4.手の届かない場所へ行かないで
送還の儀まであと三日。昨日も特に収穫はなし。そして、それらしき相手からの接触もなし。相談相手も限られ、正直、今後どうすればよいか出口が見えなかった。
一人で考えるにも情報が不足し過ぎているし、情報収集もうまくいっていない。思いっきり躓いている現状だ。おまけに今日はポチが神界とやらに招致されているので、夜まで相談すらもできない。
「ナデシコ様、具合が悪いんで?」
呼びかけられて、ハッとする。
今日の護衛担当であるバーナードさんが心配そうにこちらを見ていた。
「いえ、大丈夫です。本に引き込まれてました」
ニコッと笑って絵本のページを指差す。するとバーナードさんは人懐っこく「良かった」と笑った。
バーナードさんはがっしりした体型をしていて、護衛の中でヒューズくんの次に背が高い。ムキムキの筋肉に強面と敬遠されがちな容姿をしているが、中身は陽気なおじさんだ。歳は確か、四十を過ぎたくらいだと聞いた。
「あー……ナデシコ様、もうすぐ嫁が弁当を届けにくるんで、ちっとばかし待っててもらってもいいですかい?」
精悍な顔を申し訳なさそうに歪め、ガシガシと頭を掻くバーナードさん。書庫の入口にある時計をちらりと見れば、時刻は昼にさしかかろうとしていた。
「もうこんな時間なんですね。全然いいですよ。私も部屋に戻って昼ご飯を食べてくるので、奥さんとゆっくりしてきてください」
愛妻家であるバーナードさんは、奥方との時間をとても大切にしている。結婚して二十年も経つらしいのに、お熱いことだ。きっとおじいちゃんおばあちゃんになってもデートとかするんだろうな。……羨ましい。
「いつもすんません。ほんじゃ、部屋まで送ります」
「あっ、お構いなく。一人で大丈夫ですよ。早く奥さんのところに行ってあげてください」
マメ大神殿には五つの書庫がある。今私が居るのは第五書庫で、神殿の奥の方に位置しており私の部屋と近い場所にあった。神殿は奥に進むにつれ警備の目が厳しく安全なので、ここからなら一人で部屋に戻っても危険はないだろう。
(……まあ、こっちに来てから一回も危険なメに遭ったことなんてないんだけどさ)
「ええ? いいんですかい?」
「はい。ここから部屋まで近いですし、警備の方もいらっしゃいますから」
すまなさそうに、だけどどこか嬉しそうにブラウンの瞳を輝かせたバーナードさんへニコリと微笑む。すると彼はいかつい面をめいいっぱい破顔し、「ありがとうございやす! ほんじゃ、二時頃にお迎えに上がります」とデカイ声で吠えた。まるで大型犬のよう。
そうそう。蛇足だけど、この国ではバーナードさんみたいな人が「美形」と称されている。ガタイがよくて、大きめの鼻で、顎が太い、そんな偉丈夫が女子の間で大人気なのだ。カルチャーショック。
ルンルンしているごつい背中を見送り、絵本を閉じる。絶えることのない考え事で疲れていたせいか、急に気が抜け眠くなってきた。
(十一時半か。昼ご飯までまだ少しあるな)
窓からそよぐ風は爽やかな暑さを運び、石造りの空間はひんやりとしていて。二つが調和し、丁度良い温度を作り出している。
第五書庫には私一人。座っているソファーはふかふかで、なんだか離れたくない。このまま身を任せて微睡むのもいいのではないか。直に食事時になるので、神殿関係者もそうそうやって来ないだろう。
(……三十分だけー……)
ソファーの肘掛に頬を落とし、姿勢を横に崩す。十二時になれば城の大時計塔が鐘を鳴らすため、すぐに起きられる自信がなんとなくあった。ほら、寝起きの「あと五分」みたいな。
ほんのちょっとだけうたた寝しようと決めた私は、じわじわと眠りに落ちていった。
*
さわさわと植物が風に撫でられる音。心地良い自然の音楽が徐々に明瞭になってゆくと共に、私の意識もはっきりとしてきた。
(……んうー)
目覚めたばかりの脳はぼやけていて、のっそりと起き上がりながら寝ぼけ眼を擦る。視界にちらついた壁掛時計は、十一時五十五分を指していた。およそ三十分寝ていたことになる。
(ん?)
いい時間に起きれたな、と思ったところで、目を擦る左指の異物感に気付く。何かが触れているような、軽く圧迫されているような……とにかく、何かあるなと感じた。
左手を顔の前に上げ、パーの形に開いてみれば。
(……なんだろこれ。薬指に輪っかがひっついてる)
左から二番目の指の根元に輪を描く、キラリと光る銀色の金属。
「……!?」
寝起きで鈍くなっていた思考は、数秒遅れでそれが何なのか理解した。
(指輪!? それも薬指に!?)
くわっ! と瞼を見開き、食い入るように凝視する。私に指輪を身につけた記憶はない。こちらに来てからこの方、アクセサリー類の所持すらしていなかった。そしてこの銀色の指輪に見覚えもない。
ばくばくと心臓が脈打つ。顔に熱が這い上がり、私の頭は目まぐるしく回転をしていた。
(これはもしや例の祈った人の仕業!? 接触キター! って私が寝てるうちにされても誰か分からないじゃん!)
バババッと辺りを見渡し気配を探るも、第五書庫には私以外の人間はいないようで。私に指輪をはめたであろう人物の姿を求め、まだ近くにいないかとドアに駆け寄る。慌てていたせいか貫頭衣の裾を踏んづけ、こけそうになってしまった。だがそんなこたどうでもいい。
白を基調とした廊下に文字通り飛び出て、人影を探す。しかし、誰も見当たらない。人の声も足音もせず、通常通りの静けさが廊下を満たしていた。
(警備の人、警備の人!)
滑らかな石材の廊下を衝動のままに早足で進む。第五書庫は解放された場所であるため、警備はついていない。ならば、第五書庫へ至るまでの通路に配置されている神殿騎士にあたってみようと考えたのだ。
「あの、勤務中にすみません。どなたか第五書庫に来た人を見かけませんでしたか? それか、第五書庫から出てきた人。十一時半頃から今までの間で」
あがりかけた息を整えつつ、角を曲がって初めに出くわした神殿騎士に声をかける。どこかで見たことのある顔だが、名前までは知らなかった。
「第五書庫からですか……。申し訳ありませんが、私は存じません。この位置からでは第五書庫は視界に入りませんので。ナデシコ様、何か異常でも?」
中年の神殿騎士は一瞬視線を下げ、首を横に振って槍を持つ手に力を入れた。私の急いている様子を見てただ事ではないと思ったようだ。まあただ事ではないんだけど、彼が予想する物騒なものではない。
「いいえ。特には。……誰かが私を訪ねて第五書庫まで足を運んでくれたようなんですけど、夢中で本を読んでいて気づかなかったんです」
咄嗟の嘘で誤魔化しをかけると、「そうでしたか」と神殿騎士は声を和らげた。
「第五書庫に行かれたかどうかは分かりませんが、おっしゃる時間帯でここを通った者は何人かおりました」
神殿騎士の目線が再び僅かに下がる。なんだろうとは思ったものの、今の私にそこまで汲み取る余裕はなかった。
「えっ! どなたか教えて頂いてもいいですか?」
早歩きしたからか、興奮しているからか、体の熱がなかなか引かない。
ただただ私を突き動かしているのは、「知りたい」という強い気持ち。いったい誰が指輪をはめたのか、その人が私を帰したくないと祈ったのか。
第五書庫付近をうろついていた人が誰か分かれば、少しは何か掴めるかもしれない。いや、例の人物にかなり近づけるのではなかろうか。
「はい。皆ナデシコ様の護衛を務めている者でした。初めにヒューズ・サルーキ、次にダックス・モモ、最後にアンリ・ワイラルロット様になります」
──瞬時、私の刻が止まった。あれほど鳴り打っていた鼓動さえも止まりそうになった。瞬きひとつと、できなかった。
「──そう、ですか。ありがとうございます。他にはいませんでしたか」
驚いて、疑問だらけで、ひどく混乱していた私は、それらを表に出さないよう口を開く。返ってきたのは「その三人以外、私は確認しておりません」という言葉だった。
「ありがとうございます。助かりました。では失礼します」
「はっ。光栄でございます」
もう一度お礼を言えば、神殿騎士は上半身を左に傾け敬礼する。普段だったら日本とかけ離れたお辞儀を滑稽だと思うのだが、今はそんなユーモラスな感情など沸かない。口の中がカラカラだ。
(ヒューズくんと、モモと、アンリ?)
三つの名前がぐるぐると回る。回る、回る、回る。ひたすらに回る。
(嘘。まさか、あの三人のうちの誰かが?)
ロクに前も見ずふらふら歩きながら考量していると、いつの間にか部屋に到着してしまっていた。大神官から借りている鍵で扉を開け、ぼんやりと中に入る。扉を開ける際に指輪が目に移り、ますます気分が重みを増した。
一先ず体を落ち着けようとソファーに腰掛ける。自分の領域に戻った安心感からか、盛大な溜息が出た。肺の空気が漏れてゆくにつれ、思わず俯いてしまう。
と、ここで首に違和感を得た。私の俯く動作に連動して、何かが首元に食い込んだのだ。
(?)
違和感のある部位へ手をやれば、手触りの良い感触。幅一センチ程度の滑らかなそれは、首をぐるっと一周していた。
(──っ!)
即座に立ち上がり、浴室へ向かう。脱衣所の鏡の前に慌ただしく立つと、鏡面にいる私はチョーカーをつけていた。それも赤の。
(あの神殿騎士のおじさんが目線をチラチラ下げてたのは、このせいだったんだ)
「……マジか」
この世界において「赤のチョーカー」とは特別な意味を持つ。
赤は愛の女神を象徴とする色。首は命の切れ目を示す部分。太古、この二つが合わさり、生涯をともにする異性へ赤いチョーカーを送るという風習がとある国に根付いた。それは各地に浸透していき、今では世界中の夫婦が互いに送りあった赤いチョーカーを装着している。
──命の切れ目が訪れるまで、あなたに愛を誓うと。「赤いチョーカー」にはそんな意味が込められている。
もちろん、私は赤いチョーカーなどもらったこともなければ、つけた覚えもない。
あの眠っていた三十分の間に、誰かがつけやがったのだ。……指輪と一緒に。
そこまで認識したところで、ハッと閃が舞い降りた。
(私、日本での一般的なプロポーズと結婚指輪のことを話した時があった)
ぶわわわーっと過去のワンシーンが蘇る。
あれは私がこちらへ来てどのくらい経った頃だろうか。少なくとも、神殿の人々と打ち解けてきていた時期ではあった。なぜならその時、楽しくお茶会を開いていたのだから。
神殿の中庭。白く大きな丸テーブル。フルーツティーと茶菓子。みんなでテーブルを囲んで、わいわいくっちゃべってて──何かの拍子に、ああそうだ。神殿で結婚式があったって話題が出たんだ。そこから求愛とか結婚の風習の話になって……。
赤いチョーカーについてリリーが得意げに、夢見るように教えてくれた。そのあと私はリリーの話のお返しに、婚約指輪の存在や、左手の薬指に指輪をはめることの意味を語った。
後にも先にも、結婚にまつわる日本の風習を出したのはそれっきりだったように思う。
そして、その時にテーブルに着いていたのは。
(私、リリー、エメリア、アンリ、モモ、ヒューズくん)
気付けば、鏡の中の私が難しい顔をしていた。思いっきり眉間に皺が寄っている。
(見事に三人揃ってるじゃん)
神殿騎士が口にした人名と、日本でのプロポーズの風習を知っている人物が面白いほどにピッタリと一致している。これは、あの三人のうちの誰かが、と考えるのが筋だろう。
「えー……誰よ。もー」
三人とも最初の方に候補から外していただけあって、私の戸惑いと驚愕は半端じゃない。今でも信じられない気持ちでいっぱいだ。
(くっそー……面と向かって告白もせず、こっそりプロポーズしてくるなんて)
無性に悔しくなり、あそこでうたた寝してしまった自分を責める。もし眠っていなければ、もっと別の──違う方法でチョーカーと指輪を受け取ることになっていたかもしれないのに。や、オーケーするかは別問題で。
(いやでも、ヒューズくんかモモかアンリって、マジ? 灯台下暗しなんだけど)
チョーカーと指輪の事はさておき、枠がぐんと狭まった。ていうか、この三人の中の誰かなのは間違いなさそうな気がする。ポチが神界から帰ってきたら相談しよう。……多分特定できるような助言はくれないだろうけど、でも身近に話せる人(犬? 神獣?)がポチしかいないんだもん。
ああ、リリーかエメリアに話せたらなあ。
(ん? 待てよ。この流れなら話せるんじゃない? 私の事を好きな誰かが祈ったとか、祈られたから帰れなくなったとか云々は置いといてさ)
そうだ。肝心な所は隠して、今日のこの出来事だけだったら言っても不都合はないのではなかろうか。公にはならないよう、口止めはキチッとして。うん、いいんじゃない?
(よし、さっそく昼食のときにでも──)
コッ、コン。コッ、コン。
シーバマメ式のノックがされ、「ナデシコ様、お昼をお届けに参りました」と朗らかなリリーの声が聞こえる。
(やば、リリーが来た!)
「ちょ、ちょっと待ってー!」
チョーカーと指輪をあたふたしつつ外し、貫頭衣のポケットにつっこむ。さすがにつけているところを誰かに見られるのは恥ずかしいし、絶対誤解を招く。リリーはそういう話に目がない。
外してみて思ったのだけれど、チョーカーも首輪もサイズがピッタリなのは何故だ。いつ測ったのこれ。目測? 知らない間に測られでもしてたら、それはなんか気持ち悪いなあ。いくら知り合い以上の仲でもさ。
「ごめんごめん。いいよ」
浴室を出て扉に向かい、リリーを出迎える。リリーは琥珀色の瞳を少し丸め、「何かあったのですか」と首を傾げていた。
*
「……と、こんな出来事があったんだけど、リリー、どう思う?」
ポチのいない一人での昼食もほどほどに切り上げ、片付けに取り掛かっているリリーへ先ほど起きた事を伝えた。予想通りというかなんというか、リリーは琥珀色の垂れ目をキラキラさせ、「まあ」「まあ……!」「まあ!」「まあ!!」と、みるみるヒートアップしていった。
「ナデシコ様と同じく、私もあの三人のうちのどなたかだと思います」
銀のトレイに食器を乗せ終えたリリーが私の側に詰め寄ってくる。ものすっごい瞳をキラッキラ光らせて。
「ダックス様かしら? いえ、でもあの方には想いを寄せる相手がいると聞いた事が──っもしや、それがナデシコ様!? ですけどダックス様とナデシコ様には十近いお歳の差が……。それならアンリ様でしょうか。アンリ様はナデシコ様と同い年ですものね。……けれど、アンリ様はいつもナデシコ様に失礼な物言いばかり──はっ、あれは照れ隠しだったのでは!? それなら合点が、……にしても、毒舌が過ぎます。ナデシコ様を好いた素振りはなかったように思いますし、やはり違うのかしら。その点、ヒューズ様はナデシコ様に親切で、よく尽くしてらっしゃいますよね。先日もナデシコ様のためにヒューズ様が絵本を探し出したとうかがいました。真面目なだけでそこまでしますでしょうか? 愛ゆえに、ということも十分考えられます」
(り、リリー……)
火の点いてしまったリリーはマシンガントークを止めない。その小さな唇から、よくもまあこれだけ言葉が次々出てくるもんだ。
「三人ともそれぞれ疑わしいですね。ですがどれも決定打に欠けます。アンリ様だという可能性は低いように思いますけれど……」
「うん。私もアンリはまずないかなーって思った。どっちかっていうと嫌われてる気がするし」
「……それでも、人の心はその人にしか分からないものです。もしかしたら、ということも有り得ます。アンリ様ではないと決め付けるのはまだ待った方が良いかと」
「うーん……それは、そうだけど」
いまいち、アンリが私の事を好きだとは思えない。でも、リリーの言うように判定を早まるのは得策ではないだろう。一応アンリも候補に残しておくことにするか。
「ナデシコ様。私、コリンに探りを入れてみます」
口ごもった私へそう言い、リリーはどんと自分の胸を叩いた。まるで「任せておけ!」とでもいうように。
「えっ、ほんとに? 大丈夫なの?」
そりゃ、私やリリーよりコリンの方があの三人について何か知ってそうではあるが、コトをあまり大きくしたくない。リリーからコリンへ、コリンから他の神殿騎士へ、神殿騎士から神殿中へと話が漏れていかないか心配だ。
「はいっ。お任せ下さい!」
キラキラキラ。琥珀色の瞳がこれでもかというほど輝いている。この子、妙なスイッチ入っちゃってるわ。私のためにと動いてくれるのはいいんだけど、自分の恋愛にも目を向けてほしいなー。これじゃコリンが報われない。
「くれぐれも内密にね。あんまり人に知られたくないんだ。エメリアにも相談してみようと思うけど、今のとこ私とリリーだけの秘密だから」
浮ついているリリーをじっと見つめ、しーっと自身の唇に指を当てる。するとリリーはキュッと口を固く結び、真顔になった。
「……承知しました。その信頼を決して裏切りはしません。私はいつでも、どんな時もナデシコ様のお味方です」
いつでも、どんな時も。
そう。彼女は本当に私へ真心を尽くしてくれている。
こちらに来てから、日本への郷愁、文化の違いへの困惑、慣れない生活での疲れ……ポチだけでは埋まらないものも幾らかあった。だけど、リリーやエメリアを初めとする神殿の人々の心遣いのおかげで、精神を病むことなく私は生きている。
それはすごく、恵まれたことなのだ。
「ありがとう。リリーって本当にいい子だよね」
茶色のショートヘアをさらりと撫でれば、リリーは頬を染めてはにかむ。こんな妹がいたら良かったな。もちろん、エメリアもセットで。
「ナデシコ様……」
潤んだ眼で見上げられ、庇護欲が掻き立てられる。もしも私が男だったなら、リリーとの関係は少し違っていたかもしれない。
「じゃあ、よろしくね。無理はしなくていいから」
「はいっ! 必ずや朗報を届けてみせます!」
意気込むリリーを扉まで見送り、私は部屋に一人になった。バーナードさんが迎えに来るまで部屋でゴロゴロとしていたが、やはりあの三人のことが気になって、この日の午後は始終落ち着かなかった。
*
夕方、夕食の準備に来てくれたエメリアにもリリーと同様の話をした。エメリアは琥珀色の瞳を興味津々とさせ、黙って私の声に耳を傾けていた。話を聞き終えた彼女は、静かに助言をしてくれた。妹のリリーとは対照的である。
エメリアは「時が来るまでそっとしておいた方が良い」と、穏やかな口調でそう言った。
「きっと、相手の方はナデシコ様に気を遣っているのです。直に故郷へ帰るあなたの足枷にはなりたくないと。……けれど、それでもナデシコ様への思いが抑えきれなかったのですね。だから、直接思いを告げず、眠っているナデシコ様にそのような行為をなさったのでしょう。人はいくつもの矛盾を抱えた生き物です。そのお方は今、ナデシコ様を引き止めるのか見送るのか、とても悩んでいると思います。ですから、その方なりの答えが出るまで待ってみてはどうでしょうか。ヒューズにしても、アンリ様にしても、ダックスにしても、答えを出せないような意気地のない男ではありません」
私の手をそっと取ったエメリアは、私より二つ下であるにもかかわらずすごく大人びた表情をしていて。ああ、確かにそうだな。と、すんなり思わされた。
お礼を述べて手を握り返すと、エメリアは微かに頬を赤くして優しく微笑んだ。
「お役に立てて光栄です。また何かあればいつでも声をおかけください」
そうしてエメリアは退室し、私は部屋に一人となった。
不思議なことに、あんなにもソワソワしていた心がひどく凪いでいた。それまでは誰が犯人なんだと気になってしょうがなかったのに。
エメリアの言うよう、相手の出方を待つ、というのも一つの手だなとしみじみ思い、私は考えの矛先を変えた。
相手を特定するのではなく、もっと先を見据えた──私自身の未来について。
もしもあの三人のうちの誰かに告白されたなら、私はどうすればよいのか。日本に帰るために諦めさせるのか、それとも、その人と人生を共にしここに永住するのか。
もの凄く難しい問題だったが、相手が絞られた今、そろそろ考えておかないといけないなと気が引き締まった。
*
「おかえり、ポチ」
「うむ。ただいまじゃ、撫子」
神々のおわす神界から帰還したポチを出迎え、さっそく私は今日の事件について話した。ポチはさぞビックリするだろうと思っていた──のだが。
「知っておる」
「ええ!?」
何一つ揺らがず言ってのけたポチ。驚いたのは私の方だったわ。
「おぬしには悪いが、神界で見ておった。……その、愛の女神アルディナ様がどうしても気になると言ってのう」
くっ、神様コノヤロー! 盗み見なんていい度胸してるじゃないの。
ムスっとした私にふわふわの頭を擦り付け、「そうむくれるな」とポチが宥めてきた。あー、相変わらずすっごい癒される毛並み。これも日々のブラッシングとシャンプーの賜物だ。
いい匂いのするふわふわの毛に埋もれ、悔しいが許してやろうと思ってしまった。でも、皮肉の一個や二個くらいは言わせなさい。
「神様って、なんでもお見通しなんだね」
声を尖らせれば、「これ、撫子」と少し睨まれた。
「ごめんごめん。けど、知ってたんなら先に言ってよ」
「いや、その、のう……」
ポチは歯切れ悪く口をもごもごさせ、アイスブルーの瞳を逸らす。ああ、私の心境を思って言いにくかったのかな。私に気を遣ってばっかりで、ほんと、どこまでも人間臭い犬(神獣)だなあ。
なんとなく可笑しくなって、笑ってしまう。
「何を笑っておるか」
「ん? 別にー?」
「う、嘘を申せ」
「あはは。やっぱり私、ポチが好き」
首に両手を回せば、ふさふさの銀の毛並みが私の腕に沿って沈む。
「んなっ、なんじゃ、唐突に。そのような小っ恥ずかしいこと、やすやすと口にするものではないっ」
「なーに照れてんの? 私とポチの仲なのに」
ニヤニヤしながら首に巻きついている私を剥がそうと、後ずさりしていくポチ。しかし私は離さない。
「これ、いい加減に──」
「あのさ、ポチ」
抗議の声をあげようとしたポチを遮り、私はポツリと口を開いた。笑いと冗談の抜けた声音に何かを感じ取ったのか、ポチはピタッと静止する。
「私、もう躍起になって相手を探すのやめた。誰なのかは気になるけど、待ってみようかなって思うんだ」
私を帰したくないと祈った人。私に好意を抱いている人。
誰なのか気にならない訳ではない。知れるのなら知りたいとも思う。
だけど、どんなに私があがいても、相手が動いてくれなければどうにもならないこともある。また、悩み苦しんでいるのは私だけでない。相手もそうなのだ。
私は自分のことばかりを考えていた。相手がどんな思いで私に指輪をはめたのか、チョーカーをつけたのか、エメリアと話しをするまで慮る事ができなかった。
答えを探しているのは私だけではなく、相手も同じ。
では、私は相手が答えを出すのを待とう。引き止めるにしろ、見送るにしろ、あの三人のうちの誰かが私に答えを教えてくれる。根拠はないが、どうしてだかそんな気がしてならなかった。
「……撫子、顔を見せてみよ」
しばしの沈黙ののち、ポチは静かに言った。私はそれに従い、ゆっくりとポチから離れる。
「良い眼をしておるな」
フッ……と鼻で息を吐き、銀の獣は穏やかに笑った。
「でしょ? 今まで散々悩んだけど、一歩前進した感じ。まあ、後ろに下がっちゃうかもしれないけどね」
「よいよい。それが『人』というものじゃ。前に後ろにと彷徨ううちに、自ずと答えは見つかるじゃろうて」
「……うん。そうだね」
和やかに笑い合う一人と一匹。異世界に来て良かったと思うことの一つは、「ポチと意思疎通ができるようになった」というものだ。あのまま日本に居たのなら、こんな風に笑ったり、相談したり、冗談を言い合ったり──感情や思考を共有することはできなかっただろう。そこは、神様に感謝してる。
「……でさあ、ポチ。やっぱり私に指輪はめたりチョーカーつけたりしたの、あの三人の中の誰かなわけ?」
「! これ、おぬし! 先刻申したことはどうしたのじゃっ」
「だから、後ろに下がっちゃうかもしれないって言ったじゃん」
「おぬしという奴は……!」
「それだけ教えてよー」
「ならぬっ! ほれ、わらわはもう休むぞ」
「はーい。やっぱダメか」
「ダメじゃ」
「分かった分かった。ごめんねポチ」
尻尾をプリプリ振ってベッドへ向かうポチの後ろ姿に思わず笑ってしまう。
「歯磨きしたら私も寝るよ」
「……うむ。はようせい」
つっけんどんな返事は、拗ねた子供のようだ。そんなところも好きなんだけど、ポチって地味にツンデレ属性だったりするかも。
脱衣所で歯磨きを済ませ、蝋燭の火を消しベッドに潜り込む。今日は美しい星空で、窓から仄かな星灯りが差していた。淡い光に映し出されたポチは瞼を閉じていたが、私が隣に寄り添うとうっすら片目を開けた。
「ポチ、おやすみ」
「……おやすみ」
掠れて聞こえたハスキーヴォイスが心地良く、私は久しぶりにすーっと寝付くことができた。




