4.壁際の攻防
いつもどおり授業をして、いつもどおりに鍵を持ち、いつもどおり図書室へと向かう。
ふと、昨日の出来事が頭をよぎった。偶然告白される場面を見てしまったこと。そして見てしまったことに気づかれたこと。つい鼻先で窓を閉めてしまったこと。
これらを考えると、大地に会うかもしれない図書室に行くのが少し億劫だった。しかし図書室に行かないということは考えられなかった。雪音は自分の生活のペースをそんなことで乱したくなかった。
雪音は図書室へ繋がる薄暗い階段を登っていたが、階段の途中で足を止めた。
「こんにちは。先生」
大地が図書室のドアに寄りかかって立っていた。
「講習は?」
しかし大地はそれに答えず、言った。
「先生、ひどいですよ」
「……何が?」
雪音は階段を登りきり、大地の顔を見ずに図書室の鍵を開ける。すぐ横で、大地の声が聞こえる。いつもの穏やかな声ではなかった。
大地は「はっ」と笑った。
「目が合ってたでしょう?」
構わずに雪音は図書室に入り、準備室に向かう。大地が後ろからついてくるのがわかった。
「目が合っていたのに、無視するなんて」
どうやら盗み聞きしたことは怒っていないようだった。
けれど、どちらにしても、面倒だと思った。
わずらわしい。こういうごたごたが嫌いだから、準備室にこもっているのに。告白したとかされたとか、無視したとかされたとか、あんたたち青春の葛藤に私を巻き込むな。
準備室のオフィスチェアにどっかりと腰を下ろしたあと、雪音は少し首を傾げて尋ねた。
「……じゃあ何か言えばよかったの」
「手くらい降ってくれても良かったんじゃないですか」
「そんな場面でも無かったでしょう」
大地は、雪音に一歩近づいた。
「先生、俺を見てください」
雪音は目の前に立つ大地を見上げる。
「……見てるよ」
大地は悲しそうに首をふった。
「違う。先生は俺がここにこうして立っていても、俺を見てはいない」
大地が、さらに一歩近づいた。見上げるには、首が疲れる程の近さだった。大地の影が雪音の上に落ちる。
「俺だけじゃない。先生は、誰のこともきちんと見ていない。……もっと、ちゃんと人を見たらどうですか」
雪音は大地を見上げていた顔を下げて、ため息まじりに言った。
「なんで、あなたにそんなこと言われなきゃならないの」
大地は雪音の顎を持ち、上を向かせた。
「なんで、俺がこんなこと言うと思いますか?」
「……やめて」
上を向かされているからか、のどから引き絞るような声が出た。
雪音は大地から視線をそらす。
わからない。自分の置かれている状況がわからない。目の前に立つ生徒が、なぜこんなにいらだっているのかがわからない。
そこまで考えて雪音はハッとした。「いらだっている」。いらだっているという表現がぴったりだった。声を荒げるわけではなく、怒った顔をしているわけでもない。しかしこの生徒はいらだっている。いらだち、そして焦っているように見えた。
雪音は、ゆっくりと視線を大地に戻した。大地の目に、焦点が合う。
「なにをそんなに焦っているの?」
雪音のあごを持つ大地の手が、ピクリと動いた。
「焦っているように、見えますか」
雪音は、落ち着いた声で力強く言った。
「見える。何かに焦って、いらだってるように見える」
大地が少しうろたえたように見えた。
雪音は自分のあごを持つ大地の手首をそっとつかみ、あごから離した。
「何にそんなにいらだっているのか、私にはわからない。正直言って、特に聞きたいとも思わない」
雪音はオフィスチェアから立ち上がり、さりげなく大地と距離をとった。
「これから、古文の小テストを作らないと。テストの問題を生徒に見られるのはまずいから、今日はもう帰ってくれる?」
雪音は努めて、諭すように言った。
「できれば今日だけじゃなくて、小テストを実施する来週までは、来ないでほしい」
これで頭が少しは冷えるだろう。何でかはわからないが、大地はいらだっている。自分は今、その八つ当たりをされているのだろうか、と雪音は思った。
「……わかりました。そのかわり」
大地は雪音の肩を柔らかくつかんで後ろに押した。雪音の背が壁にぶつかる。壁のひんやりとした温度が背中に伝わった。
囲い込むようにされた雪音は、とっさに身をひねって逃げようとしたが、その時大地の手が雪音の腕をつかみ、雪音はまた壁際に引き戻された。
つかまれたところが熱かった。大地の手のひらから、じんわり熱が伝わってくる。
雪音はつかまれた腕をほどこうとしたが、びくともしなかった。この白くて少しだけ骨ばっている綺麗な手の、どこにこんな力があるのだろう。
大地は雪音を押さえつけたまま、半袖からのびる右の二の腕に、唇をつけた。
「つっ……!」
二の腕に、熱と少しの痛みを感じ、雪音は思わず顔をしかめた。
最初、何が起きているのかわからなかった。
――どうやら自分は今、腕にキスをされているらしい。
やっとそう思い至った時、大地は静かに唇を離した。
大地の端正な顔が目の前にあった。目には穏やかさが戻ってきていた。
「なにするの…」
怒鳴ってやろうかと思ったのに、雪音の喉から出たのはかすれた声だった。自分の声を聞いて、思った以上に動揺しているらしいことに気づく。
「痕が残っている間は、俺のこと考えるでしょう?」
大地が雪音の二の腕の一点に、人差し指でそっと触れた。見ると、その一点には赤く痕がついていた。
「さすがに一週間は持たないでしょうけど」
赤い痕は、3日は消えなさそうだった。
「……長袖を着るよ」
教師として、言うべきことは他にもっとあるはずなのに、 何も思いつかない。
大地はクスッと笑った。
「9月とはいえ、まだまだ暑いですから、無理しない方がいいですよ」
「なんでこんなことをするの」
「先生が、いつまでたっても目をそらしているからですよ」
大地は雪音から離れ、青いスクールバッグを肩にかけた。
「……それでも私は長袖を着るよ。隠して、見ない」
「でも、考えるきっかけにはなったはずです。今はまだ、それで充分だと思います。それじゃあ、さようなら、先生」
そう言って準備室を出て行く大地の背中を、雪音は黙って見ていた。