異世界
目の前の黒湯気単眼猿は、こちらをじっと見ている。
動物と目があったら逸らしたら負けだと、動物番組で見たような気がする……いや、逆だったか。
どっちにしろ、この異様な姿の黒湯気単眼猿――長いな、猿もどきでいいか。そいつから視線を外す程、無謀でも馬鹿でもないつもりだ。外見はこうだが、実は気のいい動物という線も捨てがたいが。というか、そうであってくれ。
「あー、何もしないから立ち去ってくれないかな?」
掴んでいたポリッシャーのハンドルから手を放し、両手を広げ何もしないアピールをしてみたが、猿もどきはじっとこっちを見つめたままだ。
動きが全くないというのは判断に悩むな。そもそも、ここは何処だという疑問を考える暇すらなく、意味不明な生き物が出てきた。単眼だけなら奇形という可能性もあるが、体から黒い蒸気を吹きだす生き物なんて、地球にはいないよな……絶対に。
ということは、あれだ、ここは地球外。俗に言う異世界ってやつか。
最近忙し過ぎて観ていなかったけど、昔よく観ていたアニメやゲームにこういう設定あったよな。異世界に召喚されて戦うシチュエーション。
でも、主人公って普通、中高生じゃないのか。二十歳後半に差し掛かった男を呼ぶなんて、ちょっと旬が過ぎているだろ。
『キィィーー!』
馬鹿な考えに耽っていた俺を現実に引き戻したのは、猿もどきの奇声だった。
口など何処にもなかっただろ、どうやって声を……げっ、でかい単眼が真っ二つに割れ、無数の鋭い牙が割れた目の中に見える。口、そこなのか。
猿もどきが姿勢を低くした。我が家で飼っている猫が、獲物を狙っている時の仕草とよく似ている。ということは、俺に飛びかかる気か!
そう思ったのとほぼ同時に、猿もどきがこちらに向かって跳び込んでくる。唾液で濡れた鋭い歯がゆっくりと迫ってくる状況で俺は、咄嗟に地面に置いていたポリッシャーのハンドルを掴み、薙ぎ払おうとした。
「伏せろ!」
誰かが後ろで怒鳴っている!?
考えるより早く俺は地面に寝そべると、頭の上で何かが風を切る音が聞こえる。その後に、ドスッドスッという鈍い音と、地面に何かが落ちた音がした。
「おい、にいちゃん大丈夫か!」
何者かが大地を踏みしめる音が徐々に近づいてくる。
何が起こったのかわからないが、助かったのか? 恐る恐る顔を上げると、目の前には剥き出しの眼球に二本の矢が突き刺さった、猿もどきがいた。
動いてないということは死んでいるのか。助けてもらったのか、今の声の人に。
「怪我はないようだな。こんなとこで何やってんだ。妨害の崖付近は立ち入り禁止区域だろ。汚生魔獣がわんさかいるから、危険なのはここら辺のガキでも、知っているぞ」
汚生魔獣ってなんだ? 呆れたような声に振り返ると、マッチョがいた。筋骨隆々とはこの人の為にあるのではないかと思う。肉体労働に趣味の筋トレを欠かしていないので俺も身体つきにはそれなりに自信はあったのだが、この人の前でそんなこと口が裂けても言えない。
脂肪が殆ど見当たらない鍛え上げられた体に、飾り気のない皮のジャケットが良く似合っている。が、手に弓持っているぞ、この人。腰には手斧もある。顔は日に焼けて少し厳ついが、悪い人には見えないな。
手斧だけなら日本でも林業を営む人は持っているらしいが、弓はないよな弓は。それに服装の感じが手作り感満載だ。これは異世界決定か。
「あの、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「まあ、実は俺も無許可で獲物狩りに来ていたところだからな、エラそうなことは言えないが、無事で何よりだ!」
豪快な性格をしてそうだが、良い人みたいだ。
「で、にいちゃん何者なんだ。国境のこんな場所にいるなんて、近くに村も無かったよな」
……何て答えたらいいんだ。こういった場面では正直に話すか惚けるかの二択しかないけど「日本という異世界からやってきた清掃員です!」は通用しないよな。となれば、必然的に選択肢は一つしかない。
「実は、気が付いたらそこにある洞窟の入り口で倒れていまして。記憶がなくなっていまして」
定番中の定番だが記憶喪失の振りをするしかないだろう。怪しまれるかもしれないが、人が良さそうだし、中途半端にわかる振りをする方が危険な筈。
「そうか、それは気の毒だな……えっ? おい、あんたその服装に、その武器は」
しまった……迂闊にも程があるだろ! 作業服が異世界に存在しているわけがない。それにポリッシャーなんて清掃機器持っていたら、怪しいなんてもんじゃない。これは、逃げた方がいいか?
いつでも逃げられるように少し膝を曲げておこう。相手の出方によっては下の砂を蹴り上げて、目くらましをして逃げるか。
そんな俺の警戒を嘲笑うかのように男は真顔で素早く俺に詰め寄ると、無造作に肩を掴まれた。
「しまった、逃げら――」
「お前それ、聖想陽具である作業服とポリッシャーじゃねえか!」
……はい? 今何と仰いました?
確か作業服とポリッシャーって言ったような。まさか、でも、効き間違えじゃないよな。確認してみるか。
「え、ええ、作業服とポリッシャーですよ」
「やっぱそうか! いやーよくできているな。あんた中々なマニアだろ。黒の作業服もそうだが、このポリッシャー本物みたいじゃねえか。挿絵と瓜二つだな。こんなの学園都市でしか見たことねえぞ」
マニア? 本物みたい? 挿絵? 学園都市? 意味が解らんどころか、何でこの人こんなにテンション高いんだ。異世界だよなここ……いやまてよ、タイムスリップをして地球の未来に来たってことも考えられるな。それだったら作業服やポリッシャーを知っているのも理解できる。
あ、実は俺は日本の秘境に転移しただけで、この世に存在している魔物たちと戦う、知られざる異能力者が住んでいるということも。
「あのすみません、ここは何処なのでしょうか」
俺が記憶喪失だと語ったことをすっかり忘れていたようで、男は眉根を寄せ、口には出さないが表情が「お前何言ってんだ」と馬鹿にしている。
「あー、お前記憶喪失とか言っていたな。てか、その格好でそんなこと言われても……ははーん。そうか、わかったぞ! お前、劇団員だろ! 今の台詞、完璧じゃねえか」
何を言っているんだこの筋肉は。何処をどう聞いたらその結論になった。
「いえ、ですから記憶が無くて――」
「わかった、わかってるって。俺も大ファンだからな。お前さんは今度その役をやることになって、成りきっているんだろ? 俺の友人にも劇団員やっているやつがいてさ、よく形から入っていたからな。よっし俺も同じファンとしてお前に協力しようじゃないか」
いや、聞いてくれよ人の話を。
「ああ、俺は初めて会った現地の人をすればいいんだな。芝居は友人にちょくちょく手伝わされているが、上手くやれるかな。ごほんっ、ここは創魔学園都市国家の最東端にある妨害の崖近くだ。ほら、妨害の崖ってのはそこから見えるだろ」
何故か後半が若干棒読み気味な筋肉に促されるまま、指差す方向へ進むと、地面が急に消え深淵が大口を開けていた。どれだけ深いんだこれ。それに向こう岸まで百メートルは余裕であるだろ。
試しに石を落してみたのだが、深淵からは石が底に当たった音がいつまで経っても、響いてこない。
「すげえだろ。あんまり近づくなよ。魔力が谷から吹き出しているせいで、ここじゃ創魔もまともに使えないからな」
それだ、それ! ソウマって何だ。それに魔力ってことは、つまり魔法なのか。やはり、異世界決定だな。
おいおい、ファンタジーしているじゃないか。最近はそう言うのを見たりする余裕がなかったけど、やっぱりいつまでたっても男の子はそういったものに惹かれるな。
「ソウマですか? それっていったい……それに魔力って」
「わかってるねえ、お前さん。完璧に役柄こなしているじゃないか。って、ああ、そういうのを口にしたら興ざめだよな。俺もあわせないといかんな、すまんすまん」
本当にこの筋肉は何を言っているんだ。ファンとか芝居とか……まあ、取り敢えず今は情報が少しでも欲しい。都合よく説明してくれているんだ、考えるのは後にしてこのまま話を続けるか。
「魔力ってのは創魔を使うのに必要な力だな。火を燃やすのに薪が必要なように、創魔を発動させるには魔力が必須。魔力が多ければ多いほど、強力な創魔が使える。んで、創魔ってのは……説明するより見せた方が早いか『風よ吹け』」
筋肉男が手を俺に向けて伸ばしてるが、何をする気だ。体に似合わず、何か囁いているけどおおおぉぉぉっ! 何だ強風が吹きつけてくるっ、吹き飛ばされそうだ!
「まあ、ざっとこんな感じだ。これが創魔だぜ」
後方になびいた髪を手櫛で戻しながら、今見せられたものを考えるが、魔法だよなどう見ても。これだけ驚くイベントが目白押しだと流石にもう、驚愕を通り越して逆に冷静になってきたよ。
「つまり魔法なのですね」
「まだ知らない振りを続けるのか、こだわるねぇ。じゃねえや、魔法? ああ、昔は魔法と呼ばれていたらしいな。だがいつの頃からか、想像し創造する魔法、創魔と呼ばれるようになった。この世界で最も優れた創魔使いである、この国の学園長が命名したそうだ。何でも創魔を操るのに大事なのは、どんな力を使いたいか詳細に想像することが大事らしいぞ」
想像力か。これは楽しみになってきたな。これは俺も是非覚えたいところだ。
「その創魔というのは誰にでも使えるものなのですか」
「いや、才能が必要だ。子供が産まれたらまず、創魔を操れる才能があるか、親が真っ先に調べるぐらいだからな。魔力ってのは誰にもあるんだが、創魔を発動させられるのは十人に一人程度らしい。俺はたまたま才能があったが、魔力が弱すぎてな創魔学園の入学試験に落ちちまって、創魔使いには慣れなかったぜ……悔しかったな」
遠い目をして語る筋肉男の見た目は、魔法使い系よりも、前衛戦士向きなのだが、外見で職業が決まるわけじゃないよな。俺もこの世界の住人なら魔法使い、じゃない創魔使いに憧れただろう。
男として痛いほどわかるよ、筋肉男さん。
それにしても創魔学園に最強の創魔使いである学園長か。俺がこの世界に来た原因はこいつが一番怪しいな。情報を聞きだしたら、創魔学園とやらに行ってみるか。
「まあ、色々聞きたいこともあるだろうけど、まずは、汚生魔獣から核を取り出すから待っててくれ。んで、歩きながら話さないか。ここは結構やばいからな」
そう言うと筋肉男さんは屈みこんで、汚生魔獣とやらの死体の腹に斧を突き刺している。
結構グロい光景だが、よく見ると血が一切でていないな。欠損箇所から黒い液体と気体の中間のような何かが流れ出てはいるみたいだが。
「質問ばかりで申し訳ないですが、その汚生魔獣って何なのでしょうか」
「ああ、これも知らない設定だったな。汚生魔獣ってのは、三百年前に現れた俺たちの敵、汚生魔人と共に汚れた世界から現れた獣だ。一部の汚生魔獣は汚生魔人の命令に従い使役されているのだが、大半が理性のないただの獣だったらしい。そいつらの生き残りが、各地で繁殖した結果、野山に住み着くようになっちまってな。普通の獣は食い荒らすし、こいつらの体か吹き出す汚生気は大地を汚すと言われているからな」
汚生気ってのは、たぶん体から吹き出していた、あの黒い蒸気みたいなやつか。で、また新しいのが出てきたな。汚生魔人ね。一応これも聞いておくか。
「汚生魔人というのは」
「ん、さっきも言った通り、汚れた世界からやってきたと言われている、見た目は俺たちと同じだが、圧倒的な魔力を持つ種族だ。三百年前にいきなり世界の各地に現れ、俺たちを支配するとか言い出しやがってな。そんなこと言われたら、そりゃ戦うしかないだろ。そこからずっと俺たちは汚生魔人と戦い続けている。既に滅ぼされた町や国も少なくないそうだぜ。勿論、こっちが汚生魔人を倒し撃退した国もあるぜ。ここ創魔学園都市も何度も汚生魔人からの侵攻を撃退しているからな」
へえー、ここは戦力が整っているということか。創魔学園と名乗っているぐらいだ、魔法じゃない、創魔に特化しているのかもしれないな。
「よっし、核が取れた。こいつら肉は臭くて食えないし、殺した後放置しておくと、悪臭を放ち始め周囲の草木が枯れだす。だから、こうやって体内の核を引っこ抜くと」
筋肉男さんが差し出した手の上には、大きなサイコロの様な形をした六面体の物体がある。
大きさは、赤ちゃんの拳程度だろうか。パッと見、ガラス細工のように見えるが中心部に黒い何かが渦巻いているように見える。
俺がそれに注目していると、ぶちゅっ、という泥水に足を突っ込んだような音が耳に入ってきた。音の方向に顔を向けると、汚生魔獣が全身を泡立たせ、水泡を弾けさせながら徐々に小さくなっていき、完全に消え失せるまで十秒もかからなかった。
「こんな感じで消えちまうんだよ。取り出した核はフリーターギルドで買い取ってくれるからな。結構いい金になるし、自然保護にも繋がるから取り忘れないようにしろよ」
「ちょっと待ってくれ。今、フリーターギルドとか言わなかったか?」
いかん、あまりにも意外な言葉に素の口調が出てしまった。
「おう、それも説明要るか。様々な依頼をこなして金銭を稼ぐ奴らの事を総じて、フリーターと呼んでいる。依頼ってのは、汚生魔獣の討伐や、身辺警護、輸送の手伝い、雑用とまあ、色々あるぜ。俺も一応フリーターギルドに加入している。本業は猟師なんだが、こうやってたまに汚生魔獣を倒すこともあるからな。買い取ってもらう時に便利なんだぜ。ちなみに、ランクはカロングで、下から三番目だな」
フリーターはつまりファンタジー物の定番、冒険者のことか。まあ、ある意味フリーターみたいなもだから間違ってはいないのだろうけど、冒険者でいいんじゃないかそこは。
……あ、今更なんだが、普通に会話しているけど異世界なら言語が違う筈じゃ。召喚された際に、異世界の言葉を自動翻訳する機能がついた、という展開は良く聞く話だけど。
でも、洋画の吹き替えを見る時の口と発音があってないという違和感を、筋肉男さんからは一切感じない。
言葉は日本語とほぼ同じなのか。どちらにせよ、俺にとっては好都合だ。
思考を戻そう。さっきの会話で気になる点がもう一つあったな。
「そのランクというのは?」
「フリーターギルドでは強さに応じて、ランクが上がるシステムになっていてな。上から、カイロング、シャロング、フクシャロング、ホンブロング、ブロング、ジロング、カロング、カカリロング、ヒラスタフとなっている。登録したばかりの初心者は例外を除いて、ヒラスタフからだな。ランクが上がればギルド内での待遇も良くなるぜ」
ランク付けか。それはいいんだが、そのランク名が覚えにくい!
何で、一級二級とかAランクBランクとかじゃないんだ。何だ、カイロングって。意味があるのだろうか。一番下以外は全部ロングが付くようだが。
実は法則がありそうだな。ロングってことは長いか、カイ長い……おいおい、まさかこれ、カイロング=会長か!?
え、いやいや、まてまて、となると、シャロングは社長。副社長、本部長、部長、次長、課長、係長ってか! 何だこのネーミングセンス。小学生かっ! ヒラスタフって、平スタッフつまり、平社員。馬鹿じゃないのか?
「何だお前、表情をころころと変えて、面白い顔してるぞ今」
「ちなみにこのランク名には意味があるのでしょうか」
「さあー、意味とかはわからないが、勇者様の手記からアイデアをいただいたってのは、有名な話だな」
勇者。とうとう出てきたか、そのキーワード。異世界召喚物と言えばやっぱりくるか。それにこのネーミング、勇者ってのは確実に日本人だ。それもかなり幼いのでは。
「へえーこの世界に勇者と呼ばれる方がいるのですね」
「ああ、そうだな。って、流石に今の惚け方はきつくないか? そろそろ、芝居に付き合うの辞めていいか。いやー、ずっと突っ込みたかったんだが、お前さんの格好、勇者様の真似だろ! かぁー、すっきりした!」
筋肉の塊が目の前で清々しい顔をしている。余程言いたかったんだろうな。
だが、今のはかなり重要なキーワードだ。俺を見てからの微妙な反応の謎が全て解けた。以前、この世界に日本人の勇者が召喚された。その勇者は俺と同じく清掃員で、同じような作業服を着ていた。何らかの活躍をして国中に知れ渡る存在となり、この人はその勇者の役を演じる芝居の練習をしている劇団員と勘違いしたってわけか。
まあ、同じ職業の異世界人と考えるよりかは、常識的な反応なのか。しかし、作業服を着ていたということは大人か……ネーミングセンスが皆無なのは触れないでおくのが、優しさだな。
一応、これで納得がいった。後は話を合わせておいてもう少し聞きだすことにしよう。
「いやーどうもすみません。役作りに付き合わせてしまって。私結構不器用で、こうやって勇者様に成りきることで、少しでも近付けたらと」
「やっぱそうだったか。俺みたいに付き合いのいい奴だから良かったけどよ、普通なら不審者扱いされるぜ。まあ、俺もちっとは楽しかったからいいんだけど」
「そう言ってもらえたら助かります。あ、もうネタバレはしてしまいましたが、もう少し付き合ってもらってもいいですか。貴方は普通に返してくれて構いませんので、あと一歩で勇者様の演技を掴めそうな感じなのですよ」
相手は召喚直後で記憶を失っている勇者の真似をしていると思っている。なら、俺はその役の練習を続けることにより、相手から自然に情報を聞き出せる筈だ。相手が乗ってきてくれたらの話だが。
「毒を食らわば皿までって言うしな。じゃあ、うちの村に着くまでならいいぜ。ここからなら、三時間程度だし、充分だろ。お前さん、今日うちに泊まりな! 同じファン同士、勇者様について語りあかそうじゃねえか!」
かなり乗り気な筋肉男さんには感謝しないと。家にまで招待してくれるなんて、お人好しにも程がある。ほんと初めに出会ったのがこの人で助かった。