2.苦いコーヒー
授業終了のチャイムが鳴った。
「今日はここまでにします」
雪音は教科書を持って教室を出ると、まっすぐ職員室へと向かう。
雪音は古文の授業を受け持っている。
司書教諭には教員免許も必要なため、国語の教員免許を取得した。
本当は現国を受け持ちたかったが、古文の教師が不足していたため仕方がなかった。けれど、現国を希望したのも消極的な理由からだった。
古文は大学入試に対応するよう、古語や古典文法を教えなければならない。
地歴や英語などの他の教科も同様だ。
それに対し、現代文の入試対策には限界がある。
「こうすれば確実」という読解法など無いからだ。
そしてそのぶん、楽そうだと思った。
雪音は面倒を避けるように生きてきたし、これからも避けられるものは避けたい、そう考えていた。
職員室に戻り、座って予定表を見ると、今日はもう授業も講習も無かった。
仕事に必要な書類をまとめて立ち上がる。
「もう今日はこれから図書室ですか?」
声をかけてきたのは隣のデスクの佐野透だった。
佐野は二年の現国を教えている。雪音が24歳で、佐野が28歳。年が近く、教科が同じため、雪音が新任の時から何かと面倒を見てくれた。恐らく同僚の教師の中では一番話しやすいだろう。
「えぇ、まあ」
雪野はうなずいた。
「そうですか。お疲れさま」
佐野はいつも落ち着いている。それが雪音には好ましく思えた。
自分はこの人のようにスマートには、人と会話できない。
雪音は軽く一礼すると足早に図書室へと向かった。
一つ息を吸って、鍵を回す。カチャンと乾いた音が響く。
図書室は校舎のはずれにある。9月とは言えどまだ暑気が残っていて、図書室は空気がこもっていた。
雪音は窓を開けて回った後、図書準備室の鍵を開けた。
入って後ろ手にドアを閉める。
そこで一つ息を吐いた。
部屋の中を見渡す。
右奥には、部屋の右の壁につけて置かれた事務机があり、そのすぐ手前には昨日大地が座っていたパイプ椅子がある。左奥には一人掛けソファがあり、ソファの手前に小さなテーブルがあった。その他にも棚がいくつか置いてある。
準備室の中には、独特のほこりっぽい空気が流れていた。
やっぱりここが一番落ち着くな。
雪音はオフィスチェアに腰掛けた後、首を背もたれに預けてしばらく天井を見ていた。
「やるか」
そう呟くと、仕事に取りかかった。
どれくらい時間がたったのだろう。ノックの音が聞こえて、我に返った。
ドアを開けて入ってきたのは中谷大地だった。
どうやらもう放課後になっていたらしい。
大地が再びドアを閉めようとするのを遮る。
「あー、そこ開けといて」
大地は言われた通りドアにストッパーをかませて閉まらないようにした。
「そういえば、いつもこのドア開けてますね」
「図書室開いてるときはね。何かあったときすぐ対応出来るように。開けとけば声とかも聞こえるしね」
中に入った大地は、一人掛けのソファに体を沈めた。
「お仕事ですか?」
「そう」
「職員室でやらないんですか?」
「あー……」
雪音は返事に困った。
まさか生徒の手前「職員室苦手で」とは言えない。
「ここの方が集中できるから」
「国語科準備室は使わないんですか?」
「いや……みんな年上だし、何かと気を使うんだよ」
言ってから、これはちょっとまずかったかもな、と思った。
いつも言ってから後悔する。それもコミュニケーションスキルが低いせいだろう。
大地を見るとふふっと笑っていた。
本当に柔らかい笑い方をする子だ。
「お茶でも入れようか」
「あ、お願いします」
「緑茶と紅茶とコーヒー、どれがいい?」
「じゃあコーヒーで」
雪音は立ち上がって棚の前に立った。
普段お茶ばかり飲んでいるから、コーヒーが見当たらない。恐らく奥にあるんだろう。
軽く爪先立ちになって奥に手をのばす。
その時、雪音の後ろから手がのびた。
後ろを見上げると、大地が後ろに立っていた。
いい匂いがした。香水ではない。
ワイシャツの上に着ているニットのベストからだろう。柔軟剤の匂いだろうか。
「これですか?」
大地は奥から取り出したコーヒーの粉を雪音に見せた。
距離の近さに戸惑う。普段から人を避けて生活していたから、余計に戸惑うのだと思った。
「ありがとう」
戸惑いつつも、お礼を言うと、雪音を見下ろす大地と目が合った。
大地は澄んだ目で雪音を見ていた。
「何……?」
雪音がそう言うと、大地はのろのろと雪音から離れた。
「いえ、何でも」
「今コーヒーいれるから、座って待ってて」
わからないと思った。
仕事のない図書局なんかに入ったこと。
律儀に2日連続でここに来たこと。
それから今の行動。「いえ、何でも」も何だか含みを持たせた言い方だった。
わからない。この生徒はどういう生徒で何がしたいのだろう。
この生徒のことをもっとよく知ろうと雪音は思った。
自分にとって居心地のいいこの場所を守るために。
コーヒーを入れ、大地の前の小さなテーブルに置く。
雪音はオフィスチェアに座ると、椅子を回転させ後ろ向きにした。
「いただきます」
カップを持つ大地の横顔が見える。
カップを持つ手がとてもきれいだ、と思った。
色が白くて指が長い。けれどひょろひょろしているわけではなく、少しではあるが、きちんと骨ばった手をしていた。
「中谷くんはさ、本が好きなの?」
大地はコーヒーを一口飲んでから言った。
「まあ好きですよ」
なんだか引っかかる言い方だと雪音は思った。
「本が好きで、図書局に入ったの?」
「いえ、本が好きというよりは」
大地はそこで言葉を切って雪音を見た。
真剣な目だった。
雪音はわけもなく少し緊張した。
大地は一度逡巡するように口を開いたが、また閉じてしまった。
雪音からカップへと視線を落とし、一口コーヒーをすすってから言う。
「本が好きというよりは、ここが好きなんです」
「図書室が好きなの?」
「はい。ここが、好きなんです」
大地は「ここ」を強調するようにゆっくりと言った。
「俺、結構頻繁に図書室来てるんですよ。勉強したりしに」
「へぇ、そうなんだ」
だから図書局に入り、準備室にも顔を出すんだろうか。
しかし図書局に入らずとも、図書室には自由に出入りできるのに。
雪音は納得できないものを感じたが、口には出さなかった。
「来てるの、知りませんでしたか?」
「うん。一応準備室のドアは開けてあるけど、何かトラブルがない限り、私はここから出ないから」
「そうですよね。先生はいつもここにいる。知ってます」
大地はまた、コーヒーを一口飲んだ。
きれいな横顔の、眉根にしわが寄せられていた。苦しそうな顔だった。
「コーヒー、苦かった?」
大地ははっと顔を上げ、雪音を見た。その時には既に表情は元に戻っていた。
「いえ、おいしいです」
なぜ突然あんな顔をしたのだろう。
雪音はなんだか見てはいけないものを見てしまったような気がした。