父が加害者の汚名を着せられたまま死んだあと、弁護士の婚約者は原告の夫になった
1.口頭弁論終結直前の辞任
青葉地方裁判所で、名誉毀損を理由とする損害賠償請求訴訟が始まってから、もう半年近くが過ぎていた。性被害の申告、教育者の死、SNSでの大規模な拡散、そして複数のデジタル証拠が絡む事件だったため、審理は三人の裁判官による合議体で進められていた。
原告の三上莉奈は二十歳。学校法人青葉学園が運営する高等部の卒業生で、高校卒業後はコンビニでアルバイトをしながら予備校に通い、もう一度大学受験に挑んでいた。半年前、出願に必要な調査書と卒業証明書を受け取るため母校を訪れ、その数日後、私の父・神谷正臣から性的暴行を受けたと警察に被害を申告した。
父は青葉学園高等部の教頭だった。教頭になる前は、国語科の教諭として長く教壇に立っていた。
莉奈が学校に来た日、父と顔を合わせたのは事務室だけだった。証明書を発行した学校事務職員もその場にいた。ところが数日後、莉奈は、帰宅前に父から「進学書類の追加確認がある」と呼び止められ、旧校舎の進路指導室で被害に遭ったと訴えた。
彼女は同じ内容をSNSでも公表した。
私は、莉奈の供述には校内記録と食い違う点がいくつもあると声明を出し、父は虚偽の申告を受けていると主張した。すると莉奈は、その声明によって名誉を傷つけられたとして、記事の削除と謝罪、慰謝料の支払いを求めて私を提訴した。
被害申告を受けた学校法人は、父に自宅待機を命じた。校内システムや生徒の情報に触れられなくなったあとも、父は警察の事情聴取に応じながら、手元に残していた記録を整理し、自分が莉奈の語る「二度目の面会」をしていないことを証明しようとしていた。
だが、この期日の三日前、父は青葉学園の旧校舎屋上から転落した。
屋上の防犯カメラは交換工事の途中で、レンズが壁側を向いていたため、争いの様子は記録されていなかった。警察は現場の状況と、父が長期間にわたって世間の非難にさらされていたことから、当初は自殺の可能性が高いものとして捜査を進めた。
検視と必要な手続きを終えた父の遺体が私に引き渡されたのは、期日の前夜だった。葬儀会館では通夜と告別式の準備が整っていた。それでも私は、先に裁判所へ来なければならなかった。
この日は最後の本人尋問を行い、裁判所が口頭弁論を終結させるかどうかを判断する予定だったからだ。
せめて告別式の前に、父の名誉を少しでも取り戻したい。私はそう願っていた。
裁判長が今後の審理予定を確認しようとした、そのときだった。私の隣に座っていた桐生怜司が、突然立ち上がった。
怜司は私の婚約者であり、この訴訟の代理人でもあった。知り合って十年、交際して五年。結婚式は三か月後に予定されていた。
裁判長は書類から顔を上げ、怜司を見た。
「桐生代理人。開廷前、裁判所の電子提出システムを通じて、あなたから訴訟代理人辞任届が提出されています。この段階で辞任する理由を説明してください」
怜司は鞄から婚姻届受理証明書を取り出し、書記官を通して裁判官席へ渡した。
「昨日、原告と婚姻届を提出し、受理されました。このまま被告の代理人を続ければ、重大な利益相反になります」
証明書に記されていた新しい氏名は、桐生莉奈だった。この訴訟が提起された時点では三上姓だったため、記録の多くには旧姓が残っていた。
傍聴席がざわめいた。
耳の奥に膜が張ったように、周囲の音が遠のいていく。裁判長が証明書に目を落とし、ほかの二人の裁判官も視線を交わした。
「被告の代理人を務めている間に原告と婚姻関係を結んだにもかかわらず、なぜ事前に被告へ説明しなかったのですか」
「婚姻届が受理されたのは昨日です」
「原告との関係が昨日始まったわけではないでしょう。利益相反のおそれが生じた時点で、直ちに依頼者へ説明する義務がありました。この経緯は調書に残します」
怜司は反論しなかった。
振り向いた彼の目には、かつての親しさが消えていた。そこにあったのは、意図的に距離を置こうとする冷たさだけだった。
「神谷さん、申し訳ありません」
その「神谷さん」という呼び方だけで、私たちの五年間が終わった気がした。
昨日まで、怜司は「事件は順調だ。最後の尋問が終われば、裁判所は莉奈の請求をすべて棄却する可能性が高い」と話していた。私は机の縁をつかみ、白くなるほど指に力を込めて、どうにか平静を保った。
「昨日は、順調だって言っていたでしょう」
「記録をもう一度、最初から確認した」
「それで?」
「神谷先生は、本当に莉奈を傷つけたのだと思う」
「父が亡くなったのは三日前よ。なぜ転落したのか、警察だってまだ調べ終えていない。それなのに、どうしてあなたが先に全部の申告を事実だと決めつけるの?」
怜司はわずかに眉を寄せたが、声に迷いはなかった。
「現時点の資料で十分だ。君がこれ以上、莉奈は嘘をついていると公に主張すれば、彼女をさらに傷つける。君の民事上の責任が重くなる可能性もある」
「だから、彼女の夫になったの?」
「結婚と訴訟は別の話だ」
怜司は一度言葉を切った。自分の選択を正しいものに見せる理由を探しているようだった。
「今の莉奈には、家族として支えられる人間が必要なんだ。被害を訴えている彼女の事情を知りながら、これ以上、争う側には立てない」
「あなたは私の代理人だった」
「だから辞任した」
「こちらの証拠構成も、尋問の方針も、反論の要点も全部知っている。そのあなたが、口頭弁論が終わるかもしれない期日の前日に原告と結婚した。それが、あなたの言う弁護士の良心なの?」
怜司は答えなかった。
裁判長が私たちのやり取りを制止した。
予定されていた尋問は行われなかった。裁判所はこの日の期日を終了し、三週間以内に新たな代理人を選任したかどうか報告するよう私に命じた。次回期日は、新しい代理人が訴訟記録を確認したあと、追って指定されることになった。
これまで提出した主張や証拠が無効になるわけではない。審理も最初からやり直すわけではなかった。それでも怜司は、こちらの証拠構成も尋問計画も反論の弱点も知り尽くしている。最も重要な局面で彼が抜けたことは、私を著しく不利な立場に追い込むのに十分だった。
法廷を出たとき、私のそばに残っていたのは、記録を詰め込んだファイルボックスだけだった。
原告側の準備は整っている。一方の私は、事件を最もよく知る代理人を失ったばかりだった。裁判所の玄関を出ると、怜司が石段のそばに立っていた。私が二歩ほど近づいたところで、淡い黄色のニットを着た女が柱の陰から駆け寄ってきた。
莉奈は怜司の袖をつかみ、素早くその背後に隠れた。
「怜司、来た……」
怜司は私から莉奈をかばうように身体をずらした。まるで、危害を加えるのが私であるかのように。
「美月、話があるなら俺に言え。莉奈には近づくな」
私は二人から数歩離れた場所で立ち止まった。
何か問題が起きるたび、怜司はいつも私の前に立ってくれた。同じ仕草を、今は別の女を守るために使っている。
「どうして彼女を信じたのか、それを聞きたいだけ」
「最初から最後まで、俺が決めたことだ。莉奈に強要されたわけじゃない」
「彼女のために私の事件を捨てて、私たちの関係まで捨てたのね」
「莉奈は限界まで追い詰められている。玲奈と似た経験をした人間を、誰にも信じてもらえないまま、また死なせるわけにはいかない」
桐生玲奈は、怜司の妹だった。
二年前、玲奈は性的暴行を受けた。怜司は弁護士としての知識を使い、妹の被害届や供述の整理を支え、その後の刑事手続きにも付き添った。加害者は有罪判決を受けたが、玲奈はSNSで浴びせられた憶測や被害者非難に耐えられず、青葉学園の校舎屋上から身を投げた。
当時、父は玲奈の担任だった。
玲奈の死後、怜司は真冬の夜に青葉川へ入った。凍えるような水の中へ飛び込み、彼を岸まで引き上げたのは父だった。その後も、怜司が最も苦しんでいた時期を父はそばで支えた。
父は彼に、「まだ法廷に立つ意思があるなら、声を上げられない人を助けることができる」と言った。
怜司は仕事に戻り、父に、私を一生大切にすると約束した。それなのに今、命を救ってくれた人を、自分が最も憎む種類の人間だと決めつけている。
「莉奈が玲奈と似た経験をしたと言ったから、嘘をつくはずがないと決めたの?」
莉奈の肩が小さく震えた。
「神谷先生は、本当に私を傷つけました。あの日のことは、一生忘れられません……」
怜司は彼女に向き直り、そっと肩に手を置いた。
「大丈夫だ。俺がいる」
莉奈が落ち着くのを待ってから、怜司は再び私を見た。彼女に向けていた柔らかさは、私に視線を戻した瞬間、跡形もなく消えていた。
「こんなことで、自分から名誉を傷つける女性はいない。神谷先生に命を救われたことは忘れていない。だが、それを理由に莉奈の申告を無視することはできない」
「あなたは、彼女の話をまともに調べてもいない」
「証拠が事実を示す」
「彼女が出した廊下の映像は、同じ日に父と莉奈が学校にいたと示すだけよ」
莉奈の申告後、警察は彼女が来校した日の廊下映像を学校に保全させていた。民事訴訟が始まると、原告側は裁判所を通じて映像の提出を求めたが、申立書で指定した時間帯はわずか四十秒だった。
学校は指定された範囲だけを切り出して提出した。そこには、莉奈が旧校舎へ入り、数分後に父が近くの廊下を通る姿が映っていた。二人が同じ部屋へ入る場面も、身体が接触する場面もなかった。
それでも莉奈側は、父が彼女を人気のない旧校舎へ連れ込んだ証拠であるかのように語った。怜司も、前後を含む完全な映像を学校に求めなかった。
怜司は、それ以上矛盾を話し合うつもりがないようだった。
「君は、自分の父親が思っていたような人間ではないかもしれないと、受け入れられないだけだ」
怜司は莉奈のために車のドアを開けた。
莉奈が座ると、彼は身をかがめてシートベルトを整え、それから私を見た。その目にあるのは警告だけだった。
「もう彼女に近づくな。確認されていない内容をSNSに書くのもやめろ。神谷先生が残した問題は、法的な手続きの中で処理すべきだ」
車が裁判所を離れていった。私はその場に立ち尽くし、冷え切った指でどうにかスマートフォンを握っていた。
連絡先の一番下に、何年も連絡を取っていない名前が残っていた。父が教え子の中でも特に期待していた人であり、怜司が弁護士として最も警戒していた相手でもある。
私は「御堂直樹」という名前を長いあいだ見つめ、ようやくメッセージを送った。
「直樹さん。父のために、もう一度法廷に立ってくれませんか」
2.知らない女に奪われた新居
裁判所を出たあと、私はすぐ葬儀会館へ向かわず、怜司と暮らしていたマンションへ戻った。
父の通夜は夕方からだった。喪服とパソコン、それに訴訟関係の資料をすべて持ち出すつもりだったが、玄関の鍵は開いていた。
駅から歩いて十分ほどの、2LDKの賃貸マンション。賃貸借契約の名義は怜司だった。広くはないが、結婚後の新居として二人で選んだ部屋だった。
家具もカーテンも食器も、少しずつ二人でそろえた。リビングの隅には、父が贈ってくれた小さなサイドボードも置かれている。
そのダイニングテーブルに、莉奈が座っていた。
怜司は彼女の前にしゃがみ、ティッシュで涙を拭っている。リビングには柔らかな旋律が流れていた。玲奈が生前に作った曲だった。
玲奈が亡くなってから、怜司は誰にもその曲を流させなかった。
今は、別の女のために自分の口で歌っていた。
私は声をかけず、玄関の棚に置かれた封筒へ目を向けた。中には婚姻届受理証明書が入っていた。受理日は昨日だった。
昨日は、私たちが証拠を最終確認する約束をしていた日でもある。
私は何日もほとんど眠らず、父のメールや学校の記録、莉奈の供述の矛盾を整理し直していた。だが怜司は、すぐに確認しなければならない情報が見つかったから、予定どおり帰れないと言っていた。
彼にとっての「急ぎの用事」とは、原告を市役所へ連れていき、婚姻届を出すことだったのだ。
私は証明書をテーブルへ置いた。
紙が天板に触れた音で、二人が同時に顔を上げた。怜司の表情に一瞬だけ動揺が走ったが、すぐに立ち上がり、私と莉奈の間に入った。
「美月、いつ帰ってきたんだ」
「玲奈の曲を歌っていたとき」
莉奈は目を伏せ、怜司へ少し身を寄せた。
「今日、裁判所で本当に怖くて……怜司が落ち着かせてくれていただけです」
私は証明書に記された名前と日付を見た。
父の事件が終わったら、一緒に市役所へ婚姻届を出そう。怜司はそう言っていた。ところが、彼と夫婦になったのは、父を告発した原告だった。
「結婚を決めたのは、いつ?」
「昨日だ」
「私たちは三か月後に結婚式を挙げる予定だった」
怜司の眉間に、かすかな罪悪感が浮かんだ。それでも、起きたことを否定はしなかった。
「訴訟で有利になるために結婚したわけじゃない。莉奈は今、精神的に不安定だ。家族としてそばにいられる人間が必要なんだ」
「だから、あなたが夫になったの?」
「事件が終わって、莉奈が落ち着いたら、その先のことは改めて話し合う」
「そのあと、私のところへ戻るつもりだったの?」
怜司はすぐには答えなかった。
その短い沈黙だけで、十分だった。
「神谷先生と約束したんだ。君を大切にすると」
怜司は一歩近づき、私の手を取ろうとした。
「美月、君を捨てたわけじゃない。ただ、玲奈と同じような経験をした人が、誰にも信じてもらえず追い詰められていくのを、もう見ていられない」
私は半歩下がり、その手を避けた。
そのとき初めて分かった。怜司の言う「大切にする」は、敬意とも愛情とも違う。彼は父との約束を義務として抱え、どれほど私を傷つけても、私は同じ場所で待っていると思っていたのだ。
「彼女を守るためなら、父の名誉を踏みにじってもいいの?」
莉奈は怜司の袖をつかみ、目に涙を浮かべた。
「もう争わないでください。神谷さんは、こういう経験をしたことがないから、分からないんです」
彼女はうつむき、まるで自分を責めているような声を出した。
「私のどこかが悪かったから、こんなことに遭ったのかもしれません。何もしていないなら、どうして私だけが、って……」
怜司の身体が硬直した。
玲奈も亡くなる前、残した音声の中で同じような言葉を何度も口にしていた。
自分が本当に何もしていないのなら、どうして自分だけが、こんな目に遭ったのだろう、と。
その言葉は、怜司の最も深い傷を再びえぐった。彼の目は完全に冷え、莉奈が苦しんでいるのは、私が父の罪を認めようとしないせいだと言わんばかりだった。
「こんなときまで、莉奈は君のことを考えている」
「玲奈を利用しているだけよ」
「もうやめろ」
「彼女と知り合って、どれくらいなの?」
「同じ痛みを理解するのに、何年も付き合う必要はない」
怜司は証明書を封筒へ戻した。
私がどこへ行くのかも、この部屋に私の物がどれだけ残っているのかも、彼は尋ねなかった。私を一時的に追い出しさえすれば、莉奈の事件が終わったあとで、すべて話し合えると思っているようだった。
「しばらく実家に戻ってくれ。訴訟が終わったら、改めて話そう」
私はそれ以上、言い争わなかった。
書斎には訴訟資料が残っていた。そして莉奈はもう、この部屋に入り込んでいる。身分証、パソコン、記録媒体、すべての訴訟書類をスーツケースに詰め、一枚のメモも残さなかった。
衣類や生活用品は、そのまま置いていった。いずれ正式に引き取ればいい。
マンションを出たところで、スマートフォンが震えた。
御堂直樹から届いた返信は、一行だけだった。
「待っていて。すぐ戻る」
3.告別式で流された十二秒の映像
裁判所を出た日の夕方、青葉市内の葬儀会館で父の通夜が営まれた。
翌朝、葬儀・告別式が始まった。
納棺師は父の身なりを整え、私が渡した写真を見ながら、生前好んでいた濃い灰色のスーツを着せてくれた。棺の中で眠る父の胸元には、白菊と、教師時代から使い続けていた万年筆が置かれていた。
母は早くに病気で亡くなっている。一人娘の私が喪主を務めた。
参列者が来る前、私は遺族控室で火葬許可証と会館に提出する最後の書類を確認していた。
廊下を歩くハイヒールの音が、扉の前で止まった。次の瞬間、莉奈が一人で入ってきた。
裁判所で着ていた淡い色のニットではない。顔にも、いつもの怯えはなかった。
か弱く見えていたその顔には、隠すつもりすらない嘲りが浮かんでいた。これまでの震えも涙も、すべて怜司に信じさせるための演技だったのだと思えるほどだった。
「ここに来る資格はない。帰って」
「最後に、どんな姿になったのか見たかっただけです」
「出ていって」
莉奈は聞き入れず、ゆっくり棺へ近づいた。
左手の薬指には、簡素な指輪がはめられていた。彼女は手を上げ、わざと照明に反射させた。裁判所で怜司の背後に隠れていた女とは、まるで別人だった。
「あの日、怜司には、神谷正臣に傷つけられたと話しただけです。新しい証拠なんて見せていないのに、すぐ信じてくれました」
私は棺の前へ立った。
「何が言いたいの?」
「女がこんなことで嘘をつくはずがない、って。あなたの代理人を辞めれば、これ以上私を傷つけなくて済むとも言っていました」
莉奈は左手を持ち上げ、指輪へ目を落とした。
「玲奈の代わりに見てもらえれば、それで十分だったんです。まさか向こうから結婚を申し込むなんて。美月さん、私のほうが運がよかったと思いません?」
ようやく分かった。彼女は父に別れを告げるために来たのではない。
私が完全に打ちのめされたか、確かめに来たのだ。怜司の肩入れも、結婚も、庇護も、彼女にとっては自分の勝利を示す道具にすぎない。
「玲奈のことを、前から知っていたのね」
「もちろん」
「どこで知ったの?」
「性的暴行を受けて、加害者が有罪になって、そのあと学校の屋上から飛び降りた。当時の生徒なら、だいたい知っています」
莉奈は私に顔を寄せ、声を潜めた。
「怜司がずっと、自分が妹を守れなかったと思っていることも知っていました。玲奈に似た振る舞いをする人が現れれば、あの人は冷静に考えられなくなる」
「それを利用して近づいたのね」
「今さら気づいたんですか?」
莉奈は棺の中の白菊を乱し、父の胸元に置かれていた万年筆を手に取った。
私はすぐに彼女の手首をつかみ、万年筆を取り戻そうとした。
「父の物に触らないで!」
莉奈は力を抜き、そのまま後ろへ倒れた。肩が椅子にぶつかる。
遺族控室の扉が勢いよく開いた。怜司は床に倒れた莉奈を見るなり、何が起きたのか確かめもせず、私を彼女から引き離した。
平手が頬に当たり、乾いた音が狭い部屋に響いた。
顔が横を向き、頬の半分が急速に痺れていく。
長い付き合いの中で、怜司が私に手を上げたことは一度もなかった。声を荒らげたことさえ、ほとんどない。それなのに今は、莉奈が床に倒れているというだけで、すべて私が悪いと決めていた。
「何をしているんだ!」
怜司は莉奈を抱き起こし、椅子にぶつけた肩を確かめた。
「ここは君のお父さんの告別式だぞ。どこまで騒げば気が済むんだ」
「先に棺の中を触ったのは莉奈よ」
莉奈は怜司のスーツを強くつかんだ。
「神谷先生のお花を整えようとしただけです。そしたら美月さんが急に飛びかかってきて……棺に入るべきなのは私だって」
「そんなこと、言っていない」
怜司は棺の中で乱れた白菊を見ようともせず、会館の職員に何があったのか尋ねもしなかった。
莉奈が床に倒れている。それだけで結論を出していた。普段は慎重さを売りにしている弁護士が、目の前の状況すら確かめようとしない。
「莉奈が神谷先生を見送りに来たこと自体、彼女にとっては大きな譲歩なんだ」
「今、あなたを利用したって、自分の口で認めたのよ」
「父親を庇うために、そんな話まで作るのか?」
私は怜司を見つめたまま、説明する気力を失っていった。
私が何を言っても、彼は莉奈の反応を真実とみなし、私の反論を加害だと受け取る。矛盾が見えていないのではない。自分が「もう一人の玲奈」を守っているという思い込みを、事実に壊されたくないのだ。
会場のほうから、参列者たちのざわめきが聞こえた。
告別式会場のスクリーンには、父の教員生活を振り返る写真が流れていたはずだった。だが画面は、突然スマートフォンで撮影された映像へ切り替わった。
映像は、わずか十二秒だった。
旧校舎の屋上で、父が莉奈の前に手を伸ばしている。莉奈は後ずさりながら、泣きそうな声を上げた。
「触らないで……被害届は取り下げません……」
画面の上部には、大きな文字が重ねられていた。
「性被害を申告された青葉学園教頭、申告者と屋上で接触。被害届の取下げを迫った疑い」
私は会場へ走った。機器を担当していた職員も、慌てて操作卓を確認している。
「止めてください!」
「追悼映像のファイルが差し替えられています。以前のアップロード用アカウントが使われたようです」
怜司が莉奈の手を引き、控室から出てきた。その顔に驚きはなかった。
彼は以前、婚約者であり私の代理人でもある立場から、父の追悼映像の準備を手伝っていた。そのとき発行された一時的なアップロード用アカウントを、まだ保管していたのだ。会館へ入ったあと、怜司は自分のスマートフォンで再生ファイルを差し替え、同じ映像を自分のSNSにも投稿していた。
「俺がやった」
「ここは父の告別式よ」
「公開するつもりはなかった。だが、君が莉奈に手を出した。これ以上、彼女を傷つけさせるわけにはいかない」
「十二秒しかない。前後には何が映っていたの?」
「鑑定意見では、提出されたファイルの内部に明らかな編集痕はない」
「十二秒の中に切れ目がないことと、それが映像の全部であることは別でしょう」
参列者たちが小声で話し始めた。
父を知る人もいれば、スマートフォンでスクリーンを撮影する人もいる。映像に付けられた見出しは、どんな説明より速く広がった。父が助けてきた生徒や同僚、保護者までもが、教頭の立場を使って申告者を黙らせようとしたのかとSNSで問い始めた。
怜司が私の前に立った。
「莉奈に謝って、これまで出した声明を全部削除しろ。そうすれば、会場の映像を止めて、SNSの投稿も消す」
「もうネットに出したの?」
「彼女を守るためだ」
映像はすでに転載され、急速に広がっていた。
確かめられてもいない憶測が、わずか数分で断定的な非難へ変わっていく。父は最後の告別式まで踏みにじられた。
式を続けるため、私は莉奈の前に立つしかなかった。
「……ごめんなさい」
怜司は会場の映像を止め、SNSの投稿を削除した。
だが、一度保存され、転載されたものは消えない。怜司が欲しかったのは、私が頭を下げる姿だった。それによって、自分がまた莉奈を守ったと確かめたかったのだ。
会場の入口から、低い声が聞こえた。
「桐生先生。今、会場で流した映像も、SNSへの投稿も、証拠として保全しました」
顔を上げると、御堂直樹が立っていた。
濃色のコートを着て、東京から急いで来たらしいビジネスバッグを手にしている。後ろには、事務所のスタッフが二人いた。長距離を移動してきた疲れを見せることなく、直樹はまずスクリーンと会館の機器を確認し、それから私の前へ来た。
彼はコートを私の肩に掛けた。
「遅くなって、ごめん」
そして、私と怜司の間に立った。
「今後、神谷美月さんの訴訟は私が受任します」
怜司の表情が、初めて大きく揺れた。
若手の有望な弁護士として評価されてきた怜司は、過去に何度も直樹と法廷で対峙し、苦い思いをさせられていた。青葉市を離れた直樹は東京の大手法律事務所へ入り、近年は地方の個人事件をほとんど受けていない。私のために戻ってくるとは、怜司も考えていなかったのだろう。
「地方の個人事件は、もう受けないんじゃなかったのか」
「弁護士登録を抹消したことも、実務を離れたこともありません」
直樹は名刺を怜司へ差し出した。
「今後の争いは裁判所で扱います。被告を代理していた期間に原告と婚姻関係を結んだこと、元依頼者の事件情報を利用したこと、告別式で不完全な映像を公開したこと、それから先ほど美月さんに暴力を振るったことについても、証拠を保全します」
怜司の指がわずかに強張ったが、何も言い返さなかった。
直樹も言い争わなかった。会館の責任者にアップロード用アカウントとアクセスログの保全を依頼し、スタッフにはSNSの投稿画面、会場内の記録映像、目撃者の供述を保存させた。
アカウントが停止されると、告別式はようやく再開された。
私は葬儀と火葬を終え、父を最後まで見送った。
そのあと、直樹は近くの病院へ付き添ってくれた。医師は頬の腫れと痛みを診察し、診断書を作成した。
4.父が残した調査記録
御堂直樹は、父が教え子の中でも特に期待していた一人だった。
京都大学法学部を卒業後、同大学の法科大学院を修了し、司法試験に合格して司法修習を終えた。その後、東京の大手法律事務所へ入り、現在は名誉毀損や企業危機、複雑な民事事件を扱うパートナー弁護士になっている。
父は生前、直樹と連絡を取り続けていた。
怜司を選んだ私だけが、少しずつ直樹と疎遠になっていた。
父の火葬を終えたあと、直樹と私は青葉市郊外の実家へ戻った。築二十年以上の戸建てだったが、父はこまめに手を入れていた。書斎には、教諭や教頭として使ってきた教材や資料が、きちんと残されていた。
本棚を整理していると、公開授業のデータを保存したディスクの奥から、暗号化されたポータブルSSDが見つかった。
そばには父の付箋が挟まれていた。いつもの字より乱れていて、急いで書いたことが分かった。
「警察へ渡す前に何かあったら、この資料を信頼できる弁護士へ」
直樹は、すぐにはSSDを接続しなかった。
まず事務所のデジタル・フォレンジック担当者を呼び、機器に管理番号を付け、読み取り手順を記録しながらイメージコピーを作成した。原本は証拠袋へ封入し、データが変更されないことを確認してから、複製の中身を調べた。
SSDに、学校の防犯カメラ映像そのものは保存されていなかった。
入っていたのは、父が作成した調査メモ、莉奈から届いたメールやメッセージ、ファイル番号、サーバー上の保存場所、資料を管理していた担当者の氏名だった。父は、一つひとつの情報をいつ、どのように知ったのかも記録していた。
事件の約八か月前、青葉学園は校内システムの更新を行っていた。
旧サーバーのデータ移行を委託された管理会社が、分類先の分からない映像ファイルを発見した。二年前の生徒死亡事故に関係する可能性があったため、情報管理を担当する教職員が学校法人へ報告し、教頭だった父にも映像が共有された。
それは、玲奈が転落した日の映像だった。
撮影位置が遠く、画面には柵のそばに立つ玲奈と、階段室へ続く陰に隠れたもう一人の人物しか映っていなかった。玲奈が落下したあと、その人物は通報せず、その場から急いで立ち去っていた。
父は映像を私物へコピーせず、ファイル番号、サーバー上の保存場所、管理担当者の氏名だけを書き留めた。そして、陰にいた人物が誰なのか調べ始めた。
SSDには、当時の生徒たちが自分の意思で父へ提供したグループチャットのスクリーンショットも残されていた。
玲奈が性的暴行を受けた際、加害者は被害の様子を撮影していた。莉奈はその男のスマートフォンから一部の映像を手に入れ、非公開のグループチャットへ転送していた。
映像が漏れると、玲奈に関する噂は一気に広がった。
亡くなる直前、玲奈のもとに届いた最後の音声メッセージも、グループ内の匿名アカウントから送られていた。
「本当に何もしていないなら、どうしてあなただけが、こんな目に遭ったの?」
父は、その匿名アカウントを莉奈が使っていたのではないかと疑った。
七か月前、父は学校法人を通じ、当時のチャット記録について説明してほしいと莉奈へ書面で連絡していた。その一か月後、莉奈は調査書を受け取るため学校を訪れ、父から性的暴行を受けたと申告した。
申告後、父は自宅待機を命じられ、校内システムへのアクセスも停止された。それでも父は、事前に控えていたファイル番号や保存場所、生徒から任意に提供された記録を使い、調査を続けていた。
亡くなった日には、莉奈との正式な面談が予定されていた。午後三時から学校法人本部の会議室で、校長と顧問弁護士が同席し、二年前のチャット記録について説明を求めることになっていた。
莉奈は面談の三十分ほど前に学校へ到着し、受付で来校手続きを済ませ、来校者証を受け取っていた。
その日は旧校舎屋上の防犯カメラを交換する工事が行われていた。作業員が機材を運ぶため、防火扉の機械錠を一時的に解除しており、作業終了前の短い時間だけ、屋上へ通じる扉が施錠されていなかった。
面談開始の十分前、莉奈は父へメッセージを送った。
「二年前に使っていた古いスマートフォンをまだ持っています。あなたが探している元の記録も入っています」
「旧校舎の屋上に持ってきました。一人で来てください。誰かを連れてきたら、その場で壊します」
父はすぐには返信しなかった。
しばらくして、莉奈からもう一通届いた。
「玲奈の映像が最初に転送されたときの記録もあります。五分以内に来なければ、屋上から捨てます」
父はメッセージのスクリーンショットをクラウドへ保存し、三十秒ごとに録音データを自動送信するアプリを起動した。
莉奈が、初めから何も渡すつもりがなかったとは知らなかった。
調査ノートの最後のページには、二行だけ書き残されていた。
「正式な面談場所は学校法人本部の会議室。莉奈が突然、一人で屋上へ来るよう要求」
「映像を見つけたことを知られている。警戒が必要」
直樹はメモを読み終えると、すぐ青葉学園へ連絡し、旧サーバーのデータ、校門の防犯カメラ、入退室記録、父が亡くなった日の関連資料を保全するよう求めた。
同時に、父が残したメッセージの画像と調査ノートを警察へ提出し、転落には第三者が関与している可能性があると説明した。
翌日、事務所は裁判所へ証拠保全を申し立てた。
新校舎の外壁には広角の防犯カメラがあり、旧校舎屋上の一部が画角に入っていた。データは管理会社のバックアップサーバーに残っていたが、それまで誰も、その角度から屋上が映っていることに気づいていなかった。
技術者がファイルの復旧を始めた。
警察も父が亡くなった日の入退校記録を再確認し、学校と管理会社から同じ原本データを取得して、独自の捜査を進めた。
その間も、怜司から何度もメッセージが届いた。
「美月、このまま裁判を続ければ、神谷先生の件がもっと多くの人に知られる」
「声明を撤回するなら、莉奈は請求額を下げることも考えると言っている」
「最後には、やり直すことさえできなくなる。そんなことにはしたくない」
私は返信しなかった。
その夜、怜司はSNSへ写真を投稿した。莉奈が彼の肩にもたれて眠っている。添えられた文章でも、彼は自分を彼女の守り手として描いていた。
「今度こそ、助けを求めている人の手を離さない」
直樹はスマートフォンの画面を消した。
「スクリーンショットだけ保存して、反応しないでください」
「前は、こんな人じゃなかった」
「今、優先すべきなのは、彼がなぜ変わったのかを考えることではありません」
直樹は父の調査ノートを証拠袋へ戻した。
「まず、神谷先生が亡くなった日、屋上で何が起きたのかを明らかにしましょう」
5.三つの映像
三日後、新校舎の管理サーバーから、広角カメラの映像が完全な状態で復旧された。
カメラは旧校舎から離れており、元の映像だけでは顔を判別できなかった。技術者は、学校の正門カメラ、階段室の映像、入退室記録、服装、所持品を照合した。
複数の記録が一致し、父と一緒に屋上へいた人物が莉奈であることが確認された。
映像の中で、父は莉奈から数歩離れた場所に立っていた。莉奈は約束していた古いスマートフォンを渡さず、別の端末を取り出して父を撮影し始めた。
彼女は柵のほうへ、何度も後ずさった。
父が危険を感じて手を伸ばすと、二人の間で争いが起きた。父が自分のスマートフォンを守ろうと身体の向きを変えた瞬間、莉奈は両手でその背中を強く押した。
父の身体が柵を越え、画面の下へ消えた。
莉奈は床に落ちた父のスマートフォンを拾い、しばらく操作したあと、それも屋上から投げ捨てた。それから服装を整え、階段室へ戻っていった。
彼女は助けを呼ばず、警察にも連絡しなかった。
映像が終わると、会議室には機器の小さな作動音だけが残った。
私は画面の前に座ったまま、長いあいだ言葉を出せなかった。
直樹は安易な慰めで遮らず、担当者に原本ファイル、ハッシュ値、解析報告書を所定の手順で保存させた。警察も学校と管理会社から同じバックアップデータを取得し、独自に鑑定を進めていた。
「莉奈は逮捕されるの?」
「警察は、映像をほかの証拠と照合する必要があります。逮捕などの強制捜査をいつ行うかは、担当の警察官と検察官が判断します」
父のスマートフォンは大きく損傷していたが、転落前のデータの一部はクラウドへ自動保存されていた。
父が使っていた録音アプリは、三十秒ごとに音声ファイルをクラウドへ送信する設定になっていた。そのため端末が壊れても、送信済みの部分はアカウントに残っていた。
録音の冒頭で、父は古いスマートフォンについて尋ねていた。
「ここに持ってきたと言っただろう。スマートフォンはどこにある」
「先に、サーバーで見つけた映像を消して」
「言われたとおり、一人で来た。今度はそちらが渡す番だ」
「先に消して」
「証拠を削除するつもりはない」
足音が録音されていた。
莉奈が柵の方向へ下がり始めたらしく、父の声にも緊張がにじんだ。
「それ以上、下がるな。まずスマートフォンを置きなさい」
「二年も前の映像でしょう。どうして今さら調べるの?」
「玲奈は、あの映像から広がった噂で命を失った。どこから流出したのか、君は知っているはずだ」
「本人が耐えられなかっただけでしょう。私に何の関係があるの?」
「玲奈の経験を利用して、怜司に近づいたことも分かっている」
「怜司さえ信じてくれれば、ほかの人がどう思おうと関係ない」
「私に虚偽の被害申告をしたのも、当時の記録を公表できないようにするためか」
録音が一瞬、途切れたように静かになった。
次に聞こえた莉奈の声からは、弱々しさが完全に消えていた。残っていたのは、正体を見抜かれたあとの冷たさだけだった。
「もう誰もが、あなたを加害者だと思っている。卒業生への性的加害を告発された教頭の話なんて、誰が信じるの?」
「君は警察に、半年前、私が進路指導室へ呼び出したと話した。だが、あの時間、私は会議室にいた。学校の職員も証言できる」
「旧校舎にいたところは、映像に残っているでしょう」
「完全な映像には、私が会議室へ入り、その後は出ていないところまで映っている。君が出したのは、その中の一部分だけだ」
「それが何? みんなが私を信じれば、それでいいの」
続いて、物を奪い合う音と、慌ただしい足音が聞こえた。
最後に自動送信された音声には、重い衝撃音と、少しずつ遠ざかっていく呼吸だけが残っていた。
父は遺書を残していなかった。自分の罪を認める言葉も、一つもなかった。
ただ莉奈に、二年前の行為について説明させようとした。そのために命を奪われたのだ。
直樹は音声を警察へ提出し、民事訴訟でも新たな証拠として、裁判所が定めた期限内に電子提出した。すべての資料は事前に原告代理人へ送付され、相手方に知らせないまま突然提出したものはなかった。
莉奈が自分の主張を裏付けるために使った映像も、改めて整理された。
一つ目は、半年前に撮影された旧校舎の廊下映像だった。
原告側が最初に提出させたのは、申立書で指定した四十秒だけだった。そこには莉奈が旧校舎へ入り、数分後に父が廊下を通る姿しか映っていない。直樹が改めて保全を申し立て、前後二時間を含むデータを取得すると、父は莉奈と同行せず、そのまま職員会議のため会議室へ入っていたことが分かった。
当日の会議録、出席した教職員の陳述、会議室の入退室記録も、莉奈が被害を受けたと主張する時間帯に、父がその場を離れていないことを示していた。
二つ目は、父が亡くなった日に莉奈が撮影した十二秒の映像だった。
莉奈は短い映像をクラウドへ保存したあと、撮影に使った端末の原本データを削除し、端末そのものも処分していた。民事訴訟では「水没して修理できず、廃棄した」と説明し、元の端末を提出しなかった。
鑑定意見が示せるのは、提出された十二秒のファイル内部に不自然な跳躍が見つからないということだけだった。撮影開始前と終了後に、別の場面が存在しなかったとは証明できない。
三つ目が、新校舎から撮影された広角映像だった。
同じ時刻、同じ場所で起きたことを、最初から最後まで補っていた。父が莉奈を屋上へ呼び出したのでも、被害届を取り下げるよう迫ったのでもない。
古いスマートフォンを渡すと偽り、父を一人で屋上へ誘い出したのは莉奈だった。
十二秒の映像を撮影したとき、彼女はわざと柵へ近づき続けた。父が危険を止めようと手を伸ばした場面だけを残し、脅迫を受けた証拠のように見せたのだ。
二年前のグループチャットも、少しずつ復元された。
複数の参加者が、自分の端末に残っていたバックアップを事務所へ任意に提出した。表示名、アイコン画像、過去の発言、莉奈がほかのSNSで使っていた素材が一致し、玲奈の被害映像を拡散した匿名アカウントを、莉奈が管理していたことが裏付けられた。
父はこの資料を見つけたからこそ、莉奈に警察へ説明するよう求めた。
莉奈は玲奈の事件で自分がしたことを隠すため、まず父を性的加害者に仕立て上げた。さらに怜司が妹に抱く罪悪感を利用し、自分の味方に引き込んだ。
怜司が強く信じるほど、父の反論は「加害者の言い逃れ」と受け取られやすくなる。父の社会的信用さえ失わせれば、莉奈の過去を調べる人はいなくなる。
次の期日が近づくと、直樹は民事訴訟で適法に使用できる資料だけを証拠説明書とともに提出した。
学校の完全な廊下映像、職員会議の記録、正門と階段室の防犯カメラ、入退室記録、父のクラウドに残された音声、莉奈から届いた屋上への呼出しメッセージ、グループチャット参加者が任意に提出したバックアップ、新校舎の管理会社が作成した映像保全記録と鑑定資料だった。
警察が捜査で取得し、まだ公表していない通信記録や供述調書は、民事法廷には提出していない。
莉奈と代理人には、すべての写しが事前に送付された。
それでも莉奈は、訴えを取り下げなかった。
「どうして、まだ続けるの?」
直樹はファイルを閉じた。
「民事上の主張に根拠がなかったと認めれば、警察へした被害申告についても説明できなくなるからです」
「まだ否定し続けるつもり?」
「彼女に残されているのは、証拠同士のつながりを一つずつ偶然だと言い張ることだけでしょう」
期日の前夜、私は父の書斎で、最後の学期に使う予定だった授業計画を読んでいた。
教材の題名、生徒の名前、注意事項が整然と書かれている。今にも父が扉を開けて戻ってくるようだった。直樹は温かいお茶を机に置き、向かいの椅子へ座った。
「明日は、法的な主張と反対尋問を私が担当します。美月さんは、聞かれたことに事実どおり答えてください」
「父がどうして莉奈を調べていたのか、私の口から説明したい」
「被告本人尋問で、その機会を作ります」
「父を、映像の中にいる一人の影だけで終わらせたくない」
直樹は落ち着いた目で私を見た。
「美月さんが、全部一人で背負う必要はありません」
私は父の筆跡へ目を落とした。
ここまで来ても、裁判所が莉奈の涙だけを見て、父が受けた傷を見てくれないのではないかと怖かった。
半年近く、あまりにも多くの人が事実を確かめる前に、彼女の言葉を信じた。
「ここまで証拠を集めても、最後には誰も父を信じてくれないんじゃないかって、まだ怖いの」
「裁判所は、どちらが弱そうに見えるかで事実を決めません」
直樹の声は揺れなかった。
「私たちには、証拠があります」
6.法廷で崩れた嘘
再び法廷へ入ったとき、私の隣の代理人席はもう空いていなかった。
御堂直樹が座り、机の上には証拠説明書、鑑定意見書、適法に取得した学校関係資料が整然と並べられていた。怜司は傍聴席にいた。莉奈との間には、彼女の訴訟代理人が座っている。
裁判長は、双方が追加提出した証拠を一つずつ確認した。
この民事訴訟で審理されるのは、莉奈が私に求めているSNS上の声明削除、謝罪、名誉侵害を理由とする損害賠償だった。父に犯罪行為があったか、莉奈が父の死に関与したかについては、警察と検察が別の刑事手続きで判断する。
原告本人尋問が始まり、莉奈は自分の代理人からの主尋問で、改めて被害を訴えた。
落ち着いた色のワンピースを着て、声を抑え、表情まで慎重に整えている。
「半年前、進学書類を受け取るため学校へ行きました。そのあと神谷先生から、書類の確認がまだ残っていると言われ、旧校舎の進路指導室へ呼ばれました」
莉奈はうつむき、両手を強く組んだ。
「そこで傷つけられました。自分は教頭だから、学校も私が受験する大学も、自分の言うことを信じる。警察へ行けば、私のほうが嘘つきだと言って、就職もできないようにすると脅されました」
主尋問が終わると、直樹が彼女の提出した陳述書を開いた。
「最初の陳述書には、神谷教頭から事務室の前で呼び止められたと書いてありますね」
「はい」
「証明書を発行した学校事務職員は、あなたが事務室を出た時点で、神谷教頭はまだ校務の打合せをしていたと述べています。神谷教頭が廊下へ出たのは、その数分後です」
「職員の記憶違いだと思います」
「そのあと、神谷教頭があなたを旧校舎の進路指導室へ連れていった、というのがあなたの供述ですね」
「はい」
「旧校舎の完全な廊下映像には、二人が一緒に歩く場面はありません。会議室の入退室記録、職員会議録、出席していた六名の教職員の陳述も、あなたが被害を受けたと主張する時間帯、神谷教頭が会議に出席し続けていたことを示しています」
莉奈は数秒、答えなかった。
「記録に間違いがあったのかもしれません」
「六人の教職員が同時に記憶を誤り、会議録にも誤りがあり、入退室記録まで故障したということですか」
彼女は答えなかった。
直樹は次の書類へ指を移した。
「進路指導室で、神谷教頭がスマートフォンを使って撮影したとも述べていますね」
「はい」
「撮影するところを、自分の目で見たのですか」
「見ました」
「陳述書には、退室する前に端末を奪い、映像を削除したとあります」
「はい」
「ところが後の陳述では、神谷教頭が別の機器へ映像を移した可能性があると書いている。自分で削除したと断言しながら、なぜ後から別の説明を加えたのですか」
莉奈の指が、証言台の縁を強くつかんだ。
原告代理人が異議を述べた。裁判長は、直樹に対し、提出済みの陳述内容と食い違いを確認する範囲で質問を続けるよう告げた。
直樹は声を荒らげなかった。
「最初の申告を裏付ける資料として、旧校舎の廊下映像を提出しましたね」
「あの映像には、神谷先生が私を追って旧校舎へ入るところが映っています」
「原告側が学校へ提出を求めた時間範囲は、四十秒だけでした」
書記官が裁判長の指示を受け、直樹が証拠保全によって取得した完全な映像を再生した。
莉奈は一人で旧校舎へ入った。数分後、父が廊下の反対側から現れたが、莉奈の向かった方向には曲がらず、そのまま会議室へ入った。
以後、二時間にわたって会議区画から出ていない。
「完全な映像には、神谷教頭があなたを追う場面も、同じ部屋へ入る場面もありません」
莉奈の顔から血の気が引いていった。
直樹は、父が亡くなったあとに彼女が提出した十二秒の映像を示した。
「この映像を撮影したのは誰ですか」
「私です」
「撮影日は?」
「神谷先生が亡くなった日です」
「警察へ被害を申告してから、約半年後ですね」
「神谷先生に屋上へ呼ばれて、被害届を取り下げろと言われました」
「撮影に使った端末と、元のファイルはどこにありますか」
「水に濡れて壊れました。直せなかったので、捨てました」
「あなたの鑑定意見書が証明しているのは、提出された十二秒のファイル内部に明らかな跳躍がないことだけです。映像の前後に別の場面が存在しなかったとは証明していませんね」
莉奈は答えなかった。
直樹は続いて、父が亡くなった日に送られたメッセージの画像を提出した。
「古いスマートフォンは私が持っている。一人で屋上へ来て」
「玲奈の映像が最初に転送されたときの記録もある。五分以内に来なければ、屋上から捨てる」
裁判長がデータの取得経緯を確認したあと、書記官が父のクラウドに残っていた音声を再生した。
「ここに持ってきたと言っただろう。スマートフォンはどこにある」
「先に、サーバーで見つけた映像を消して」
録音は、その後も続いた。
二年前の映像、虚偽の被害申告、怜司への接近について、莉奈自身が口にした言葉が法廷に響いた。
傍聴席の怜司から、少しずつ血の気が失われていった。
音声の再生が終わると、直樹は新校舎の広角カメラ映像を提出した。
正門カメラ、来校者受付の記録、階段室の映像、入退室記録と時間が一致している。莉奈が着ていた上着、靴、持っていたバッグも、屋上の人物と同じだった。
莉奈が父を押し、柵の外へ転落させるまでの流れが映し出された。
莉奈は突然立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、耳障りな音を立てた。
「こんなに遠い映像で、私だと分かるはずがありません!」
裁判長が着席するよう命じた。
直樹は、旧校舎の階段室で顔が明確に映っている場面、受付で交付された来校者証、父を屋上へ呼び出したメッセージを順に示した。
「これらの資料は、一つだけなら別の説明ができるかもしれません」
直樹は最後のファイルを閉じた。
「しかし、時刻、受付記録、入退室履歴、服装、メッセージ、音声、広角映像がすべて一致している以上、偶然という説明は成り立ちません」
最後に提出されたのは、二年前のグループチャットの復元記録だった。
「原告は匿名アカウントを使い、桐生玲奈さんの被害映像を拡散しました。また、被害者を責める内容の音声を本人へ送っています。神谷正臣さんが原告を調べ始めたのは、その資料を発見したからです」
莉奈の肩が大きく震えた。
「そのアカウントは私のものではありません」
「複数のグループ参加者が、端末に残っていたバックアップと陳述書を提出しています。表示名、アイコン画像、過去の発言は、あなたがほかのSNSで使っていた情報と一致しています」
怜司が傍聴席から立ち上がった。
「莉奈、本当なのか?」
裁判長は直ちに発言を制止し、傍聴席から審理を妨げないよう警告した。法廷の秩序維持を担当する裁判所職員が、怜司のそばへ移動した。
莉奈は、最後まで彼を見なかった。
原告本人尋問が終わると、今度は私が被告本人として証言台に立った。
直樹はまず、私がSNSへ声明を出した時点で、どのような資料を把握していたのかを尋ねた。
私は、事務室に同席していた職員の説明、父の会議予定、四十秒の廊下映像に二人が同行する場面がないこと、莉奈の供述が途中で変わっていたことを、一つずつ答えた。
「父親だから、無条件に信じたのではありません。もちろん私は父を信じていました。でも、公に疑問を示した理由は、記録された時間と人物の動きが、莉奈さんの説明と最初から一致していなかったからです」
原告代理人は反対尋問で、父との関係が判断を曇らせた可能性はないかと聞いた。
「父娘であることを理由に、莉奈さんを攻撃したつもりはありません。私が求めたのは、短く切り取られた映像ではなく、前後を含めた記録を確認することでした」
新たに発見された資料についても、私は父が残した調査記録の発見経緯と、直樹が原本を直接読み取らず、フォレンジック担当者に保全させた過程を説明した。
すべての本人尋問が終わると、裁判長は口頭弁論を終結し、判決言渡期日を一か月後に指定した。
莉奈が法廷を出ると、廊下には二人の警察官が待っていた。
警察は、この日の民事審理を聞いてから急に動いたわけではない。すでに学校と管理会社から原本映像を取得し、父のクラウド音声、受付記録、入退室履歴などを独自に収集して、初期鑑定を終えていた。
逮捕状は、期日の開始前に発付されていた。
警察は莉奈が出廷する予定を把握し、審理終了後に逮捕を執行することにしたのだ。
警察官を見た莉奈は足を止め、法廷へ戻ろうと後ずさった。
「怜司、助けて……」
怜司は少し離れた場所に立ち、今度は彼女へ手を伸ばさなかった。
結婚したばかりの妻を見つめながら、初めて本当の姿を見たような顔をしていた。自分が意図的に見ないふりをしてきた矛盾を、もう覆い隠せなくなったのだろう。
「玲奈が亡くなったとき、本当に屋上にいたのか?」
莉奈は答えなかった。
警察官が彼女を連れていった。
怜司は私へ向き直り、足元をふらつかせながら近づいてきた。いつもの余裕は消えていた。
「美月、俺は知らなかった……」
私は直樹のそばへ下がった。
「知ろうとしなかっただけでしょう」
「提出された証拠が、あまりにも本物らしく見えたんだ」
「あなたは弁護士よ」
父が最も真実を調べてほしかったとき、怜司は疑問を捨て、自分が信じたい答えだけを選んだ。
今になって証拠を突きつけられ、ようやく自分が間違っていたかもしれないと認めただけだ。
「あなたは訴訟記録を全部見られたし、最初から矛盾にも気づいていた。それでも調べなかった。莉奈を、もう一人の玲奈だと思いたかったからでしょう」
直樹が私たちの間に立った。
「桐生先生。美月さんは今、あなたと話すことを望んでいません」
怜司はその場で立ち止まった。
私は直樹と一緒に裁判所を出た。一度も振り返らなかった。
7.父の名誉
一か月後、民事裁判の判決が言い渡された。
裁判所は、莉奈が求めた声明の削除、謝罪、損害賠償の請求をいずれも棄却した。私が当時把握していた資料に基づき、父への申告は虚偽である可能性が高いと述べたことには相応の根拠があり、違法な名誉侵害には当たらないと判断された。
訴訟費用も、原告である莉奈の負担とされた。
青葉学園はその後、公式サイトに訂正と追悼の声明を掲載し、父の転落死が刑事事件として再捜査されていることを公表した。
掲載を見送っていた父の追悼記事も公開され、学校の不完全な説明を引用した報道機関には、訂正内容が送られた。
ろくに事実を確かめないまま父と距離を置いた人たちも、ようやく何が起きたのかを見直し始めた。
父の名前から、ようやく「加害者」という言葉が離れていった。
刑事捜査は、その後も数か月にわたって続いた。
検察官は証拠を精査したうえで、莉奈を殺人罪と虚偽告訴等罪で起訴した。父のスマートフォンからデータを削除し、端末を投げ捨て、転落現場を自殺に見せかけた行為も、犯行後の隠蔽行為として量刑判断の資料にされた。
玲奈の被害映像を拡散し、侮辱的なメッセージを繰り返し送った行為については、関連する法令に基づいて別に捜査された。
殺人罪が含まれるため、刑事事件は裁判員裁判となり、裁判官と裁判員が犯罪事実と刑を判断した。
民事判決の認定が、そのまま刑事裁判の結論になるわけではない。検察官は刑事法廷で、改めて一つずつ証拠を示さなければならなかった。
刑事裁判では、莉奈が二年前に玲奈の被害映像を拡散し、匿名で追い詰めた事実を隠すため、父に対して虚偽の被害申告を行い、SNSでも性的加害者であるかのように公表したと認定された。
父が真相へ近づくと、古いスマートフォンを渡すと偽って旧校舎屋上へ誘い出し、口論の末、故意に背中を押して転落させた。
莉奈には、拘禁刑十八年の判決が言い渡された。
判決の日、私は父の墓へ行った。
雨に濡れた墓石の名前は、きれいに洗われていた。私は判決の要旨と学校の訂正文を墓前へ置き、長いあいだ一人で座っていた。
どれだけ書類を重ねても、父が戻ることはない。それでも父が、加害者の汚名を着せられたまま眠り続けることだけは避けられた。
「お父さん、終わったよ」
墓地の木々を、風が揺らした。
返事はない。それでも初めて、父がここで静かに休めるような気がした。これまで墓前へ来るたび、真実を取り戻せていないことを父に詫びていた。その重さが、ようやく少しだけ軽くなった。
帰ろうとすると、墓地の入口に怜司が立っていた。
数か月前より痩せ、スーツも以前のようには整っていなかった。墓前へ近づかず、出口へ続く道の端で待っていた。
「神谷先生に、謝りたかった」
「父は、桐生さんの謝罪を必要としていません」
「一言謝ったところで、何も償えないことは分かっている」
「なら、もう言わないで」
怜司は目を伏せた。
莉奈が逮捕されたあとも、彼は自分が判断を誤っただけだと思っていたのかもしれない。刑事判決が確定し、ようやく自分が選んできたものの重さと向き合わざるを得なくなった。
失敗した結婚だけではない。父と私へ、自分の手で与えた傷も残っている。
「美月、俺は被害者を守っているつもりだった。莉奈を玲奈に重ねて、今度こそ信じ抜けば、妹を救えなかった後悔を埋められると思っていた」
「あなたが守っていたのは、玲奈じゃない」
私は怜司の横を通り過ぎた。
「似た経験を語る人を使って、自分の罪悪感を軽くしたかっただけ。自分は正しいことをしていると思い続けるためなら、証拠を無視して、疑問を口にした人を傷つけることもできた」
「君に償いたい」
「こちらの訴訟方針を漏らして、告別式では完全な確認もしていない映像を公開して、私に手を上げた。その行為については、弁護士会が調査します」
私は足を止め、最後に一度だけ怜司を見た。
かつて信じた人は、選択を重ねるたびに消えていった。私は彼の償いを求めていない。悔いる日を待つために、これからの人生を使うつもりもなかった。
「私たちの間には、もう償ってもらう関係さえ残っていません」
怜司は追ってこなかった。
8.弁護士会の処分
民事訴訟が終わったあと、私は怜司が所属する弁護士会へ懲戒請求を申し立てた。
調査の対象となったのは、私の訴訟代理人でありながら相手方当事者と親密な関係を結び、利益相反のおそれを適切な時期に説明しなかったこと、元依頼者から得た事件情報を莉奈のために利用したこと、告別式で不完全な映像を公表したことだった。
葬儀会館の防犯カメラ、アップロード用アカウントのアクセスログ、私が受診した病院の診断書も提出した。
事件の引継ぎさえ終わっていない段階で、元依頼者である私へ暴力を振るった行為も、調査対象に加えられた。
事務所のスタッフは、怜司が以前受け取っていた鑑定上の注意事項を提出した。
メールには、莉奈の十二秒のファイルについて確認できるのは、提出された範囲の内部に明らかな跳躍がないことだけで、前後に未提出の映像が存在するかどうかは判断できないと明記されていた。
怜司は鑑定の限界を知りながら、告別式では十二秒の映像を完全な証拠であるかのように扱った。
調査が始まると、怜司の所属していた法律事務所は、彼をパートナーから外し、新たな事件の受任を停止させた。
これは事務所内部の人事・管理上の措置であり、弁護士会による懲戒処分ではなかった。
その後、弁護士会の綱紀委員会が調査を行い、懲戒委員会の審査へ進んだ。
最終的に、依頼者の利益と弁護士への社会的信用を著しく損なったとして、怜司には退会命令が出された。
処分が確定すると、怜司は弁護士登録を失い、それまでのように弁護士として業務を行うことができなくなった。
怜司は二度、私に会いに来た。
一度目は、昔二人で選んだ指輪を実家の郵便受けへ入れていった。二度目は夜遅くまで玄関の外に立ち、顔を見て話したいと訴えた。
私は扉を開けなかった。
直樹は代理人として、私の同意なく訪問したり連絡したりしないよう、書面で通知した。それを受け取ってから、怜司が姿を見せることはなかった。
やがて、彼が青葉市を離れたと聞いた。
県外の企業のコンプライアンス部門で、社内規程の確認や訴訟対応の補助をする仕事に就いたらしい。弁護士を名乗って依頼を受けたり、訴訟代理人になったりすることはできない。
仕事も、家庭も、社会的な信用も、自分の選択によって少しずつ失っていった。
誰かが復讐として用意した結果ではない。彼が一つずつ選んだ行為の積み重ねだった。
直樹は東京での仕事を続けながら、何度も青葉市へ通い、父の遺産や学校関係の資料を整理する私を手伝ってくれた。
過去から早く離れろと急かすことも、助けた見返りに感情を求めることもなかった。出廷や会議があれば東京へ戻り、予定のない日には実家の庭木戸を直したり、私と一緒に書斎を整理したりした。
ある夕方、父のノートの間から古い写真が出てきた。
学校の卒業式で、若い直樹の肩に父が手を置いている。二人とも、自然な笑顔を浮かべていた。
写真の裏には、父の字で一行だけ書かれていた。
「この子はいつか、信頼される弁護士になる」
私は写真を直樹へ渡した。
彼は長いあいだ見つめ、指で写真の縁をそっとなぞってから、小さく笑った。
「神谷先生は、私を買いかぶりすぎです」
「先生を失望させていないよ」
「美月さんは?」
「え?」
「まだ、一人でここに残らなければならないと思っていますか」
私は窓の外を見た。
父が亡くなったあと、この町を離れれば、父まで置き去りにすることになると思っていた。けれど父が残したものは、この家だけでも、訂正された報道だけでもない。
父が信じた人たちと、最後まで守ろうとしたものだった。
「別の場所で暮らしてみたい」
直樹は行き先を決めようとせず、東京へ来るよう求めもしなかった。
ただ地図を広げ、私が新しく始められる場所を、ゆっくり選べばいいと言った。
「急がなくていい。東京でも京都でも、もっと静かな町でも」
「海の近くは?」
「いいと思います」
9.潮風の吹く町
遺産の整理と相続登記を終えたあと、私は不動産会社へ依頼し、父が残した戸建て住宅を売りに出した。
母は早くに亡くなっており、父の法定相続人は一人娘の私だけだった。正式な査定と権利関係の確認を済ませてから売却手続きを進め、急いで安く手放すことはしなかった。
父の本の大半は、青葉学園の図書室へ寄贈した。手元に残したのは、調査ノート、数枚の写真、長年使っていた万年筆だけだった。
半年後、私は青嵐県南部の汐見町へ引っ越した。
大きくはない海辺の町だった。駅の近くには商店街と古い住宅地があり、海に面したマンションが何棟か並んでいる。青葉市より、時間の流れがずっと穏やかに感じられた。
私は1LDKの賃貸マンションを借りた。ベランダから、遠くの防波堤が見えた。
直樹は今も、東京の法律事務所でパートナーを務めている。
事務所は汐見町商工会と社会福祉協議会から依頼を受け、月に数回、無料法律相談を実施していた。直樹はその担当として定期的に町へ来て、それ以外の日は東京へ戻り、以前からの事件を扱っていた。
私はもう一度、人を信じる方法を学ぶ必要があった。直樹も、自分が助けたことへの見返りとして、私の気持ちを求めなかった。
一緒に市場へ買物に行き、休日には海岸を歩いた。父の命日には、二人で青葉市へ戻ることもあった。
怜司の話は、少しずつ私の日常から消えていった。
企業のコンプライアンス部門で働き続けているとも、法律に関わる仕事そのものを辞めるつもりだとも聞いた。確かめなかったし、知りたいとも思わなかった。
ある夕方、私は直樹と防波堤に腰を下ろしていた。
夕日が海面を照らし、遠くの漁船がゆっくり港へ戻っていく。湿った潮の匂いがした。直樹は温かいコーヒーを私に渡し、隣へ座った。
「寒くない?」
「大丈夫」
「明日は雨になるかもしれない」
「じゃあ、海には来られないね」
直樹はしばらく黙り、沖へ目を向けた。
この半年、彼から恋愛の話を持ち出したことは一度もなかった。事件を手伝い、そばにいたのだから、自分には何かを受け取る権利があるとも考えなかった。
私がようやく、未来のことを穏やかに話せるようになったころ、初めて口を開いた。
「美月、これからも、そばにいていい?」
私はすぐには答えなかった。
五年間、婚約という約束があれば、信頼も守られると思っていた。けれど二人を支えるのは、約束そのものではない。
混乱の中でも、相手が事実を確かめようとするかどうか。
そして、拒まれたときに立ち止まれるかどうかだった。
私は両手でコーヒーを包み、直樹へ顔を向けた。
「うん」
直樹は潮風の中で、静かに笑った。
私たちは並んでマンションへ戻った。背後では波が何度も岸へ寄せ、海沿いの街灯が順番に灯っていった。
大げさな約束も、すぐに関係へ名前を付けることもなかった。それでも私は初めて、自分の未来を楽しみに思えた。
父を失った痛みが消えたわけではない。一度裁判に勝ったからといって、以前の私に戻れたわけでもない。
ただ、もう一人で法廷に立つ必要はなかった。
私の人生は、ここからもう一度始まる。
——完——




