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廃業

「若社長、次は何処を洗いますか?」


「二木川さん、若社長ってのはやめてもらえませんか」


 床清掃の仕事中に社員の二木川さんがいつものように、からかう様な口調で俺に指示を仰いでくる。


「じゃあ、床野 宗次社長で」


「何でフルネームなんですか。私がフルネームで呼ばれるのが嫌いだって知っていますよね」


「良い名ではありませんか。まるで、清掃業をする為に産まれてきたような」


 本当に恥ずかしいので人前で呼ぶのは止めて欲しいと、何度も言っているのにこの人は全く聞き入れてくれない。


 ゆかの そうじ


 清掃一筋だった親父が酔った勢いでつけたと言われているこの名前をネタに、何度からかわれてきたことか。

 学生時代、放課後の掃除の時間になる度に「床の掃除、ちゃんとした?」とにやけた面で話しかけてくる、クラスメートのうざいこと、うざいこと。今までの人生で、何度、同じ場面を繰り返されてきたことか。

 この名前で良かったことなんて、初対面の人に直ぐ名前を覚えられることと、社長業を受け継いでから、営業で挨拶をする際に笑いを取れたことぐらいだろう。


「二木川さん、以前の様に名前でお願いします。親父の後釜で社長になったとはいえ、二木川さんは大先輩なわけですし、それに、まだ一年ちょいですからね」


 この小さな――本当に小さな清掃会社の跡を継いで、ようやく一年が過ぎようとしている。長いようで短い怒涛の一年だった。

 父が清掃作業中に急死し、父と俺と二木川さんの三人しかいなかった清掃会社は廃業の危機を迎えた。

 経理や営業の全てを父に任せ、俺は現場での清掃しか担当していなかったので急に父親の代わりをしろと言われても、何もかもが初体験でまともにやれる自信など全くなかったのだが、今まで潰れずに何とか凌げたのは、父が開業してからずっと共に働いてくれている二木川さんのおかげだ。


「まだ、一年なのですね。若社長も板についてきたじゃないですか。ポリッシャー捌きも更に磨きがかかっていますよ。清掃だけに」


 五十代半ばの昔はイケメンだったと思わせる整った顔が、ドヤと言わんばかりの決め顔になられても、正直少し対応に困る。

 とはいえ、無視するわけにもいかないな。取り敢えず苦笑いを浮かべておこう。

 まあ、腕を褒められて悪い気はしないし。

 自慢ではないがポリッシャーの扱いには自信がある。中学から父の仕事を手伝い鍛えられたポリッシャーを使った清掃テクニック。二十代後半なんてこの業界ではまだまだ若造もいいところだが、父に仕込まれた清掃技術だけはどんな大企業のベテランにも劣っていないと自負している。


「このポリッシャーとも長い付き合いですからね。それだけに少し寂しいですよ」


「こればかりは、仕方ありませんよ。若社長が悪い訳ではありませんので」


「二木川さんにはご迷惑をおかけします」


 少し寂しそうな笑みを浮かべている二木川さんに、頭を下げる。これぐらいしかできない自分が本当に情けない。


「気にしないでください。次の就職先も決まっていることですし。経営が上手く言ってなかったのは昔からですからね。社長はずっと隠してきていましたが」


 そう。うちの会社はいつ潰れてもおかしくないぐらいに、経営不振だった。

 社長業を継いで、父の残した書類を漁っている時に見つけた物は、借金の明細書とローンの山だった。情けないことに、一緒に働いていながら俺はその事に気づいていなかった。

 給料は少なかったので、儲かっていないとは思っていたが、ここまでひどい状況だとは思わず、俺が少し給料を我慢すれば上手く会社は回っていくと楽観視していた。


「私も父の残した負の遺産を見た時には驚愕しましたよ。ですが、それも返済終わりましたし、年間契約していた仕事もようやく片付きましたからね。お前も今日までご苦労様」


 初めて父の仕事を手伝って以来、ずっと俺と共に床を磨き続けてくれているポリッシャーのグリップを、相棒の肩を叩くようにポンポンと二度触る。

 清掃を行う上で清掃機器であるポリッシャーは仕事には欠かせない道具だ。清掃の仕事と言っても色々あるのだが、うちがメインでやっている仕事は雑居ビルや学校や役所等の公共施設の床清掃。

 広範囲の床を洗うのにポリッシャーは必需品だ。ちなみに洗うというのは床をポリッシャーで掃除することを、うちでは洗うと言っている。

 ポリッシャーに幾つかの小さな傷は見えるが、丁寧に扱っていたので故障は少なく、まだまだ、現役として活躍できるだろう。


「今日の仕事が終わったら、綺麗に磨いてやるからな。バキュームやモップ……全部、新品と見間違えるぐらい、綺麗になろうな」


 俺は学生時代に清掃を手伝い始めた頃から、ポリッシャーがかなり気に入っている。床の洗浄作業、磨き作業、床ワックスの剥離作業を効率よく行える優れたやつで、用途に応じてブラシやパッドを取り付けることができ、床清掃の必需品だ。

 見た目は、T字型のハンドル左右に自転車のブレーキのようなレバーがついていて、左のレバーを握ればパッドが回り、右のレバーを握れば備え付けのタンクに入れられた水が噴き出る。まさに清掃を効率よく行う為だけに作られた道具。

 ポリッシャー最大の魅力は回転するパッドだろう。ハンドルから真っ直ぐ延びたパイプの先に、パッドの取り換え可能な円形のモーター部分があり、そこが高速で回転することにより、床を磨き上げることが可能となっている。わかりやすく例えるなら、先端が円形の電動式歯ブラシを巨大化した物を想像してもらえれば、大体あっている。


「さて、想い出に浸っている場合でもありませんね。俺は……じゃない、私は上の階を先にやっておきますよ。図面だと小さなエレベーターホールがあるだけなので、さっとポリッシャー回してきます。二木川さんはバイト君の指導お願いします。バキュームで吸うだけなので大丈夫だとは思いますが。今日が最後の清掃です。完璧に磨き上げましょう!」


 臨時で雇っているバイトは二木川さんに任して、俺は先に今日の清掃場である雑居ビルの三階へと上がった。

 ここは初めての現場なのだが、ビルの各部屋は手を付けずに廊下とエレベーターホールだけの清掃となっているので、比較的やりやすく作業もスムーズに進んでいる。

 エレベーターを使い三階へと上がると、そこは一二階とは内装がかなり違っていた。さっきまでは普通のごく一般的な雑居ビルだったのだが、ここは壁や床が白で統一されていて、おまけにどう考えても小さな雑居ビルには不釣り合いな、白い大きな柱が壁際に何本も並んでいる。


「こういう柱って、ギリシャの神殿とかで見たことあるよな……って、小さなエレベーターホールだけと聞いていたのに、伝達ミスかな。急に割り振られた仕事とはいえ、元請けは最後までいい加減か」


 三階だけ何か特殊なテナントでも入っているのだろうか。妙に内装が凝っているし、それに天井が異様に高いんだが。多分五メートルはあると思う。こういうのは建築基準法に反していないのかね。

 兎も角、掃除をしないことには始まらないな。跡をろくに継ぐことができなかった、俺から親父へのせめてもの手向けだ。最後の仕事ぐらいは、完璧にやり遂げないとな。

 まずはだだっ広いエレベーターホールからやりたいところだけど、あまりに広すぎる。後で予備のポリッシャーをもう一台持ってきて、二木川さんと同時進行した方が早そうだ。


「二木川さーん! 先に奥の廊下からやってますので!」


 エレベータ脇の階段に向けて大声で二木川さんへ話しかけ――ん? あれ、階段が……無いぞ? 最近、色々思うところがあって寝不足だったからな。階段の位置勘違いしたかな、エレベーターがここだから……はい? 

 ええええっ! エレベーターも何処いった!?

 さっきまで、そこにあったよなエレベーター! というか、このエレベーターホール電灯が一つもないのに妙に明るくないか。それに、よく見ると床に埃溜まりすぎだろ!

 いや、埃に怒ってどうするんだ。落ち着け、落ち着け、床野宗次。冷静になれ。慌てたところで何も解決しない。

 とにかく深呼吸をして、状況を見極めないと駄目だ。落ち着くにはいつも通り……床を磨くか。仕事に没頭すれば大丈夫、大丈夫。


 無理やり平常心を心掛け、エレベーターホールの奥に見える、幅が大人三人並べる程度しかない通路まで移動する。薄暗い廊下をいつものようにポリッシャーを動かしながら進んでいるのだが――おかしい。いや、おかしいのは三階に上がってからずっとだが、この廊下も普通ではない。

 この廊下を清掃し始めてから、かれこれ五分は経っているのだが廊下の終わりが見えない。起伏のない一直線で前へ前へと進んできたが、どう考えても長すぎるどころの話じゃない。

 一階、二階の清掃で建物内部の大きさは把握しているが、この廊下の長さ雑居ビルの奥行きを余裕でオーバーしている。

 それに廊下には一切照明器具らしきものが無いというのに、廊下全体が仄かに光を放っていて作業する分には支障がない程度には明るい。


「掃除に没頭してみたけど、常軌を逸した事態だなこれは」


 恐怖を少しでも誤魔化す為に口にしてみたのだが、廊下に自分の声が反響して、ますます気味の悪い気分になる。

 よし、もう一度深呼吸をして冷静に冷静に。相棒のポリッシャーを置いていくわけにもいかないよな。一緒に戻るぞ。

 ポリッシャーへ心の中で話しかけると、モーター部分の角度をハンドルに対し九十度に曲げ、収納していた車輪を出す。ポリッシャーは重量が三十五キロ近くあるので、使わない時は車輪を出して、キャリーバックを引っ張るように持ち運べるようになっている。

 今は清掃している場合じゃないよな。職務放棄とかいっている状況じゃない。

エレベーターホールに戻ろうと振り返ると、そこには闇が佇んでいた。床を磨きながら進んできた道は何故か明かりが消え去っていて、視線の先には真っ暗な闇が広がっている。


「おいおいおい、冗談じゃないぞ……冗談だったとしてもリアクションに困るけど」


 軽口を叩いてみたが、心は一向に軽くならない。

 最悪どころか意味不明な状況に混乱しているのだが、たぶん今、俺の顔はそれ程驚いているような顔をしていないだろう。

 昔からそうなのだが、俺以外の母、父、兄が結構気が強く、何か有る度に口論をしていて家族の輪を取り持つ為に、いつも俺が間に入りなだめ、不満があっても感情を押し殺して対応してきた。

 そのおかげというか、何というか、余り感情が表に出ない子供に育ってしまい、今に至る。心の中では結構いいリアクションをしているのだが、表情の変化は微妙らしい。


「暗闇に突っ込むのは勇気がいるな。怖いの苦手だから避けたいが」


 試しに手を伸ばし恐る恐る闇へ突っ込むと、ポリッシャーがある場所を境界線にして、そこから奥が不自然なほど全く光が差し込まない領域になっているようだ。

 闇に手首まで入れると、そこから先が闇に消え、まるで切り落とされたかのように見える。うーん、握ったり開いたりする感触は普通にあるな。引き抜くか。

 闇から戻した手は普通にある。この闇、視界はゼロだけど有害ではなさそうだ。でも、ここを戻るのは問題外。となると、先に進むしかないのか。

 まだ床がほんのり光っている分ましだろう。何もしないより動いた方がいい。

 色々余計な事を考えてしまいそうになるが、今は前に進むことだけを考えよう。たぶん、考えても答えが出ない。この先に何があるか確かめてから考えた方が建設的だ。


「終着地点は何処だ」


 あれから、体感時間だが十分は経っていると思う。起伏のない平坦な道だと思っていたけど、どうやら僅かにだが傾斜があり上り坂になっているようだ。手を放すと、ポリッシャーが少し後ろにずれたから、間違っていないと思う。


「おっ、明かりが」


 やっと終わりが見えてきた。

 光が縦に線を引いたように真っ直ぐ漏れている。扉か何かだといいんだけど。

 自分でも気が付かない内に走り出していたようで、光が徐々に光量を増し、それが両開きの扉から漏れた光だとわかると、俺は体当たり気味にその光の中へ跳び込んだ。


「おおおおっ!」


 体が通るには少し足りない幅しか開いていなかったのだが、体を押し当てると扉が外へと開き、俺は光に包まれた。






 暗がりに慣れていた目は、突然の光を受け入れることができず、焼けるような痛みを覚え咄嗟に目を腕で覆う。


「なんだ、室内なのに照明が強すぎるだ……ろ」


 状況をいち早く確認したかったので、まだ少し痛む目を見開き正面を見たのだが、そこには、澄み渡る青空と背の高い木々が密集していた。


「はあああっ!?」


 扉を抜けた先が大自然の真っただ中ってどういうこと!?

 屋外に出たのは納得できるけど、ここ何処だ? 清掃場所の雑居ビル周辺には道路とビルとコンビニしかなかっただろ……兎も角、これ以上、慌てて取り乱すのは無しだ。異常事態だからこそ、冷静さを失ったら碌なことが無い。親父が死んだとき、それを嫌と言うほど学んだ筈だ。

 周囲を観察して、的確な判断を心掛けないと。

 ゆっくり十回深呼吸をして、少しは落ち着きが取り戻せたみたいだ。


「まず、場所の確認なんだけど」


 視界から得られる情報は、頭上に広がる雲一つない青空。

 周辺には、父親の遺伝子を受け継いだ180を超える体でも抱えきれない、大きな幹をした木々。俺が四人ぐらいで取り囲めば何とか手が届きそうな巨木が、そこら中に生えている。

 振り返ると、大きな木製の扉が開け放たれたままの、洞窟らしい入口がある。あの暗闇から解放された今、再びあの闇に戻る気はさらさらない。


「となると、周辺の探索か。後できることは、持ち物の確認ぐらいかな」


 俺は今、黒の作業服を着ている。この作業服は跡を継いでから、唯一俺が新しく取り入れた物で、父との差別化を図ろうと考えて選んだ。黒い服ならば汚れやシミが目立たないだろうと判断して購入したのだが、ワックスが飛び散ると白い跡が余計に目立つようになってしまった。

 作業服には至る所にポケットが付けられていて、その全てに手を突っ込みまさぐり何か有益なものはないか探してみる。

 右肩、左肩のポケットには何もなし。続いて、左胸、脇腹二箇所には、お、指に何か当たった。どれどれ、何が出るかな。

 取り出せたのは、手ごろな大きさの飴玉三つだった。一昨日、マンション清掃中に管理人のおばさんに貰ったものだこれ。黒砂糖の味が好きじゃないから、ポケットに放り込んで、そのままだったのか。

 他に何かないかと、探索場所は作業ズボンへと移り、腰二箇所からはポケットティッシュ一つとコンビニのレシートぐらいしかなかった。太もも付近のポケットからは財布と携帯がでてきた。


 あまり期待はしていなかったが、予想通り携帯は圏外で繋がらない。

 神殿跡みたいな場所から出た先が大自然のど真ん中。最近の携帯は田舎でも繋がりやすいというのに全く反応がない。この状況、もう一つあれがあれば、何処かで見たことのあるシチュエーションなんだが。

 周辺の草木を凝視し観察するが、そもそも植物には詳しくないので、怪しいかどうかわからない。青い花を咲かせている小さな植物を眺めていると、がさりと何かが動いた音が近くから聞こえた気がした。


「ん、今、そっちから」


 音のした方向に顔を向けると、そこから奇妙な生き物が飛び出してきた。その姿を見て俺は確信する。


「地球じゃないな、ここ」


 ニホンザルのような容貌をした生き物なのだが、そいつは顔の中心に大きな眼が一つあるだけで口も鼻もなく、おまけに全身から黒い湯気のようなものを立ち上らせていたからだ。


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