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3.傘の下の顔

 ふと時計を見ると、8時近かった。

「そろそろ帰った方がいい」

「先生はまだ帰らないんですか?」

「いや、私ももう少ししたら帰るよ」

 図書室の開館時間は7:30までだ。

 カップを片付けて準備室を出ると、案の定生徒は誰も残っていなかった。

 準備室に鍵をかける。

「コーヒー、ごちそうさまでした。それと、お仕事のじゃましてすみませんでした」

「いや、大丈夫だよ」

 実際、仕事は大地が来る前にほとんど終わっていた。たいていの教師は、受け持ちの授業が無い授業時間帯に、それぞれの作業をする。昼休みや放課後は、部活の顧問や講習などで忙しいからだ。

「じゃあ、また来てもいいですか」

 大地の目がまっすぐ雪音を見ていた。思わず目をそらす。

 こういう時、他の教師はどうするのだろう。佐野先生だったら「居残ってないで、家帰って勉強しろよー」と笑いながら軽く諭すのだろうか。

 うまく言葉を返せない自分が情けなかった。適当な会話では適当に受け流すことができるのに、こういう風にまっすぐ来られたら、途端にどうすればいいのかわからなくなってしまう。

 人と正面きって付き合うことを避けてきたからだろう。不器用な自分が情けなかった。

「別にかまわないけど……」

「良かった」

 安心したような笑顔だった。

 並んで歩くと、やはり背が高いと改めて思った。

「そういえば、俺、昨日の本読みましたよ」

「え? あの時代物のやつ?」

「そうです」

「ずいぶん早いね」

「はは……まぁ」

「読んでみて、どうだった?」

「そうですね。時代物の割りに読みやすかったです。機械的に覚えていた、日本史の登場人物や出来事の裏に、こんな人間同士のドラマがあったのか、と思いました。これからはもっと興味を持って日本史を勉強できそうです」

「そうか。良かった。購入したかいがあったかな」

「また、なにかおすすめがあれば教えてください」

「うん。あればね、考えておくよ。じゃあ私は職員室に鍵を返さないといけないから、これで」

 大地は雪音に向かい合うと軽く頭を下げて言った。

「先生、さようなら」

「さよなら。気をつけて帰るんだよ」

 その足で職員室に向かう。

 大地と本の話ができたことに雪音は安堵した。

 よくわからない生徒だと思っていたけれど、普通に話すこともできるんじゃないか。

 もちろん、不可解な言動や行動はあるし、納得できないところもあるけれど。それでも、少しでも普通に話せることに安心していた。

 大地と普通に会話することで、少しでも準備室の居心地のよさを保てればいい。雪音はそう考えていた。たとえ、今までの生徒と同じように、大地がすぐ図書局をやめてしまうとしても。それまでの短い時間だとしても、図書準備室の居心地のよさが損なわれるのは嫌だった。


 それから一週間近くがたった。

 大地は毎日とはいかないまでも、二日に一度は準備室に顔を見せていた。たいてい、本の話や勉強の話を少しだけして、帰っていく。

 雪音に不意に近づいたり、以前見せたような苦しそうな顔を見せることはなかった。

 至極穏やかに時間が過ぎていった。

 何もしゃべらない日もあった。大地は一人掛けのソファに座り黙ってコーヒーを飲んだ。その横で雪音は大地のことを気にせずに、自分の仕事に励むことができた。

 最初に会ったときに感じた大地自身への違和感は、少し薄らいでいた。また、準備室の中にいる、大地という侵入者に対する異物感も、気にならなくなっていた。

 大地は雪音が仕事をしていたら、その横で黙ってコーヒーを飲んで帰るし、本の整理などの仕事をするときは穏やかに笑って手伝ってくれていた。

 

 その日は雨だった。

 ただでさえほこりっぽい準備室の中が、余計にかすんで見える。

 雪音は朝から準備室にいた。今日は4、5、6時間目に授業がある上に、放課後の講習もある。

 授業内で、小テストの予告をするつもりなので、それまでに小テストの範囲や出題する問題など、大まかに決めておかねばならない。そのため朝から図書準備室にこもって作業をしていた。

 開け放した窓から雨音が聞こえていた。

 ふと、雨音の中に人の声が聞こえて、雪音は教科書をめくる手を止めた。

 二時間目終了のチャイムが鳴った少し後のことだった。

 図書室は二階の校舎の端にある。ひとけが無い校舎裏だからか、時折生徒の声が聞こえることがあった。そしてその多くは告白だった。

 今聞こえるのもそうだろう。

「――ごめん」

 はっきりと聞こえた、聞き覚えのある柔らかい声。

 雪音はそっと立ち上がって、開いている窓の前に立った。

 下にビニール傘をさした男女がいた。女子生徒は背中を向けていて顔が見えない。しかし向かい合って立つ男子生徒の顔は見えた。ビニール傘越しでもわかる。それは大地だった。

 女子生徒が足早に去っていく。

 ――かわいそうに。

 告白したことも、されたこともないくせに、そう思った。この歳になっても誰とも付き合ったことがないくせに、「かわいそう」なんて偉そうに思う自分を、鼻でわらった。


 中谷くんは告白されることに慣れていそうだ、と雪音は思った。

 整った顔、柔らかな口調、高校生とは思えない落ち着き。きっともてるだろう。

 大地が、おもむろに上を見上げた。

 「やばい」と思った時には遅かった。

 大地と、目が合ってしまっていた。立ち聞きをした罪悪感が心の中にわく。

 大地は驚いたようだったが、雪音を見て笑った。傘の下から、困ったような笑い顔がのぞいていた。

 雪音はなんだか居たたまれなくなって、一歩後ろに下がると、静かに窓を閉めた。

 窓がサッシをすべる、からからから、という音が、準備室の中でむなしく響いた。


 今日は講習がある。放課後に大地と顔を合わせないで済むことが救いだった。

 きっと明日になれば立ち聞きをした罪悪感も少しは薄れるだろう。

 そうして何事も無かったように接すればいい。

 見てみぬふりをする。無かったようにふるまう。いつものことだ。

 わずらわしいことはごめんだった。



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