1.ニホンに帰したくない
「撫子、おぬしを日本に帰してやれなくなった」
そう言って、私を見つめるアイスブルーの凛々しい瞳。
「は?」
急な話に耳を疑い、間抜けな声を出す私。
「……じゃから、帰してやれなくなったのじゃ」
目の前のお犬様はふさふさの銀尻尾を垂らし、バツが悪そうに顔を逸らす。
「え?」
自分の表情が徐々に巌しくなっていくのが分かった。
「何それ、マジ?」
人払いのされた静かな広間に、動揺した私の低い声が響く。
銀色の獣は押し黙ったまま、白く滑らかな石の床に視線を落とした。
「ちょっと、本当なわけ? どういうことなの?」
いつもと違う雰囲気に焦りが生じた。私の第六感が危険信号を発する。
「詳しい理由は言えぬが、おぬしを故郷に帰したくないと神に祈った者がおる。そして神は、願いを聞き入れた」
ゆっくりと面を上げ、重々しく口を開く銀色の獣。
「えっ」
誰が、なんて? 祈り? 私を帰したくない? 神様が願いを聞いた?
「わらわは神獣。神の御使い。神の命には従わねばならぬ」
回転数をあげた脳が状況を飲み込もうと働く裏で、漠然としたものがこみ上げてくる。
──私は、日本に帰れない。
「すまぬ、撫子」
呻くような謝罪の言葉に、私はしばらく何も言えなかった。
*
銀色のふさふさした毛皮、アイスブルーの澄んだ瞳、立てば私の身長に届きそうな大きな体躯──。
我が家の愛犬ポチ(雑種、雌九歳)は、とある世界のとある国を守る神獣様だった。
野良の子犬だったポチを拾った高校二年生の私は、そんなこと露知らず。かわいいポチへたくさんの時間と愛情を注いでいた。
一人っ子だった私にとってポチは大きな支えであり、特に両親が亡くなってからは家族同然の存在だったのだ。
そんなポチのお里帰りに巻き込まれ、ポチと散歩をしていた私も一緒に異世界へ飛ばされた。
体を横掴みにしてひっぱられたような感覚に驚き、見知らぬ場所に戸惑い、それはそれは茫然とした。挙句ポチは人語をしゃべりだし、「これはユニークな夢だ」と思わず現実逃避してしまった。
冷たい石の床にへたり込み、ポカーンとしている私へポチは言う。
「すまぬ、撫子。巻き込んでしもうた。わらわの力が戻れば無事地球に帰してやるゆえ、それまでわらわの供をせい。なあに、心配するな。神獣たるわらわがついておる。大船に乗ったつもりでゆるりと過ごすがよい」
本来、神獣として異世界に生れ落ちるはずだったポチは、運命の神のいたずらで私たちの世界に来てしまっていたそうな。そのことにようやく気付いた主神がポチを異世界に呼び戻す際、近くにいた私も巻き込まれたんだと。
ポチを召喚したのは異世界の主神だったが、次元を渡るにあたり、ポチも自分の力を半分使った。
私を地球に帰す事は可能だけれど、今のポチの力では足りないらしく、力が十分に回復するまで一年を要すと言っていた。また、ポチの力は国土を潤したり、災害を食い止めたり、病を癒したりと多岐にわたるもので、私のためだけに使ってもよいような代物ではなくって。
「じゃあ、主神にお願いすればいいじゃない。だいたい、間違って私を連れてきたのは主神なんだし」
そうポチに告げると、ポチはふさふさの毛皮をふるふる揺らした。
「ならぬ。主神は人へ直接介入せぬのじゃ。主神の命を受け、わらわ達神獣が人を助け、守り、願いをきく。のう撫子、そう帰りを急ぐことはなかろうて。おぬし、先月『りすとら』されたばかりで、次の就職先も見つかっておらぬであろう? 前々から思うておったが、おぬしは働き過ぎなのじゃ。ここらでひとつ、休息せい。『なつやすみ』じゃ、『なつやすみ』」
まさか飼い犬に痛いところを突かれるとは思わなかった。
そう、私は今年の二月にリストラされていたのだ。個人病院のしがない受付をしていたのだけれど、勤め先が経営縮小するということで、経費削減のために人員カット。残業もないし給料もそれなりだったので、気に入っていた仕事だったのだが、院長の人事は厳しかった。
高卒で働きに出た私は役に立つ資格を有しておらず、不況の波にあおられなかなか次の職が見つからなかった。職がなければ職務もない。なので、ポチの言うとおり、すぐさま日本に帰る必要はなかった。幸か不幸か、私を待つ家族もいない。
夢の中にいるのかもしれないと思いつつ、「しばらく異世界で暮らさないといけないのかな?」と、妙に受け入れそうになっている自分がいて。
私は元々神経質でも、思慮深い性格でもない。けっこう大雑把で、どちらかというと呑気な方だ。
だから、あんな奇妙な状況に直面しても、そこまで思い悩んだり、考察に耽ったりするには至らなかったのだろう。そしてそれは、愛犬ポチのおかげでもある。私一人だけだったら、パニックになっていたに違いない。
石造りの静かな広間でしばしポチと話し合い、結局私はポチの力が戻るまでこちらの世界にやっかいになることにした。三月なので「夏休み」ではないけれど、「いつか海外旅行に行きたい」という密かな野望もあったので、ちょうどいいのかもしれない。
もしもこれが夢ならば、それはそれでいいと思った。大好きなポチと会話ができるなんて、素敵じゃない。それに、国を守る神獣だとか、聖なる神殿だとか、御伽噺に入り込んだみたいでちょっとワクワクする。
こうして、昔忘れた童心に揺さぶられ、現実味のないままに私の異世界生活は始まった。一年という期限付きで。
*
私とポチが飛ばされたのは、日本でも地球でも火星でもなく、別の次元にある「異世界」。シーバマメ神国のマメ大神殿、「聖殿」と呼ばれる最奥の広間だった。
神の御使いたる神獣ポチの本当の名前は、「エヴェニー」といった。長年連れ添ったポチが遠くに行ったみたいで寂しかったけれど、呼び方も態度も変えなくて良いと言われて嬉しかった。
ポチは国を守る神獣だったが、私といる時は「ポチ」でいてくれたのだ。見知らぬ場所で見知らぬ人に囲まれた異郷での生活において、それがどんなに心強く、心の拠り所になったことか。
マメ大神殿の最高権力者である大神官の厚意もあり、私とポチは日本に居た頃と同じように寝食を共にしていた。ポチの仕事の邪魔だけにはなりたくなかったので、いつもベッタリというわけではない。
私はポチ(神獣)の無二の友人としてシーバマメ神国に受け入れられ、大層な賓客扱いを受けた。
私が日本に帰るまでの間、安全な衣食住が約束され、それらは違うことなく私へ与えられた。またそれだけなく、城や神殿の人々は観光や娯楽といった楽しみも提供してくれて。もう当分、海外旅行はしなくて良さそうだと思った。
文化の違いに戸惑うことはあったけれど、ポチの摩訶不思議な力で言葉は通じたのでそう不自由はしなかった。お茶会仲間や緑を愛でる同士もでき、新しい人間関係もそれなりに良好だった。
そんな居心地のよい生活にも、終わりは来る。
神より賜りしポチの神力は、着々と回復していった。国を襲う疫病や干ばつを打ち払う一方で、ポチはきちんと私を日本へ帰す準備をしてくれていた。
予定より半年も早く私を送還できそうだと聞き、故郷への懐かしさととともに、ポチやこの世界と離れる事への淋しさも生じた。六ヶ月間の異世界生活で、私はすっかりこちらへ馴染んでいたのだ。
とは言っても、こちらの世界で私は「異分子」にあたり、残留する義務も理由もない。また、私を日本へ送り返す事は、ポチの主である主神によって定められていた。だから、どんなに居心地良くても、どんなに別れが辛くても、時が来たら帰らなければならないと腹をくくっていた。
送還の儀が執り行われるまで、あと一週間を切った。悔いのないよう、めいいっぱい異世界を満喫しようと心に決めていたのだが。
──ここで、冒頭に戻る。
*
「ポチ、それは事実なの?」
マメ大神殿の最奥、ポチの仕事場でもある「聖殿」。彫刻の施された円柱が等間隔に立ち並ぶ、白を基調とした長方形の静かな空間に、私とポチはいた。
「……うむ。いくらわらわに茶目っ気があろうとも、このようなタチの悪い嘘はつかぬぞ」
「でも、私が日本に戻るのって、神様も決めてた事じゃん。『私』は違う世界の生き物だからって」
「主神はおぬしを日本に帰すべきだと考えておられたが、神に祈りを捧げた者が現れたことにより事情が変わった」
「えー……ここに来て心変わり? じゃあ、ホントに帰れないの?」
奇妙な感覚だった。
日本に帰れないということに落胆しつつも、まだここに居れる、ポチと一緒にいられると、変にほっとしてしまう自分がいて。
相反する二つの気持ちが入り混じり、正に複雑そのものだ。
「ほんにすまぬ、撫子。あと六日で日本に帰してやると断言しておきながら、この有様じゃ。わらわを責めるがよい」
「せっかくお別れの品を作っているのに」と、さほど重要でないことをふと思ってしまったが、それはすぐに吹き飛んだ。
しょんぼり垂れた銀尻尾。クゥーンとか細く鳴いたポチは、本当に申し訳なさそうで。
「ポチ……」
慰めるように銀色の体を撫で、隣に腰を下ろす。
ここで私はポチの言葉を元に情報整理を始めた。
『詳しい理由は言えぬが、おぬしを故郷に帰したくないと神に祈った者がおる。そして神は、願いを聞き入れた』
『わらわは神獣。神の御使い。神の命には従わねばならぬ』
私が日本に帰れなくなった原因。それは誰かが「私を日本に返したくない」と祈り、神様が願いを聞いたから。ポチは主である神様に逆らえないので、神様が私を日本に帰さないと決めたなら従うしかない。
ぶわわっと、疑問が広がっていく。
誰が、何のために? いつまで? 神様の心境が変化する祈りって、何?
私はポチを撫でる手を止め、アイスブルーの瞳を見つめた。
「ねえ、誰が祈ったの?」
聞けば、露骨に視線が逸らされる。
「……言えぬ」
「えっ、なんでよ!?」
「言えぬのじゃ」
「何それ、どういうこと?」
ずいっとポチに詰め寄るも、ポチは「言えぬ教えぬ」の一点張り。
「私、当事者なんだから教えてくれてもいいんじゃないの!? ちょっと、ポチ、なんとか言いなさいよ!」
ついつい声を荒げる私と、目を合わせようとしないポチ。
どうしてこんなに頑なに拒むのだろう。この世界に来てこれまで、ポチが私に隠し事をしたり、私の真面目なお願いを蹴ったりすることなかったのに。そんなポチが口を噤むなんてこと──あ。……もしかして。
「神様に、口止めされてるの?」
一瞬、ポチの瞳が揺らぎ、耳がピクリと動いた。
(──ビンゴ!)
「なになに、そんな口止めされるような人が祈ったの? なんで? どんな目的で?」
矢継ぎ早に質問を繰り出していると、ポチが「ウォン!」と吠えた。
「ええい、やかましいっ! とにかく、おぬしには悪いと思うておるが、言えぬものは言えぬのじゃ!」
聖殿の奥に引っ込もうとするポチの首に両手を巻きつけ、逃げられないようがっちり抱きつく。ふっさふっさの毛並みが気持ちいい。
「嫌よ! おーしーえーなーさーいーっ」
「これ、離さぬか! 全く、おぬしは往生際の悪いやつじゃ」
そんなやり取りがしばらく続くも、ポチは一向に口を割りそうにない。神聖な聖域で何やってんだか。
徐々に諦めが出てきた私は、今すぐ情報を引き出そうとするのをやめることにした。
「分かった。ポチにはポチの立場があるもんね。もう聞かないよ。でも、一回だけでいいから神様に交渉してみてくれない? ちょっとだけでも私に教えていいことがないかさあ」
持ちかけると、ポチは鼻面に皺を寄せ「うぬう」と唸る。
「日本に帰れなくてすごくショックなわけじゃないけど、なんでそうなったのかやっぱり知っておきたいの。でないとモヤモヤするっていうか……納得できない」
うぬう、ぐぬう、うーっ、と、長らく考え込んでいたポチは、やがて大きな溜息をついた。なんとも人間らしい仕草である。
「……そうじゃのう。おぬしの申すことにも一理ある。今宵、主神に上申してみよう。ただし、一度だけじゃぞ」
「わ、ありがとう! うん、一回でいいよ。もしそれでダメだったら、私なりに調べてみる」
ポチは神獣。神様の御使い。主人にあまり楯突いて、不況を買ってもいけない。誰が何のために私をここへ縫い止めようとしたのか気になるが、ポチの立場が悪くなるのは嫌だ。
神様からお許しが出なかったら、自分で情報を集めてみよう。祈った人物や目的が分かったところでどうするのかと問われたら、まだなんとも言えないけれど。
でも、すっごく気になるんです。とりあえず、知りたいわけなんです。
ゴーン、ゴーンと、屋外で二時を知らす鐘が鳴った。直に昼のお務めになるので、そろそろ退散しなければ。
「じゃあ、また夜に結果を教えてね」
「……うむ。あまり期待するでないぞ」
「分かってるよ。ありがとうね、ポチ」
踝まであるゆったりとした貫頭衣を翻し、私は聖殿をあとにした。




