5.理由と独り言
大地が帰った後、雪音は再びオフィスチェアに腰かける。いすの背もたれに頭を預け、天井を仰ぎ見た。
何? どういうこと? わけがわからない。
私は確かに、必要以上に生徒や同僚と関わらない。けれどそれは中谷くんには関係無いはずだ。
雪音は一度頭をおこして、右腕をそっと見た。赤い点がはっきりと残っていた。
もう一度背もたれに頭を預け、目を閉じる。
何なんだろう。まさか、私のことが好き?
ふっと浮かんだ考えを、慌てて打ち消す。いや、ないな。ないない。あるはずがない。うぬぼれもいいとこだ。だって、中谷くんが図書局に入ってからまだ二週間もたってない。私だって彼のことをまだよく知らない。そしてそれは向こうも同じだろう。
第一、「好き」という言葉そのものに違和感を覚えてしまうほど、誰とも深く関わらずに生きてきたのだ。
じゃあ何だろう。
からかうとか、悪ふざけという感じではなかった。
『目をそらさないで下さい』と言った顔が思い浮かぶ。
私が、こうして自分の殻にこもっていることを良く思っていないのは間違いない。
もしかして、怒っているのだろうか。他の教師のように、親身になって生徒をサポートしない私を。
けれど、授業はきちんと受験対策に沿って行っているし、決して力を抜いてるわけではないのに。
そもそも私が受け持っているのは一年生の古典だ。二年の中谷くんには関係がない。
いや、関係がないとは言えないか。
ここは私立の進学校だ。
生徒の親はみな高い学費を払っている。それなのに、図書準備室にこもってばかりいたら、それは教師として怠慢だと言われても仕方ないかもしれない。
「教師として、もっと生徒と向き合え」と。そう言うことだろうか。
中谷くんは、たまたま怠慢な私に気づき、それを見とがめた。しかし私は取り合わなかった。それに業を煮やし、嫌がらせにキスをした。
……つじつまが合っている。雪音は閉じていた目を、静かに開いた。
天井を見たまま、誰にともなくつぶやいた。
「……それでも私は隠して、見ないよ」
雪音は立ち上がった。
仕事もはかどらないし、今日はもう帰ろう。
時計を見るが、図書室の閉館時間まではまだ1時間近くある。
閉館後に、自分の代わりに図書室の鍵を閉めてもらえるよう他の先生に頼んでみよう。
雪音は準備室だけに鍵をかけ、図書室を出た。薄暗い階段を降り、職員室へ向かう。校舎の端であるこの一帯は、いつも薄暗い。
その薄暗い廊下を曲がろうとした時、突然目の前に人が現れた。
「わっ!驚いたな」
曲がり角から現れたのは、佐野だった。
「佐野先生?どうしたんですか、こんなところに」
「いや、ちょっと図書室で調べものをしようと」
「そうなんですか。あっちょうど良かった。あの、佐野先生に頼みたいことがあるんですけど、いいですか?」
「はい、なんでしょう」
「私、今日はもう帰ろうかと思ってるんですけど、図書室の鍵、預けてもいいですか?」
「えぇ、構いませんよ。最後人がいないか確認して、鍵を閉めれば良いんですよね?」
「お願いします。誰も来ないようであれば、閉館時間より三十分くらい早く閉めてしまっても大丈夫だと思います」
佐野は鷹揚に笑ってうなずいた。
「任せてください」
佐野は雪音の顔をじっと見た。
「あの、なにか?」
佐野はゆるく首を横に振ってから言った。
「いえ。何か困ったことがあればいつでも相談して下さいね。授業のことでも、生徒のことでも」
「ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します」
佐野は、すれ違おうとした雪音の頭に、手をポンとのせた。
「お疲れさま。本当に、困ったことがあればいつでも言って下さいね」
「あっ……はい。それじゃあ」
雪音は戸惑いつつも一礼して、廊下をまた歩き始めた。
どうしたのだろう。佐野が雪音の頭の上に手を置いたのは、これが初めてだった。
雪音はそこでハッと気づいた。
少し前に腕につけられたキスマークが、むき出しのままだ。
一人でもんもんと考え事をしていたから、キスマークのことを失念していた。
佐野先生はこれを見たのだろう。キスマークだと気づいただろうか。いや、気づいたからこそ、さっきのようなことを言ってくれたのだろう。
それでも、直接指摘するようなことはしなかった。何も言わないでいてくれた。雪音はそのことに安心した。
佐野は雪音に対し、いつも適切な距離を置いて接してくれる。だからこそ安心できる。
先ほどまでの重たい気持ちが少しだけ軽くなったのを感じながら、雪音は学校を出た。