ギリギリの長時間研修で希望を出した方がトータルの拘束時間が大幅に少ない事を嫌という程、知っていたので、他の多くの商業科学生と同様にキツい長時間研修の希望を出し、実習単位取得を早期に済ませ、レポートも再提出を食らわない程度に無難に済ませた。おかげでこの月末の平日の放課後、予備校の無い日の克己は普通科の帰宅部の学生と変わらない気楽な身分となっていた。
「克己くん、たい焼き買おうよぉ、あたしここのたい焼き子供の時から好きなんだぁ」
腕を組みながら侑香が猫撫で声で言ってきた。侑香は福祉科の一年で商業科程ではないがやはり研修は多く部活に積極的に時間を割く事はなく、今は資格取得の座学の多い時期であった為、予備校が無ければ放課後取り敢えず直帰は出来た。
「たい焼き、いいね。久し振りだ」
「やったっ!」
同意すると、侑香は克己の腕を引っ張るようにして近くのバス停から見て、鈴蘭通りの入り口の辺りにあるたい焼き屋、川野屋に向かわせた。
克己はできれば平日の鈴蘭通りを使うのは避けたかった。通りを抜けた先の坂を上がるとこの近辺の住宅街で育った多くの者が通う都立のF高校があり、鈴蘭商店街の外れにある鈴蘭通りはF高校の学生の通学路であった。バス移動の時間がある分、F高校の部活に参加しない学生の下校時間とはズレていたが、鈴蘭通りを使うと自然とF高校の学生達と擦れ違う事になる。
F高校はやや偏差値が高い事もあり風紀は安定しており、F高校の男子学生に絡まれるという事はまず無かったが、克己の出身中学の者が多く通う高校である為、むやみに知り合いに会ってやり取りするのが面倒だったのと、昨年の10月の半ば頃まで付き合っていた石岡千草がF高校に通っているからであった。
「あんこと、侑香は?」
「カスタードっ」
侑香は顔を少し上気させて答えた。千草と入れ違いになるようにして克己と交際する事になった侑香はこの鈴蘭通りを通って二人で下校する事に拘りがあり、なんならこの通りで千草と遭遇する機会を待っていた。特別侑香は当たりの強い性格ではなかったが、自分達がこそこそ逃げ回るようにして鈴蘭通りを避けて下校するというのは我慢ならなかった。
「毎度あり。二人、仲良くね」
「どうも」
「またねっ、おばちゃんっ!」
それぞれのたい焼きを川野屋で買って、二人は食べながら鈴蘭通りを歩いていった。と、通りの先の文房具屋の前を石岡千草と池尾健二郎が歩いてくるのが見えた。
「わ、来た」
カスタードのたい焼きを手に思わず声に出してまった侑香は克己に振り向かれると慌てて克己から目を逸らしつつ、持っていた克己の腕に強く体を寄せた。
「千草だな」
克己は立ち止まったまま呟き、まだ気付かずこちらに歩いてくる千草を見詰めた。同じ街に住んでいても、別れてから直に見るのは初めてだった。
「隣の人、今カレだよ、きっと」
早口で言う侑香。仕切りにカスタードのたい焼きをかじっていた。小学生の時に少しイジメられていたという侑香はあまりプレッシャーに強い方ではなかった。
「あれは池尾健二郎ってやつだ。あんな感じだったかな?」
健二郎も保育園の頃から知っているはずだが、その頃の印象は特に無く、小学生の頃も小柄で算盤と卓球を習っているくらいの事しか知らなかった。だが、中学に上がり、算盤と卓球を辞め、ソフトテニス部に入ると急激に身長が伸び、土居哲也達の派手なグループに入ると人が変わり、学校では常に目立っていた。今、千草と共にこちらに歩いてくる健二郎にはその面影は無く、髪を短く刈り、学ランの上に地味なダッフルコートを着て、体も鍛え直したようだった。
「立ってると変だよ」
「ああ」
侑香に促され、克己は歩き出した。少し緊張して、侑香と腕を組んでいない、スクールバッグを肩に掛けた方の手に持っていた食べかけのたい焼きをそれ以上かじれずにいた。余裕ぶってかじるのは反って滑稽に見えるような気もした。
10メートルも歩かない内に千草達も健二郎達に気付いた。千草は二人に気付くと健二郎と話すのやめて歩きながらまず侑香を見詰め、それから克己を見詰め、そのまま目を離さなかった。強く見ているワケではなく、ふとした時に鏡か何かを見詰めるような、自分の内側を見るような眼差しだった。
健二郎は侑香の事もチラリとら見たが、すぐにかなり緊張した顔で克己を見詰め、間を置かずに軽く片手を上げて合図してきた。克己も軽く片手を上げて応える。健二郎とは中学時代もそれ以前も、親しく話した事も何か揉めた事も、一切無かった。こうして千草と合わせて二人で現れるまで、克己の中では顔も名前も忘れた人間だった。
二組は文房具屋と川野屋のちょうど中間辺りにある喫茶ぶらじる、の前で向かい合う形になった。
「塩澤、久し振り。中学以来か?」
「何回か見掛けた事はあったけど」
意識して見た事はなく、正直、地味で精悍な様子に変わったこの男が健二郎だとついさっきまで思い至らなかった。
「元気? 克己」
千草が言うと、相変わらず地声が低いと思い、克己は少し笑みを浮かべた。
「元気だよ。職業研修ばっかりでうんざりしてるけどさ」
「まともに授業組んでくれてるんだからいいことだよ。ウチは受験受験だもんね?」
「うん、そう。ま、ね」
健二郎は切り出し方に戸惑っているようだった。
「新しい彼氏さんですか?」
新しい、と付け加える必要は無かった。侑香は自分の意外な攻撃性に、自分で混乱してしまった。四人で立ち止まったまま沈黙し出すと、侑香はカスタードのたい焼きと克己の腕を持ったまま泣き出した。
「ごめんなさいっ」
「侑香」
「あ、いいっていいってっ! そうなんだ。先月から俺達付き合い始めたんだよ。そうそうっ」
男達は慌てて侑香を気遣ったが、千草は度量のある顔で侑香に優しく声を掛けるにはいやらしい気がして、ただ眉を寄せ、泣き続ける侑香を見ていた。克己は侑香に話し掛けつつそんな千草の変わらないやや不器用な対応を懐かしく思っていた。
例えば夏の日、
去年の町内会主催の盆踊りに行った夜。公民館の横にあるグラウンドを使った花火が上がるワケでもない簡素なものだったが、浴衣を着た克己と千草はそれなりに楽しみ、千草は飼うの大変だと克己に忠告されても金魚を二尾掬って水と一緒にビニール袋に詰めてもらって機嫌良くそれをぶら提げて帰り道を歩いていた。
その後ろから子供数人の笑い声が、走る足音と「気を付けなさいよっ!」という母親らしい声と共に近付いてきた。千草は金魚につける名前をムーミンの童話からつけるか、それとも古本屋で見付けてハマったという犬夜叉からつけるかと、夢中で話していたが、克己は何気に振り返った。
兄と弟らしい浴衣を着た二人の子供がかき氷のカップを持ったまま、ロクに前を見ずに何かふざけて笑い合いながら千草の方に走り込んできていた。
「危ないっ!」
「何っ?」
千草は振り返り、
「えっ?」
兄弟の兄の方は克己の声に気付いて立ち止まったが、弟の方はそのまま千草にぶつかり、かき氷を千草の浴衣の腰の辺りにぶちまけた。
「わっ?!」
弟は驚いて千草を見上げ、千草はすぐに事態を理解して、その子供の次の言葉を待ったが、弟はただただ千草を見上げるばかりだった。
「ウチの子が、すいません!」
母親が大声で言って浴衣で駆けてきて、その夫らしい男もやや遅れて速足で歩いてきた。夫は何か言い掛けたがその前に財布を取り出した母親が捲し立ててきた。
「クリーニング代っ、お支払い致します!」
「結構です。それよりこの子は謝っていません。ちゃんと謝らせて下さい」
千草は真顔で答え、母親を唖然とさせた。克己は最初の対応の時点でマズいと思ったが、母親の反応から、これは地雷タイプだと思った。
「千草」
克己は千草の腕に触れたが、既に興奮しているらしい千草にその手を振り払われた。
「この子が、謝るべきです」
念押す千草。母親と千草を交互に見比べていた弟は声を上げて泣き出した。
「君、泣いてもダメ。自分がした事に責任を取りなさい」
千草は真顔で続けたが、子供は泣くばかりで、母親の方は一気に顔を紅潮させた。
「何なのっ?! ウチの子が泣いてるじゃないっ! 子供が走るのは当たり前でしょう?! 偉そうにっ! あなた高校生よね?! 何様なのっ!!」
「言ってる意味がわかりません。子供でも、あなたの子供でも悪い事は悪いです。私が高校生だろうが社会人だろうが関係ありません。あなた、それでも母親ですか?」
「何だよお前ッ!!!」
母親は千草に掴み掛かろうとして夫に羽交い締めにされるようにして止められた。
「よしなさいってっ」
弟だけでなく、傍でオロオロしていた兄まで泣き出した。
「千草っ、もういいから、行こうっ」
克己は両手で千草の肩を持って立ち去ろうとした。
「何がいいの?! 何もよくないよっ! 克己っ、離してっ」
「失礼します。クリーニング代、結構ですからっ」
「待てよっ! おいっ、逃げんのかよっ! ガキっ! 大人舐めんなよっ!! このっ」
子供達が泣き続ける中、母親は夫に押さえられたまま口汚く大声で克己に強引に連れられてゆく千草を罵り続けていた。
その場を離れ、公民館近くの橋の手前まできていた。盆踊り会場で流れている祭り囃子が遠くに聴こえ、川の岸辺に生い茂る草々からは虫の鳴き声が響いていた。昼間、日差しに焼かれた草いきれの臭いと、川の水と泥と藻の臭いが濃厚だった。
「もういいから離してっ! 痛いっ」
「あっ、悪い」
克己はずっと持っていた肩を離し、巾着からミニタオルを取り出して差し出した。
「ありがと、でもさっ」
タオルを受け取ってかき氷で濡らされた辺りを拭き押さえながら、千草は改めて反論しようとしたが、克己が疲れた顔で自分を見ているのに気付いて顔を逸らした。涙が出そうだった。
「私が悪い?」
「悪くない。でも言い方があるし、相手を見た方がいい。ダメそうな人は金だけもらってほっとけばいい」
「でも子供はっ」
「あの子もいつか自分で考えるさ」
克己が少し強くそう言うと、千草は目を見開き、俯いた。涙が溢れる。克己は言い過ぎたと、何か言葉を掛けようとしたが、不意に千草に金魚の入ったビニール袋を押し付けてきた。袋が破けそうで、克己は慌てて受け取った。
「ちょっ? ええっ?」
「今、持って帰ったら殺してしまいそう。克己が育てて。一人で帰るからっ」
千草は橋へ大股で歩き出した。
「千草っ、送るって!」
「一人で帰るからっ! 来ないでっ」
千草は橋から叫び、歩き去って行った。
克己は金魚入りのビニール袋を手に途方に暮れた。橋を通らないと克己は随分遠回りする事になるが、少し待ったとしても自分も橋を渡ると後を追うようで間抜けに思えた。かと行ってすぐに追っても今の千草は手が付けられないと幼馴染みでもある克己にはよくわかっており、その場に立ち尽くすしかなかった。
克己は大きくため息をついた。千草といるとこんな事がしばしばある。わかってて付き合い始めたし、こうして八つ当たりしてくる事自体が甘えているんだという事もわかっていたが、酷く疲れ、何より千草の行動に嫌気を感じている自分に落胆した。幼馴染みである事に過信し過ぎていた。
「お前達、どうするよ?」
克己は押し付けられた金魚入りのビニール袋を顔の前まで掲げてみた。水の入った狭いビニール袋の中で、二尾の金魚達は息苦しそうに酸素を求め、小さな口をパクパクとさせていて、見ようによっては二尾が不毛な議論を闘わせているようだった。
喫茶ぶらじるの四人掛け席で、千草達四人は向かい合って座っていた。F高校が近過ぎる為、平日の放課後、千草と健二郎がぶらじるに寄る事はまず無かったが、状況が状況だった。侑香は泣き止んだが、T校指定のコートを脱ぐの忘れたまま席に着き、ホットレモネードをしきりに飲んでいた。直接会ったのは初めてだったが、こんな落ち着きのない、面倒そうな娘だとは知らなかった。自分と別れて、この侑香という甘ったれた様子の娘を選ぶのか? どう解釈すればいいのか? 千草は釈然としなかったが、もう自分の範囲ではない。
侑香の隣で気まずそうにしている克己はホットコーヒーを、自分の隣でさっきから誰も聞いていないのに中学の頃は自分が子分のような事をしていた土居哲也が今は神奈川の美術科の高校を中退して煙草風の脱法ドラッグの売人をしていて、曰く、あいつはもうオシマイだ。中学を出てすぐに距離を置いて正解だったといった話を延々としている健二郎はホットココアを頼んでいた。
健二郎のような男は正直苦手で、まだ体も許していないが、土居の生き方を恐れながら常に気にしている様子や、予備校の片手間ながらそれなりに真面目にテニス部に打ち込む様子や、何よりどう考えても釣り合わない自分のような女に何かのリハビリでもするつもりであるかのように交際を申し込んできた事が何だか可愛らしかった。
克己と違って自分と理詰めで議論にならない、幼馴染みである事や処女を奪った事に過大な義務感を持ってもいない、健二郎と付き合っているとふとした時、肩の力が抜けている事を感じる。克己は気付いたろうか? 自分は少し変わったと思う。以前許せなかった事が許せるようになった。
例えばさっきも、以前ならば自分から突っ掛かっておきながら泣き出した侑香を怒鳴り付けていただろう。喫茶店からも一人で身勝手に、健二郎を置いて帰ってしまったかもしれない。今は奇妙なこの状況を少し楽しんでいる自分がいた。
「土居がプッシャー擬きになった話はもういいよ。というか、何で今、それ話す?」
「お、おう。趣味悪かったか。塩澤は今、何部?」
「いきなり部活?」
克己は苦笑した。
「あっ、そっか。いや俺、テニス部だよ」
「まだ続けてたんだ」
「ウチの学校弱いから、融通が利くんだよ、な?」
「まぁ、ね。私はまだ写真部だよ。殆ど部室行かないけど。あなたは?」
千草はホットレモネードを飲み終わりそうになって困っていた侑香に振ってみた。侑香は体をビクリとさせて顔を上げた。
「はいっ! 調理クラブですけど、ウチの専門の学生はあんまり部活行けないんですよっ」
「そうだったね。土日とか自主サークルやってる人達もいるんでしょ?」
「いますけど、あたしはやってないです。土曜日はバイトがあるし」
「へぇ。克己はまだ軽音部?」
「未だにキーボード弾けない」
「ダメじゃんっ!」
千草と克己は笑い合い、釣られて健二郎と侑香も笑った。千草はホットレモンティーを一口飲んでから、ややくだけた風に座り直した。克己は意外に思った。以前の千草なら部屋か人目につかない場所意外では決して見せない仕草だった。
「伊藤さん、バイト何してんの? 塩澤も何かしてんの?」
「お弁当屋さんです」
「俺は普段は職業研修だけでうんざり。だけど冬休みは学校の紹介でいいバイトあったよ。色んな会社の大掃除手伝うんだけど、普通の清掃バイトより断然日給よくて、弁当も特別仕様だった」
「いいねそれっ! ウチの学校、バイトの許可厳しいもんなぁ?」
「成績落ちるとね、無許可バイトは即、停学っ!」
「ええっ? 厳しいんですねぇっ」
「F高はそうだっけかぁ」
「でしょう?」
「バイトの内容の審査も厳しいだぜ?」
しばらく四人はアルバイト談義で和やかに盛り上がっていた。千草はこれが上っ面の会話だとは思ったが、皆で気を遣い合って場を成り立たせている事が今は心地好かった。「そんなの嘘だッ!」と克己に対する叫ぶ程の愛は残念ながらもう持ち合わせておらず、ただ微かな灯火のようなものが奥底に残っているだけだった。
これが少しずつ大人になるという事なのかもしれない、とも思ったが、痛みのやり過ごし方を覚えてしまうというのは少し寂しい気はした。だからこそ、つい会話の切れ目に次のような事を口走ってしまった。
「あ、そうだ。あの金魚元気?」
何気に言った一言で、場は静まった。克己と侑香は顔色を変え、何も知らない健二郎は克己と侑香の反応に戸惑いを見せた。
「あっ! 金魚はねっ、付き合ってた時に祭りで私が掬ったやつ。育てきれないって、克己に押し付けたんだよ、それでね、大丈夫っ。別れてから話を聞かないから、まだ元気かと思ったから、それだけ」
千草は焦って健二郎に説明し、いつも冷静ぶるところがある千草のその様子が珍しく、健二郎は笑ってしまった。
「ふふっ、そうなんだ。で、その金魚、無事かよ? 塩澤」
克己も少し笑ってから答えた。
「二匹とも元気だよ。だいぶ大きくなって、よく見ると、ちょっと気持ち悪いくらいだ」
「魚類ってそうだよな」
男二人は笑い、千草と侑香は互いに目配せした。侑香はその二尾の魚の事を自分はよく見ていると目で伝えようとし、千草はもう自分の物ではないから好きにしたらいいと伝えようとした。
「名前とかあんの?」
カップを取ったが中身がもう無かったので四角いソーサーに置きつつ、健二郎が聞いた。
「無い、二匹とも金魚は金魚だよ。区別もしてない」
克己はそう言って自分のコーヒーを飲み干した。千草は克己は自分といた時より少し柔らかくなった気もした。侑香とは自分のように無駄にかち合う事が無いんだろう。だが、変わらないところもあると思った。
例えば秋の日、
F市立の森林公園はF市西部にある。墓所の多い地域のさらに先にあり、農地にもならなかったエリアで、室町時代辺りまでは山地で暮らす非定住民達のテリトリーであった。今でもその史跡が森林公園内には点在していたが、全て国の管理下に置かれ場所も明示される事は無かった。
正式なアウトドアウェアや装備等、二人とも持ってはいなかったが、初心者向けのコースにしか行かないつもりだったのでとにかく動きやすく、丈夫で肌を露出しない帽子を被った格好をした千草と克己は一応虫除けスプレーを互いに吹き付けて、野原に作られた土の道を延々と歩いていた。 去年の10月の中頃の事であった。
二人の間の不穏な気配はもはや動かし難いものになっていた。連絡も滞りがちであった。一週間会わない週もあり、このままうやむやに自然消滅してしまう事を千草は内心覚悟していた。既に健二郎からはアプローチされていたが、この頃はまるで眼中に無く、からかわれているとさえ思っていた。ただ惨めに、初めての相手との別れ方に困惑し、代わりもいないような幼馴染みを一人失う確実な予感に茫然としていた。
そんな時、克己から電話があった。
「森林公園行かないか? 父さんが仕事でチケットもらってきたんだけど、ウチ、皆行くの面倒がってさ。無駄にするのもなんだし、行こう。千草」
千草にはこれが別れの儀式のようなものなのか? それとももう一度やり直すつもりなのか? 判断はつかなかったが、
「わかった、克己」
千草は答えていた。
整備されているとはいえ、広過ぎるほぼ自然の空間に投げ出されると解放感と合わせて不安にも駆られる。日曜という事もあってそれなりに行楽客がいたが、細長い野原の道の前後の他の客とは100メートル以上離れていた。幸い風は無かったが、広大な景色に対して、自分達の小ささが心許ないと千草は思った。
「弁当はこの先の休憩小屋で食べよう。屋外席もあるみたいだ。自販機もある。ポイ捨ては罰金だってさ」
克己はガイドマップ片手に速足でテキパキと歩いていた。もう少しゆっくり歩いてほしかったが、千草は言えずにいたが、
「雨止んでよかったね」
代わりにどうでもいいと思っている事を千草は口にしていた。昨日の夜半過ぎまで強い雨が振っていた。
「雨で封鎖されてる所も結構あるよ。湿地とか、川の方は。このコースの奥の林道も途中で封鎖だってさ。あ、セグウェイの貸し出しも中止だ」
克己は疲れた様子の千草を振り返らずにガイドマップに挟まれた、お知らせのしおり、という印刷物を読んでいた。もう少し、もう少しだけ自分に元気や勇気があったら「こっちを見て!」と怒鳴って克己を振り向かせ喧嘩も出来るはずなのに、と千草は思ったが、そんな気力は湧いてこず、ただ、
「セグウェイ乗りたかったね」
「だよなぁ」
気の無い会話を続けただけだった。
休憩小屋脇の屋外席はすぐに他の客で埋まった為、二人は屋外席の端のベンチに座り、水筒のお茶や克己が自販機で買ってきたスポーツ飲料を飲みながら千草の作った弁当を食べていた。
「お握り固いから。失敗した」
「ん?」
「三角に握ろうと思ったけど、普段料理しないから上手くいかなくて、丸く握り直したら小っちゃくなって固くなったんだよ」
「ああ、いい。固くてもお握りはお握りだよ。旨い旨い」
克己は握り過ぎて団子のようになったお握りを嬉しそうに食べた。千草はやはりいい男だと思い、同時に自分ではないんだろうとも思い、薄く笑みを浮かべた。わざわざ固いお握りを持ってきている時点で試すようで、克己相手だとどうしても必要以上に互いに誠意や真意を問い合うような事になってしまう。どうしてこんなにいい人なのに疲れるんだろう? 千草は克己に疲労を感じる自分に酷く嫌悪を感じ、またそれを繰り返す事に消耗していた。
奥は封鎖されているらしいが、二人は休憩小屋からさらに進んで林道へと足を踏み入れていた。木々と土、そして朽ちた植物の発酵した臭いが濃厚だった。
「この先は封鎖されてますよ?」
奥から引き返してきた老夫婦の夫が話し掛けてきた。
「行けるとこまで行ってみます」
克己はハッキリと答えた。
「足下、気をつけて」
夫はそう言い、妻と共に去って行った。
「いい夫婦だね」
振り返りながら千草が言った。
「まだ元気だから60代だろう。戦後生まれ、若い頃は高度成長期か。楽しかったんだろうな」
「そのサービス料をウチら孫世代が払っていかないとね」
「親世代がアレだったからなぁ」
二人してボヤき、再び林道の奥へ奥へと歩いて行った。特に目的があったワケでもないが、二人ともムキになっているようなところはあった。
「克己卒業したらどうすんの?」
「専門学校だな。税理士資格取る。初歩的な事務系資格は今の高校でも結構取れるけど。千草は?」
「都庁詰めの役人か、女警察官僚目指す」
克己は吹き出した。
「ははははっ」
「笑うとこじゃないよ?」
「悪い悪い、あんまりそのまんまだからさ」
「私、そんなに複雑じゃないから、皆が思う私で大体合ってるよ」
「そうか」
克己は今日、初めてまともに千草の顔を真っ直ぐ見る形で振り返ってきた。
「千草の事、好きになってよかった」
今すぐ飛び付いてキスしたくなったが、別れの言葉だった。
「大袈裟、だよっ」
千草は涙目を見られたくなくて、俯いて速足で歩いて克己を追い越して行った。
林道は、奥へ進めば進む程、泥道に変わって行った。それでも進んだが、大きな水溜まりが目立ち始め、二人がいよいよ引き返そうかと考え始める頃、林道にロープが張られ、手書きの立て看板で、この先は土砂崩れと倒木で危険です。引き返しましょう。と警告された所までたどり着いた。
「ここまでだな」
「だね」
封鎖された林道の先には色付いた紅葉が多く立ち並んでいた。本来ならこのコースのハイライトとして行楽客を楽しませるゾーンであった。先の林道はほぼ全面水浸しで水路のようにも見えた。紅葉は演出過剰な絵画のように明確な彩りを見せていたが全く人気は無かった。水浸しで専用の靴でもなければ進めそうにはない目の前の景色を千草は薄ら寒く感じた。
「何か、怖いよ」
千草が呟くと、克己は千草の手を握ってきた。
「俺もだ。俺も、怖い」
克己は千草を見ず、林道の先の木々の陰のその先の正体を見極めようとするようにしていた。千草は堪えきれず泣き出した。自分の手を握るこの男の強く温かい手はこれから必ず離される。こんな事をこれから繰り返すのだろうか? 皆、どうしているんだろうか? わからなかった。
二人は手を離し難く、その場を離れ難く、ただ手を繋いだまま林道の先を見詰めていたが、数分もすれば森の奥へと風が少しずつ吹き込み始め、その風が止まり、そして、
ビュオオオォォっ!!!
大きな風が奥の林道から二人の方に吹き返してきた。湿った森の風はたくさんの紅葉の葉を巻き込んでいた。葉は全て濡れており、露出した顔や、首や手に貼り付くと虫にでも触れられたようで気味が悪かったが、風は止まず、千草は目を庇い、克己の手を強く握り返した。濡れて燃えるように紅い紅葉の葉は、後から後から千草達に降り掛かり、風は、止む事を忘れたようだった。