7.最後の身勝手は許されるだろうか
「含みのある物言いをしておいて、何も起こらなかったじゃないの」
ジト目でそう言うと、ポチはアイスブルーの瞳を丸くした。
「なんじゃ。何もなかったのか」
「なーかーっーたー」
耳の付け根を強めに撫でると、ポチは「ふむ」と首を下げる。意外そうな声音だった。
「ねえ、何かあるはずだったの?」
「いいや。確信はないが、そんな気がしたのじゃ。詳しくは聞くでない。わらわには答えられぬぞ」
問うてみるも、つれない返事。まあ、教えてくれないだろうことは分かっていたが、「そんな気がした」って……つまりは「なんとなく」ってことかい! その「なんとなく」で無駄にハラハラした私って一体。
「……んもー、何それ」
ソファーでポチと隣同士。ポチはソファーの上でお座りをしており、少し目線が高くなっている。いつもと違い、今は私がポチを見上げる形だ。やっぱり、そんじょそこらの犬より大きいなあポチは。神獣だもんねえ。
「いやあすまぬ。わらわとしたことが、いささか早計であった」
悪びれもせずポチは言い、フッサーっと銀尻尾をひと振りした。触りたい。
「もういいよ。紛らわしいなあ」
「わらわもまだまだ未熟じゃのう。んふふ」
何が「んふふ」だ。問い詰めてみればこれだもの。気が抜けてしまった私は、ポチのもふもふ尻尾で遊び始めた。ポチはされるがままになっている。
(あ、そうだ。サプライズ)
フサフサもふもふに気を取られていたが、私はポチに渡すものがある。内緒で用意していた、ポチ用の匂い袋。
「ねえポチ、ちょっとそこで目を閉じててよ」
「む? なんじゃ、藪から棒に」
「いいからいいから! はい、目ー閉じてー」
両手をポチの目元に持ってゆき、アイスブルーの瞳を隠す。「むう」と声を漏らしながらもポチは瞼を下ろし、私は化粧台までタタっと走った。化粧台の椅子に置いてある麻袋をぐいっと開け、中を見る。二つの匂い袋のうち、立ち耳の犬が刺繍されているものがポチ用だ。下の方には「ポチ」とカタカナで縫ってある。
(ふふ、喜んでくれるかなー)
自ずと笑みが零れた。私の頭にはポチの嬉しそうな、照れた顔しか浮かんでこない。
「よいしょっと」
ポチへの贈り物をそうっと手に取り、大急ぎでソファーに戻る。ポチは片耳をピクリと震わせた。
「はい、いいよ」
湿った鼻先の前に匂い袋を掲げ、ポチの目が開くのを待つ。ポチは「むう」と呻いて身じろぎし、ゆっくり開眼していった。犬の嗅覚で私が何を持っているのかバレてそうだなあ。それでもポチは喜んでくれるだろうけど。
「なんじゃ。それはおぬしのこさえた匂い袋ではないか」
怪訝そうな声をあげ、ふんふんと匂いを嗅ぐポチ。ああ、犬だ。神獣っぽくない。
「そうだよ。……これ、誰のだと思う?」
思わせぶりな口調でニンマリと笑ってみせる。ポチはしばらく匂い袋を眺め回し、刺繍の模様に気付いたのかクワッと刮目した。
「これは──わ、わらわのか?」
予想以上に驚いてくれ、私はしたり顔。どうしよう、すっごく嬉しい。
「うん。ポチの。私がこの国に来てお世話になった人には、ポチも入ってるんだよ。いつも側にいてくれて、見守ってくれて、励ましてくれて、慰めてくれて──今思うと、ここに来る前からポチは私のこと助けてくれてたよね」
言葉を切って、ポチをじっと見つめる。アイスブルーの瞳は匂い袋に釘付けだ。
「私の感謝の気持ち。……ポチ、いつもありがとう」
食い入るように匂い袋を見ていたポチが、ゆらりと私へ目を向ける。澄んだ冬の湖のような瞳がキラリと輝き、蝋燭の光加減かなと思ったが、それは違っていた。
「ば、馬鹿者。こんなことをしおって、わらわは、わらわは……」
涙の膜が張り、みるみる流れ出る透明な雫。
「ポチ、泣いてるの?」
「何を申す、わらわは泣いてなどおらぬ! 感情がちと高ぶっておるだけじゃっ」
それ、泣いてるんでしょうよ。意地っ張りめ。
初めて流すポチの涙を見て、胸の奥底から暖かい気持ちが込み上げてくる。
「ポチ、大好き」
何度伝えたかも分からない愛言葉。野良犬だったポチを拾った時から続く、果てしない慈しみと、深い深い情。ポチは私の家族なのだ。たとえ神様の御使いであっても、犬ではなく神獣であっても、それは不変不動のもの。
少しだけ腰を浮かし、ふさふさの首に両腕を回す。頬に温かな液体が触れた。
「……わらわもじゃ」
鼻声のハスキーヴォイスが耳元をくすぐる。なんて幸せなのだろう。
ひどく満ち足りた気分でポチを抱きしめていると、ぽつりぽつりとポチが話を始めた。
「神の御使いたるわらわとて、感情を持つ。主神より召喚を受けた際、おぬしとの別れを辛く思うた。そして、民に受け入れられるのだろうかと、民を救えるのだろうかと──幾星霜を経てこの地へ降り立つことへの不安もあった」
ずずっと鼻を啜り上げるポチ。人間臭いなあ。
「じゃが、気付けばおぬしが隣におった。見知らぬ土地、見知らぬ人間に囲まれたこの地で、それが如何に心強かったことか」
(なんだ、ポチも私と同じことを思ってたんだ)
見知らぬ場所で見知らぬ人に囲まれた異郷での生活。ポチは私の心の拠り所だった。こんな現実離れな出来事に遭遇して正気でいられたのは、ポチが一緒に居たからだろう。
「私も同じだよ。ポチがいてくれてよかった」
ぎゅう、と抱きしめ、肺いっぱいにポチの匂いを吸い込む。獣臭さと石鹸の香りに安心感を得た。
私たちは長いこと抱き合い、思い出話やくだらない話をした。
もしも、私が日本へ帰ることになったら。……こんな風に話し、笑い、泣き、喜ぶ事は、もう叶わない。
ポチのいない生活、ポチと会えない毎日を想像し、ひどく心臓が締め付けられた。帰りたくないとさえ思った。けれど、日本には両親の墓石が、位牌がある。三人で暮らしていたマンションもあり、銀行にはささやかながらも必死で貯めたお金がある。
帰りたくない。でも、日本に残しているものもある。
帰りたい。でも、ポチやみんなと離れたくない。
胸中に渦巻く二つの意思がせめぎ合い、どうしようもなく辛くなって、私はポチの毛皮に顔をうずめ一粒だけ涙を落とした。
*
あと一時間で日付が変わる頃になって、私もポチもようやく平静を取り戻した。二人で仲良くお風呂にも入り、ポチの濡れた体をバスタオルで拭いていると。
「むっ、主神が呼んでおる」
ピンと両耳を立て、ポチがある方向を向いた。──神殿の奥深く。ポチが神様と交信をする聖殿の方角だ。
「え? こんな夜中に?」
バスタオルを擦る手を止める。ポチはブルルと体を揺らし、水滴を振い落した。ポチさん、私に水がかかってますよ。
「うむ……。撫子、わらわはこれより聖殿に参る」
堂々と胸を逸らし、一点を見据えるその姿は凛々しい。
「そっか。寝る準備して待ってるからね」
「ああ。眠くなれば無理をせず先に寝ていてかまわぬぞ」
迷いなく進むポチの後を追い、扉を開けてやる。
「そう? でも私、ちゃんと起きてるよ」
これでは母の帰りを待つ子供だ。自分に苦笑しつつ、ポチを見送る。
「おぬしの気持ちは嬉しいが、体を壊してはならぬ。明日に備えてはよう眠れ」
「……はあーい。じゃ、鍵は開けとくね」
廊下の奥に消えてゆくポチの後ろ姿を、見えなくなるまで眺めていた。
部屋に戻り、一人寂しく自分の髪を乾かす。先ほど「別れ」について考えたせいか、妙に一人が心細かった。
カーテンを開けているにもかかわらず、窓の外は暗い。今日は雲が出ているようだ。星明りのない部屋は、蝋燭の火だけが灯る。
化粧台に座り、櫛でとかしながら髪を拭く。あらかた乾いた所で、ふと、引き出しに仕舞っているあるものの存在に気を留めた。
(……結局、今日は分からずじまいか)
ゆるゆると取っ手を引けば、銀色の指輪と赤いチョーカーが引き出しの隅にひっそりと眠っている。
悩める私はそれらを徐ろに化粧台へ置き、溜息をついてぼんやり眺めた。
(誰、なんだろうなあ)
艶やかな銀の金属でできた指輪。宝石の類は嵌め込まれていないが、輪の緩やかな捻りが波のような上品さを醸し出している。
チョーカーの方は肌触りが良く、シルクのような光沢を持つ厚布で作られていた。中央には小さな赤い石がちょこんと垂れ下がっている。後ろの留め具は金属であり、可愛いデザインだな、と好感を抱いた。
指輪もチョーカーも至ってシンプルで、これといった手がかりになりそうな彫刻や飾りはない。
(……私にピッタリなんだよなー)
そっと指輪をはめてみる。きつくもなく、緩くもなく、それは私の左手の薬指にきっちりと収まって。
──まるで、私のためにあつらえたモノのよう。
例の「彼」はどんな気持ちでこれを買いに行ったのだろう。
どんな気持ちで選び、注文したのだろう。
私が帰ってしまうことなど、とうの昔に知っていたはずなのに。
叶わぬ恋だと分かっていても、捕らえたくなるのだろうか。自制はきかなかったのだろうか。自分が辛くなるだけなのに、望み薄な相手に恋など──いや、私は「彼」の気持ちを否定している訳ではない。
単に不可解だった。叶わぬ恋の経験のない私にとって、未知の世界なのだ。
(障害があるほど燃えるってやつなのかねえ?)
「……はあ」
溜息が一つ出た。
下を向くと、赤いチョーカーと目が合う。「私もつけて」と言わんばかりに主張している、可愛いその子。誘惑がお上手だった。
似合うかな、ととりとめもなく思い、装着してみる。もう十一時を過ぎた。こんな時間に誰も訪ねては来ないだろう。
化粧台に備え付けてある鏡でどんなものかとチェックする。ほうほう、顔はともかく、なかなか似合ってるんじゃない? 黒髪に赤って結構いい色合いだな。
私も女。自分を着飾ることに興味がないことはない。可愛いものや綺麗なものを見れば心がときめくし、過ぎないお洒落は好きである。
鏡の中の自分を色んな角度で楽しんでいると、私の耳に音が飛び込んできた。
ガチャっ。……バタン。
扉の開閉音。それが意味するものは。
「──っ」
(ぎゃああああああああああああああああああああああ!)
なんというバッドタイミング! 来訪者が現れた!
慌ててチョーカーを外そうとするも、焦っているせいか首の後ろにある金具がうまく掴めない。留め具どこー!
「……何やってんだよ」
つっけんどんな口調、無遠慮な物言い、低い声。
(お前か、アンリ! あれほど人の部屋に入るときはノックをしろと言ったのに!)
「あんたまた勝手に入ってきて! ポチがいたらどうすんのよ! 不敬罪で大神官様に告げ口するわよ!」
「神獣いねーんだろ。聖殿に灯りがついてた」
「そ、それは」
(確信犯かい! タチ悪いなあもう。はっ、てか指輪、首輪!)
「アンリ、ちょっ、ちょっと待ってむこう向いてて!」
大いに焦った私は、片手で喉元を隠しながら右往左往する。
「あ?」
(「あ?」じゃないの、「あ?」じゃ!)
振り向けば、仏頂面のアンリがいた。
「いいからほら! むこう向く!」
命令の如く言うのに、アンリは私のいうことを聞かない。まあそうだ。こいつが私のいうことをすんなりと聞くはずがない……んだけど、今は聞いてもらわないと困るのよ!
すうっと、アンリの目が細まった。青い三白眼が鋭くなり、私は息が詰まりそうになる。きっと青い視線の先には赤いチョーカーが見えているのだろう。
アンリのことだ。絶対突っ込んできて、馬鹿にしてくる。「何色気づいてんの? 馬鹿みてー」とか、鼻で笑ったりとか。
よりによってひねくれ者で意地の悪いこやつに見つかってしまう展開に狼狽えながらも、私は緊縛と身構えた。
「……お前、俺に渡す物があるんだろ」
なんて言い返そうか、どう言い訳しようかばかりを考えていたのだが、アンリの口から出た言葉はチョーカーや指輪とは何の関係もない事で。
「えっ、あっ、え? ああ、うん」
(あれ? 気付いてない? いや、アンリに限って気付かないとか……あ、それとも見えてないのかな? 片手で隠せきれてるとか)
なんだか肩すかしを食らったような気分だ。いやまあ、アンリが気付いてないならそれはそれでいいんだけど。
(ヒューズくんたちか伝令の誰かにお別れの品のこと聞いて取りに来たのかな)
依然ドギマギしていたが、さっさと匂い袋を渡してお引き取り願おうと思考チェンジした私は、化粧台の脇の麻袋を漁る。これが最後の一個になる匂い袋。アンリは受け取ってくれるだろうか。否、受け取らせて帰らせる。
「はいアンリ! 今までありがとう!」
アンリ用の匂い袋に入れた刺繍は、目つきの悪いおかっぱ頭の男の子。我なながらよくできている。この目なんかアンリにそっくりだ。
「……」
不機嫌そうな(本人曰くこれが普通)顔で匂い袋を受け取ったアンリに、「じゃ、バイバイ! 私もう寝るから! 出てって」と退室をまくし立てる。
すると。
「? え、何?」
無言で差し出される手。それが握手を求めるものだと理解するのに時は要さなかった。
「握手?」
(ああ、お別れ会のときに握手しなかったことを気にしてるのかな)
なんだかんだ、アンリはいい奴なのだ。表には出さないけれど、きっと申し訳ないと、握手くらいしてやろうと思い直したのであろう。
何も言わないので肯定だと受け取り、私はアンリの手をとろうと首を隠していた手を伸ばす。図らずも、それは指輪をはめた左手だった。
「ありがとうとさよならの握手。アンリ、元気でね」
口は悪いしひねくれてるし、扱いづらいし……嫌な奴だけど本当はいい奴で、嫌いかと問われると嫌いではない。もし、日本に帰るとなったら、そんなコイツとも会えなくなるのか。あれ、なんか寂しいな?
静かに混じった神妙な気持ちに違和感を覚えつつ、私より大きいがっしりとした手をギュッと握る。──アンリの指先が、左手の薬指の付け根を撫でた。
「!?」
不意の出来事に驚き、咄嗟に手を引っ込めようとしたが、それはできなかった。
私は強い力で引っ張られ、どういうことかアンリの腕にすっぽり包まれていた。私の顔はアンリの鎖骨あたりに押し付けられている。自分とは違う匂いがふわりと鼻を掠めた。
(え? え? え? 何、何事!?)
瞬く間の出来事で、頭がついて行っていない。
「あ、アンリ。ちょっと、あんた何して」
ようやくアンリに抱きしめられているということを察知した私は、くぐもった声で抗議する。眼前にある体を離そうとしてみても、力の差に勝てるはずもなかった。神殿騎士として日々鍛錬しているだけのことはある。
「ちょーっーとーっ!」
ぐぐぐぐ……と、ありったけの力を込めて胸板を押す。徐々に隙間ができてきたが、アンリは私の腰に回していた手を背中にやり、ぐっと自分の方へ寄せる。苦労してできた隙間は、いとも簡単に埋められた。
(何なのこれはまさかアンリが)
頭の中は大嵐。至るところで落雷。落雷。落雷。
青天の霹靂で思うように働かない脳みそが、祈り人とアンリを結びつけようとする。
私を抱え込んでいる指が、チョーカーの縁に沿って首元を横になぞった。ぞわぞわと背筋が粟立つ。なんだこの感覚は。
(ぎやああああああああ!)
「っアンリ、アンリってば!」
黙ったまんまのアンリに呼びかける。ほんの少しだけ、腕の力が弱くなった。
「……うるせー」
「や、うるせーじゃなくて、あんた何やってんの!」
尚も抵抗を続けながら、アンリの顔を見るべく顔を上げる。腕は背中に回されたままだが、込められた力が弱まったせいか僅かに体を離すことができた──のだが。
柔らかい張りのある何かがグッと唇を押してくる。
アンリは素早かった。あらかじめ的を定めていたのかと思うくらい、正確で、颯爽とした動きだった。
上を向いた私の視界にいつもと同じ表情のアンリが映り、ん? 不機嫌そうな顔が近付いてきたな、と思った刹那、唇に柔らかいものが押し当てられていて。
本当に早くて、無駄がなかった。だから、避けられなかった。そうされると分かっていたら、私は避けたのだろうか。……うん、これは避けるでしょうよ。付き合ってもない男とキスなんて、私の貞操観念が疑われる。
(……って、そうじゃない! 嘘、今こいつ何した!?)
離れてゆくアンリの顔。唇に残る生々しい感触。頬に熱が集まってくるのが分かる。
「無防備」
ついさっきまで私の口を塞いでいた薄い唇が短く動く。私に反論の余地を与えず、アンリは私のもとを去り扉の前まで歩いて行ってしまった。
(どういうつもり? なんでこんなことしたの? 私の事好きなの? 指輪を撫でたりして、これくれたのあんたじゃないの? 祈ったのはあんたなの?)
聞きたいことは山ほどある。目まぐるしく回転する頭は、パンク寸前だ。
「アンリっ! あんた、待ちなさ」
疑問を解決するには、アンリと話さなければならない。立ち去ろうとしているアンリを引き止めるべく、私は立ち尽くすのを止めた。
けれどアンリは、それを許さなかった。
「追いかけてきたら『ニホン』に返してやらない。……明日帰るつもりでいるなら、そのまま寝ろ」
決して大きな声ではないのに、威圧的な口ぶりで、強かった。私は何も言えず、ただただ戸惑う。
部屋から出て行ったアンリ。部屋に残された私。
呆然と立ち往生していたが、何が起きたか整理しているうちに怒りが沸き上がってきた。なんなのだあいつは。ノックもせずに急にやって来て、贈り物と握手を要求してきたかと思えば抱きしめてきて──挙句、私の唇を奪いやがった。しかもファーストだぞファースト! 未来の旦那にと二十六年間とっておいたファーストキス!
で、最後にはえらく一方的なことを言い捨て逃げてゆき。私の気持ちは、感情は、疑問はどうなんのよ。誰に聞けばいいのよ。あんたしかいないでしょうが! あんたのことはあんたにしか分からないでしょうが!
なーにが「追いかけてきたら『ニホン』に返してやらない。……明日帰るつもりでいるなら、そのまま寝ろ」よ! スカしたこと言ってんじゃないわよ! 私にあんなことしといて、なんで二択しかくれないの!? あんまりじゃない、それって! どういうことかまず説明しなさいよ!
どんどんどんどん鈍い怒りが沈殿していく。やがてそれは腹わたを煮えくり返らせ、私を突き動かした。
バアン!
夜なんて知ったことか。荒々しく扉を開け放ち、施錠もせずに駆け出す。あの大馬鹿野郎はどこに行きやがった。
ほの暗い廊下に目を凝らす。アンリらしき者の姿は見当たらない。一先ず、官舎方面に──待てよ、近くの神殿騎士に聞いてみよう。夜警の任についている人がいるはずだ。
壁際に立つ神殿騎士に声をかける。彼はアンリが進んだ方向を教えてくれた。「夜中に一人で歩くのは危険です。護衛を呼ぶので部屋でお待ち下さい」と言われたが、今の私にそれを甘受する気などサラサラなかった。早くしないとアンリに逃げられてしまう。さすがに官舎の中まで追いかけていきたくはない。
「大丈夫です。神殿の奥からは出ませんから。アンリもいますし」
言いくるめて、走る。ゆったりとした寝衣に足をとられそうになりながら、ひたすらに走る。進む先々にいる警備の神殿騎士にアンリの通った道を聞き、そちらへそちらへひた走る。
そうしてどのくらい走ったか、ついにアンリの行き先を知る者がいなくなってしまった。近くの神殿騎士数人にあたってみたが、皆首を横に振る。
忽然と姿を消すなんてことは有り得ない。夜であっても神殿内の警護は決して弛まず、一定の間隔で神殿騎士が配置されている。神殿内を移動するならば、彼らの目に必ず映るのだ。
(なんで? どこ行ったわけ?)
最後にアンリを見た神殿騎士の位置からここまでの道のりを思い返す。特に隠れられるような場所や、抜け道は──……。
(あ、あそこかも!)
ぐるんとUターンし、元きた廊下を戻る。そうだ。この通りにはあそこへ繋がる小径があった。私のお気に入りの場所へ続く、緑に隠れた小径が。
(よっ、と)
柱廊から外れ、木々と茂みの間に突っ込めばちょっとした秘密の通路が現れる。秘密の通路、といっても割りと神殿関係者には知られており、私だけのものではない。幼い頃から神殿暮らしだったアンリなんか、「俺が最初に見つけた」ってブスーっとしてたもんなあ。
夜露が衣を濡らすのも構わず草葉に突撃。ただし、なるべく音が出ないよう注意した。不審者と思われでもしたら厄介だ。……まあでも、神殿騎士の人たちは私があの場所を気に入り、よく入り浸っていることを知っているので、追いかけてこないとは思うけど。
草を踏みしめられて出来た小径を進むにつれ、松明の灯りが遠ざかってゆく。今夜は星も出ていない。暗がりで足元がおぼつかなかった。
やがて拓けた空間に出る。中央に佇むガゼボに目を凝らすも、人影はない。ないというより、夜闇に紛れて見えないのだ。
辺りは静かで、風の音だけがしている。自分の息遣いすら鮮明に聞こえた。
あがった息を整えながら、草の上をサクサク歩く。六角形の屋根が大きくなってゆき、蔦をモチーフにした柵の間に影の塊が垣間見えた。
(──居た!)
暗がりに慣れた私の眼が捉えたのは、キノコのようなシルエット。あれはアンリのおかっぱ頭だ。治まりかけていた情動がぶわっと一気に高まる。
「ちょっとアンリ……!」
何を言おうかなど、決めていなかった。私はガゼボの屋根の下に乱暴に入り込み、アンリの真向かいに腰を下ろす。ビュウウと、一陣の風が吹き抜けた。
「あのねえ、あんたあれはないんじゃないの? 一方的過ぎ!」
口から飛び出たのは文句だった。聞くべきことがたくさんあるというのに、今の私は感情を剥き出さずにはいられなくて。
「あんな事しといて放置するとか酷すぎるわ。だいたい、順序間違ってんのよ! 普通、ああいう事は告白して、オッケーもらって、付き合ってからするもんでしょ!? 私初めてだったんだからね! てかなんなの、あんた私の事が好きなわけ?」
睨むようにアンリを凝視する。風が吹き渡り続けており、段々周囲に淡い光が降りてきた。風によって星を覆っていた雲が追いやられたのかもしれない。
「ちょっと、なんとか言いなさいよ」
眉根を寄せ巌しい顔をしているアンリは、膝に肘を置き頬杖をついている。なんであんたが不機嫌そうにしてんのさ。
目の前の男はダンマリを決め込んでいたが、いくらもしないうちに青い三白眼を細め口を開いた。
「……言ってどうなんの?」
逆に問い返され、言葉に詰まる。アンリの言っている意味が分からない。何を聞きたいのだ、こいつは。
「どうなんのって、何が」
尖らせた声を放てば、アンリはますます青の双眸を鋭くした。その冷たさに、気圧されそうになる。
「言ったらお前は帰んないの?」
「っ、え」
「言ったらこっちに残んの?」
帰らないとか、残るとか、そんな、すぐに答えが出るようなものではない。なんて言えばいいのか分からず、言葉も出てこなかった。怒りであれほど勢いづいていた心がしゅんしゅん萎んでいく。
そんな私に、アンリは追撃をかけた。
「言って何か変わんの? 俺の思い通りになんの? なんねーだろうが……!」
苛立ちの混じった、凄みのある声だった。アンリのこんな声を今までに聞いた事がない私は、怯むと同時に少し怖くなった。
怒気を孕んだ三白眼から目を逸らし、「ごめん」と呟く。アンリが業を煮やすもんだから、自分に非があったのかと思いつい謝ってしまった。私は悪くないはずなのに。……悪い、のか? え、どこがよ。
「変わるとか、思い通りになるとか、そんなんじゃなくて」
未だ眉間に濃い皺を刻んでいるアンリに向け、重い口を動かす。
「……いきなりあんな事されて、なんの説明もなしに突き放されて、ビックリした。私がどう思うかもうちょっと考えて欲しかったな。あと、アンリの気持ちとかもちゃんと知りたかった」
言うと、アンリは小さく息を吐いた。そして聞こえるか聞こえないかの大きさで「悪い」と詫びる。こいつが謝るなんて、天と地がひっくり返りそうだ。
梢を渡る風がサアサアと音を立てる。少しずつ落ち着いてきた私は、もう一度アンリに問いかけてみることにした。今度は、できるだけ冷静に。
「ねえ、アンリ。……あんた、私のこと好きなの?」
降って沸いた出来事ですっかり息を潜めていたものがある。──例の祈り人だ。
あんなことがあった後なので、私の中では「それがアンリなのかもしれない」という推計が急上昇している。けれど、本人から聞いたわけではないので決定には至っていない。
だけど、私の第六感は絶対にアンリが祈ったのだと告げていた。
「言いたくない」
「えっ、なんでよ」
「言いたくねーもんは言いたくねー」
「はあ? 何それ」
「なんで言わないといけねーんだよ」
「そりゃあんた、私に関係する事だからでしょーが。私、あんたのせいで──」
言いかけて、口を噤む。「あんたのせいで日本に帰れないかもしれないんだから」と、こいつに伝えるのはまだ早い。万が一、アンリでなかった場合のこともある。
「──っなんでもない。もう、じゃあ好きかどうかは後でいいよ」
まず、確かめなければ。アンリが神様に祈ったかどうか。ポチは「本人に祈った自覚はないかもしれない」と言っていたので、聞き方を考えないといけないな。
「アンリ、これすごく大事なことなんだけど」
声音を変え前置きをする。アンリは黙って私に目を向けていた。
「私に日本に帰って欲しくないとか、帰したくないとか神様に祈ったりした? 祈ってなくても、そう強く思ったりした事なかった?」
そう尋ねた瞬間、アンリはピクリと瞬き、口元を引き締めた。微かな動きであったが、注意深くなっていた私はそれを見逃さない。……これは、思い当たる節がありそうだ。やっぱり、アンリが祈り人だったのだろうか。ええー、そんな素振り全くなかったのに。
返事を待つも、耳に入るのは風の音ばかり。しびれを切らして再度声をかけると、「言ってどうなんの」と先ほどと同じような答えが返ってきた。
「アンリ」
身を屈め、青い瞳を覗き込む。いつになく私は真剣だった。どうしてもこのへそ曲がりの口から聞き出さなければならない。
「あのね、ほんとにほんとに、すっーごく大事なことなの。私の人生に関わるくらい」
アンリの面持ちは変わらない。片手で頬杖をついて、憮然としている。
「……なんか身に覚え、ある?」
開口する様子のないアンリへめげずに問う。少しやり方を変えた方がいいかもしれない。こいつが素直に返事をする確率は低いだろう。
「黙ってると『はい』ってことにしちゃうよ」
ひゅうひゅうと風が吹き、私とアンリの髪を乱した。
「今から十数えるから、その間に何も言わなかったら肯定ね。違うんだったらちゃんと『違う』って言って」
そして私はアンリに聞こえるよう、はっきりとした声でカウントダウンを始めた。一から五へ、五から七へ、七から十へ──……数え終わるまで、アンリはウンともスンとも言わなかった。
「はい、じゃあアンリ。身に覚えがあるってことでいい? 祈ったんだよね?」
やきもきしつつ、確認を重ねる。自分でもしつこいと思うくらいに。
「祈ってはねーよ」
「祈ってないけど、思いはしたんだ?」
「……うるせー。何回も聞くなバカ」
ぶすっとして斜め下を向くアンリ。バツが悪そうなその態度は、疑いようのない「肯定」を表していた。
(アンリ、だったの? ほんとに? ……でも、なんか信じられない)
「だって口で言ってくれないから分かりにくいんだもん。で、それってどこで? いつくらい?」
アンリが例の祈り人だということが信じきれない私は、他の情報もあわせて考えてみることにした。
「言わない」
「ええー?」
「言いたくねえ」
「もう、また? だから、めちゃくちゃ大事なことなんだってば。犯人がアンリだったらアンリにも説明するから、今はとにかく教えなさい!」
キッと睨み、強気の姿勢で構える。
「なんで私がこんなこと聞くか、知りたくない? あんたが教えてくれたら話してあげるかもしれないよ。多分、……あんたにも関わる事だし」
ポチと相談していた。
今回の件は公にはせず、限られた人にだけ説明しておこうと。けれど、もし私の前に例の人物が躍り出たなら。そしてその時、話し合いが必要であったなら。
「彼」の祈りで私がここに留められている事を明かし、お互いが納得するまで談義する。ポチと話す中で、そう決めていた。
アンリは左手の薬指にはめた指輪と首につけた赤いチョーカーを見ても驚かず、更にはそれらへ触れてきた。なぜ驚かなかったのか。指輪とチョーカーの存在に気付いていなかった? いいや、気付いていないのであれば、触ってこないだろう。偶然触れたというには、手つきに迷いがなさ過ぎた。
あの指輪とチョーカーを贈ったのがアンリだと仮定すれば、点と点が綺麗に繋がる。
自分が贈った物だったから、驚かなかったのだ。
(やっぱり、アンリなのかな)
寝ている私に結婚を匂わす装身具をつけ、別れの夜には抱きしめてキスをしてきて。「私を帰したくない」と強く思った覚えもあるときた。
……おそらく、私へ想いを寄せる祈り人はアンリで間違いないのだろう。私に対する今までの態度が態度なだけに、さらっと受け止められないが。
怒りの波が一時的に引き、クリアになった頭の中で第三者が考察をしている。
「訳わかんねー」
「私だってあんたが何考えてるのか分かんないわよ。だから、私たちは話し合わなきゃいけないの」
しばし沈黙が流れ、向かいから大きな溜息が聞こえた。
「……一週間前。第五聖堂」
歯切れ悪く、ぶっきらぼうな声が溜息に続く。
(うわあ、ビンゴ。ぴったりじゃん)
今日から一週間前といえば、ポチから日本に帰れない宣言を受けた日の二、三日前にあたる。そして第五聖堂は愛の女神アルディナ様を祀った建物だ。
もうね、当たりですよ。例の人物はアンリですよ。
「そっか……。アンリだったんだ」
私は組んだ指に顎を置き、しみじみと了知した。斜め下に目線を落としていたアンリが、頬杖をついたままこちらを見やる。「次はお前が話す番だ」とでもいうように。




